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岸本遠綱は平家と戦いたい

富士川の合戦の敗北により、平氏の威信は失墜した。近江国の武士達は平家の横暴に反感を抱いており、治承四年一一月に反平家の挙兵をした。近江国愛知郡岸本を本拠とする清和源氏満季流の岸本(平井)遠綱(重綱)も挙兵した。


遠綱は清和源氏満季流高屋氏の分家である。高屋氏は高屋為貞、高屋為房、高屋実遠、高屋定遠と続く。近江国神崎郡高屋庄を本拠とする。遠綱は近江国愛知郡岸本(滋賀県東近江市岸本)に進出し、分家を興した。遠綱は林田氏の初代・林田肥後守泰範の祖父である。遠綱は建久二年の強訴に巻き込まれた人物である。これによって歴史上に名前を残すことになった。


近江の反平家の武士の代表格が山本義経である。一一月二〇日に弟の柏木義兼(甲賀入道)と共に挙兵した。浅井郡山本郷を本拠としたから山本義経であるが、本姓は源義経である。清和源氏義光流(近江源氏)である。頼朝の弟の九郎判官義経とは別人である。山本山城を本拠地とした。山本山城は戦国時代に浅井氏の本拠の小谷城の支城になる。


しかし、この挙兵は散々であった。平家は平知盛らの大軍を派兵した。山本義経は山本山城に籠城したが、落城した。関東や東海道では情けない平家であったが、畿内近国では強大であった。山本義経は落ち延びた。


木曽義仲が寿永二年(一一八三年)五月一三日に倶利伽羅峠の戦いで平維盛率いる平氏の大軍を破った。その勢いで六月一三日に近江国へ入った。岸本遠綱や山本義経ら近江の武士は義仲のところに馳せ参じた。


木曽義仲が攻めてくると平家は寿永二年(一一八三年)七月に都落ちを余儀なくされた。平家の栄華は長くは続かず、「驕る平家は久しからず」である。平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じたが、後白河院を逃がしたことは失策であった。


京では後白河院の主導で八月に後鳥羽天皇が即位した。後鳥羽天皇は三種の神器なしで即位したため、正統性が疑問視される。それがコンプレックスになり、天皇らしくあろうとした。


京は木曽義仲が制圧したが、平家は西国で勢力を保ち、坂東では頼朝が勢力を築いた。九条兼実の日記『玉葉』寿永二年八月一二日条には「大略天下の体三国史の如し」と書かれた。


義仲の天下は長く続かなかった。義仲は後白河法皇のいる法住寺殿を襲撃するなどで人心を失い、源範頼と義経率いる鎌倉軍が迫っていた。ここで岸本遠綱と山本義経の運命が分かれた。

山本義経は義仲と運命を共にした。山本義経は義仲により京の警備を担当する武将の一人に配置され、伊賀守や若狭守に任命されるなど義仲軍で重要な役割を果たしており、義仲についたことは自然な選択である。これに対して遠綱は義仲から離れて鎌倉軍に味方した。


朝廷は寿永三年四月一六日に元暦に改元した。平家は後鳥羽天皇の即位も改元を認めず、安徳天皇を奉じて寿永を使用し続けた。平氏は頼朝と義仲との対立に乗じて一度は勢いを盛り返し、摂津国福原まで盛り返した。


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