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畠山重忠は忠誠を尽くしたい

頼朝は挙兵すると伊豆目代の山木兼隆を襲撃して討った。平家は関東の武士に頼朝討伐を命じた。大庭景親が頼朝鎮圧の軍を進めた。頼朝は相模国三浦半島を支配する三浦一族を頼みとしており、三浦一族に合流するために相模国に進出した。三浦一族も頼朝を支援するため、三浦半島を出て相模湾を西に進んだ。


三浦一族は丸子川まりこがわまで来たが、大雨で川が増水して渡れなかった。丸子川は後に酒匂川さかわがわと呼ばれる。その間に頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に敗れ、敗走してしまう。土肥実平は頼朝らを真鶴岬から安房に逃した。頼朝の敗北を知った三浦一族は本拠地に撤退する。


武蔵国男衾郡畠山郷では平家の頼朝追討の命令に応じて畠山次郎重忠が畠山氏の郎党を率いて出陣した。当主の重能は武蔵国の武士達を率いて大番役で上洛して不在であった。このため、息子の重忠が出陣した。重忠にとって初陣であった。頼朝は重忠を味方に引き入れようとしたが失敗に終わった。武蔵国は平知盛の知行国であり、重忠は平家に忠誠を尽くした。


畠山氏は武蔵国の武士団である秩父平氏である。重忠は長寛二年(一一六四年)に畠山重能の息子として生まれた。重忠は坂東武士の鑑と称えられるほどの武将であったが、北条氏によって冤罪で滅ぼされる。重忠は勇猛果敢な武将だった。そのため、北条時政にとっては目障りであり、時政は重忠に濡れ衣を着せ、冤罪によって抹殺した。鎌倉武士には多くの悲劇があるが、その中でも畠山次郎重忠の冤罪は悲劇的である。


重忠は武蔵国から相模国に入り鎌倉の由比ヶ浜に進軍した。

「この者は坂東武者か」

重忠の軍勢を見た人々は噂した。

「さすが坂東武者だ」

感心して軍勢を見送る者までいた。


頼朝討伐に向かう重忠は由比ガ浜で撤退する三浦一族と遭遇した。重忠は三浦一族と戦うつもりはなかった。重忠の母親は三浦義明の娘であった。重忠は和睦を働きかけた。ところが、三浦側の和田義茂が畠山勢を攻撃し、これに怒った畠山勢が応戦して、由比ヶ浜の戦い(小坪坂の合戦)となった。

「武蔵国の住人秩父の末流、畠山庄司重能が一男次郎重忠」

重忠は名乗りを上げた。この戦いは双方に死者が出て停戦となり、撤兵した。


重忠は平家の命を受け、三浦一族の本拠の三浦半島に攻め込む。三浦一族は本拠の衣笠城に立て籠もった。

「降伏を勧めます」

三浦義村は重忠を頼るべきだと進言した。これに対して三浦義明は抗戦を選択した。

「それでは仕方がない」

重忠は城攻めを決意した。

この衣笠城の戦いの経緯については異説がある。重忠は由比ガ浜の戦いで三浦一族に敗北した。敗戦の恥を注ぐために衣笠城を攻撃したとする。

「重忠は平家の重恩に報いるために合戦したというが、平家方の指揮官たる大庭景親の姿はないし、衣笠城攻撃は由井浦での敗戦の恥をすすぐためという説明があり、あきらかな私怨、仕返しである」(菱沼一憲『源頼朝 鎌倉幕府草創への道』戒光祥出版、2017年、39頁)


三浦一族は奮戦したが、重忠の攻撃は激しかった。重忠の猛攻に耐えられず、当主の三浦義明は自害した。三浦義村ら残りの三浦一族は城を捨てて船で海上へ逃れ、安房国に向かった。三浦半島と安房国は江戸湾を挟んだ向かい側である。三浦一族にとって馴染みの場所であった。


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