源頼朝は挙兵したい
源頼朝は伊豆で流人生活を送っていた。治承四年(一一八〇年)四月に後白河法皇の皇子である以仁王の平家追討の令旨を受け取ったが、動かなかった。六月一九日に三善康信の弟の康清が伊豆国北条に来て、平家の動向を伝えた。
「平家は以仁王の令旨を受け取った源氏を追討しようとしている。このため、奥州に逃げた方が良いでしょう」
佐々木秀義も平家の家人の大庭景親から頼朝討伐の密事を聞き、子の定綱を通して頼朝に伝えた。秀義は近江国蒲生郡佐々木荘を本拠とする宇多源氏である。平治の乱では源義朝に属して戦った。義朝が敗れたため、佐々木荘を失い、一家で関東に落ち延びていた。定綱は伊豆に流された源頼朝に奉仕していた。
頼朝は決断を迫られることになる。遂に八月一七日に挙兵した。以仁王の令旨が挙兵の大義名分であるが、令旨を受け取ってもしばらく動いておらず、これが挙兵理由の全てを説明するものではない。挙兵には幾つかの要因がある。
第一に平家が令旨を受けた諸国の源氏追討を計画しており、討伐される前に挙兵したとする。この説に立つ場合、頼朝には奥州平泉に逃亡するという選択肢もあった。逃亡ではなく、挙兵を選択した理由が問題になる。北条政子らの伊豆での生活を失いたくなかったという理由があるだろう。頼朝自身にも一所懸命の鎌倉武士のマインドがあった。
「源頼朝は以仁王の呼びかけに応じたというより、以仁王・源頼政が敗死した後、平清盛が諸国の源氏への監視を強めた結果、むざむざと討たれるよりはと半ば自暴自棄の形で挙兵したという方が実情に近い」(呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書、2018年、67頁)
第二に後白河院の密命が下ったとする。後に頼朝は後白河院を「日本一の大天狗」と罵る、頼朝は後白河院に恩義があった。頼朝は平治の乱で捕らわれて殺されるところを池禅尼に助命された。しかし、これは池禅尼自身の慈悲心よりも後白河院の姉の上西門院の意向を反映したものであった。
「後白河院とその姉上西門院は、平治の乱で彼を救った恩人である。その後白河が、今や平清盛の暴虐によって幽閉され、院政を停止されていた。頼朝が奮い立つのも当然かもしれない」(元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』中公新書、2011年、206頁以下)
第三に三浦氏や千葉氏ら有力東国武士団の後押しである。平家は多くの国を知行国とし、目代を派遣して東国の直接支配を進めた。在地の武士団は圧迫を受けており、平家に対抗する神輿を望んでいた。
鎌倉幕府は伝統的な歴史観では朝廷の支配下で低い身分に甘んじていた武士が自立したと説明される。しかし、既に東国は朝廷の支配が弱まり、東国の武士団は元々自立していた。ところが、平家政権が成立すると平家が京から全国の武士を統制しようとした。これに対して東国武士団は反発した。朝廷への反発よりも平家への反発であった。