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平清盛は治承三年の政変を起こしたい

鹿ケ谷の陰謀は平家に対する反感を持っている人々が存在するという事実を公然に明らかにしたという効果が生じた。平家は逆に追い込まれていった。


平清盛は治承三年(一一七九年)に治承三年の政変を起こし、後白河院政を停止した。これによって初の武家政権としての平家政権を確立した。平氏政権は朝廷の権威を最大限に利用し、それ故に武家政権としての限界を有していたと位置づけられる。

しかし、清盛は天皇家を神聖不可侵の存在と崇めていた訳ではない。治承三年の政変では後白河法皇を幽閉した。続く福原遷都も天皇家の意向を無視した施策であった。これらの出来事は平家の横暴として語られがちであるが、清盛の反骨精神がある。


貴族化した平氏と幕府を開いた源氏は対比されがちであるが、平氏政権にも地頭の任命など武家政権的性格があった。また、朝廷からの独立を企図したとされる頼朝も自分の娘を天皇の后にしようと画策しており、平氏政権と連続性を有している。平清盛なくして武士の世は来なかった。


一方で平家の強引さは各地で反発を受けた。強権がさらなる反発を生む悪循環に陥った。『平家物語』で「驕る平家は久しからず」「盛者必衰」と言われるとおりである。


清盛は鹿ケ谷の陰謀では延暦寺討伐を避け、寺社勢力との関係に配慮していた清盛であった。しかし、次第に寺院勢力が政治に介入してくることを嫌うようになる。


高倉天皇は治承四年(一一八〇年)二月二一日に譲位し、安徳天皇が即位した。高倉院政の下で天皇家外戚の平家の政権が固まる。清盛は高倉上皇が上皇になってから最初に参拝した神社を平家の信仰する厳島神社とした(鳥越碧『建礼門院徳子』講談社、2011年、109頁)。

上皇になって最初の社参は石清水八幡宮や賀茂神社などと先例では決まっていた。この先例無視は寺社勢力軽視と受け止められ、寺社勢力の反感を買う。それまで互いに競い合っていた寺社勢力が反平家で一致団結するようになった。延暦寺と園城寺と興福寺が提携して後白河院の奪取を企てているとの風聞があった。

東急不動産だまし売り裁判で東急不動産はマンションだまし売り被害者本人を無視して話を進めようとし、被害者から反発を受け、提訴された(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年、14頁)。順番を間違えると、まとまるものもまとまらなくなる好例である。

平家は比叡山延暦寺とは対立を深めていった。また、興福寺とも折り合いが悪くなっていった。平家は最終的には源氏に滅ぼされるが、それ以前に寺社勢力などの旧来の支配層を敵に回していた。


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