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藤原成親は鹿ケ谷の陰謀を冤罪と訴えたい

平治の乱に勝利した平氏は我が世の春を謳歌する。平家一門は昇進を重ねた。清盛は太政大臣という最高の位に昇った。同時に一族の多くの者達も高位高官に就き、栄華を誇った。


しかし、平家への反発は強く、強権で乗り切らざるを得ない場面も多かった。時の権力者となった平家一門は横暴な態度を取るようになった。自分の意に従わぬ者は容赦なく左遷し、気に入らない貴族や官吏を次々と処罰していった。平家の専横に多くの人々が不満を持った。


安元三年(一一七七年)に鹿ケ谷の陰謀が起きた。後白河法皇を中心とする反平氏勢力が結束した謀議とされるが、平清盛がでっち上げた冤罪事件との見方がある。清盛の動機は二説ある。

第一に既に平家は後白河院と対立関係にあり、冤罪によって後白河院の近臣勢力を潰そうとした。

第二に冤罪事件をでっち上げて延暦寺討伐を有耶無耶にしようとした。後白河院と比叡山延暦寺は対立しており、後白河院は清盛に延暦寺の討伐を命じた。しかし、清盛は延暦寺と良好な関係を維持したかった。この説に立つと鹿ケ谷の陰謀で後白河院を追求しなかったことも、そもそも後白河院と対立することが目的ではなかったためとなる。


「平氏一門に批判的な西光・成親を延暦寺問題で別件逮捕しておいて、陰謀の罪を着せ、死刑に処すことこそが清盛の狙いだったのではないだろうか」(呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書、2018年、58頁)

「当初、西光は明雲を後白河に讒言したという理由で逮捕され、その後の拷問の中で「入道相国を危ぶむべき」計画を白状したという。別件逮捕でとりあえず身柄を拘束し、取り調べの過程で「謀議」の件が出てきたのだから、自白の内容自体が清盛によってでっちあげられた可能性がある」(中丸満『源平興亡三百年』ソフトバンク新書、2011年、140頁)。

「山荘での会合には後白河院も参加していたとされるが、多田行綱の密告も含めて、鹿ケ谷事件は清盛による局面打開に利用されたところが大きく、密議の内容も本当に平家打倒を目指したものか否か、なお、検討課題とすべき点が多い」(森公章『武者から武士へ 兵乱が生んだ新社会集団』吉川弘文館、2022年、214頁)


鹿ケ谷の陰謀では藤原成親ふじわらのなりちかが逮捕され、備前国に流罪になる。配流先では食事を与えられず、殺害された。「死人に口なし」とばかりに病死として処理された。

成親は鳥羽院第一の寵臣の藤原家成の息子で、鳥羽院と後白河院の近臣になった。成親は久安二年(一一四六年)に讃岐守になる。家成と成親は親子で讃岐守になった。


成親は後白河院の近臣として活躍したため、崇徳院の怨霊の祟りと噂された。鹿ケ谷の陰謀が清盛によるでっち上げの冤罪ならば成親は冤罪で殺されたことになる。後白河院側には思いもよらぬ理不尽な話になり、当時の感覚では怨霊の祟りと考えたくなるだろう。


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