藤原信頼は平治の乱を起こしたい
後白河天皇は譲位し、二条天皇が践祚した。後白河上皇が院政を開始したが、二条天皇の親政を求める派閥が登場する。信頼と義朝に二条親政派が結合して平治の乱が起こる。但し、後白河法皇近臣の信頼と二条親政派は元々対立する立場である。最初から矛盾を抱えた同盟関係であった。
信頼と義朝は平治元年一二月九日(一一六〇年一月一九日)に院御所を襲撃した。平治の乱が始まる。信頼は後白河上皇の身柄を確保し、内裏に幽閉した。事前に襲撃を察知していた信西は脱出するが、逃亡先で発見され自害へと追い込まれた。
清盛は熊野詣に出かけていて留守であった。僅かな供を連れていただけであった。旅先で反乱を知った清盛は動転した。
「大変なことになった。筑紫に落ち延びて、そこで捲土重来を期そう」
紀州の武士の湯浅宗重が清盛を元気づけ、兵力を提供した。
「京までお送りしましょう」
帰京した清盛は信頼に従うように見せかけて油断させた。この頃には二条親政派も信頼に失望しており、清盛に期待するようになっていた。
二条親政派は二条天皇を御所から脱出させ、六波羅の清盛の屋敷に行幸させた。後白河上皇も仁和寺に脱出した。この時点では後白河上皇よりも二条天皇が重要人物であった。清盛にとっては二条天皇を担げれば大義名分は十分であった。
後白河上皇は残っていると信頼の旗頭に担がれかねない。二条天皇と後白河上皇の対決となると二条天皇に大義名分がある。この頃はまだ天皇親政が正しいという感覚が建前としては存在した。後白河自身が保元の乱では天皇として崇徳院と戦い、勝利した。二条天皇と戦う旗頭になることは自己否定になる。後白河の脱出は自分の為であった。
天皇と上皇の脱出を知った信頼は狼狽した。
「日本第一の不覚人である」
義朝は脱出を見逃した信頼を罵倒した。
清盛は二条天皇から信頼と義朝を討伐する命令をもらい、襲撃した。摂津源氏の源頼政は清盛に味方した。
「源氏でありながら平氏に味方するとは何事か。頼政の裏切りは源氏の名を汚すものだ」
義朝は怒って頼政を非難した。
「日本一の不覚人の信頼に同心した義朝こそ源氏の恥だ」
頼政は言い返した。河内源氏と摂津源氏に上下関係はなく、頼政は義朝が摂津源氏を含む清和源氏の棟梁とは認めていなかった。
清盛は信頼を捕らえて六条河原で斬首した。義朝は東国に逃げて再起をはかろうとするが、尾張で配下の武将に裏切って殺害された。後に義朝の息子の頼朝は裏切りに厳しい姿勢をとるが、父親の出来事があったのだろう。
頼朝は平家に捕らわれた。殺されるところを池禅尼の歎願で助命された。これには幾つかの背景がある。
第一に清盛の継母の池禅尼の慈悲心とする。頼朝が早世した子の家盛に生き写しであり、池禅尼は断食して清盛に助命を求めた。
第二に頼朝が仕えていた上西門院や熱田大宮司家(頼朝の母の実家)の働きかけとする。池禅尼は上西門院らの意向を清盛に伝える立場であった。
第三に平治の乱の敗者の扱いは厳しいものではなかった。平治の乱は保元の乱と異なり、天皇と上皇の対立というものではなかった。信西と信頼という院近臣同士の対立であった。このため、敗者は皇位を奪う謀反人というものではなく、敗者側の人間への糾弾は強いものではなかった。
保元の乱や平治の乱は武力で権力闘争が決着する時代となったが、武力の時代と武士の時代は同義ではない。戦争の結果によっては貴族が武士を統率する歴史になった可能性がある。保元の乱で藤原頼長、平治の乱で藤原信頼が敗北し、武士を統率できる貴族が存在しなくなった。この結果、武士の棟梁自身が権門になっていく。
平治の乱は大蔵合戦後の坂東の勢力図にも影響を及ぼした。源義朝が敗北したことは畠山重能に打撃であった。重能が大蔵合戦で奪った武蔵国留守所惣検校職は河越重頼に奪還されてしまう。
重能は平家の家人になる。義朝に仕えていた武士達が平家に鞍替えすることは容易に受け入れられた。「源氏累代の家人」という表現は後にプロパガンダ目的で作られたものであり、この時代の源氏との主従関係の結合は、それほど強いものではなかった。重能は平氏の威光を背景に勢力を拡大した。