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源義朝は不満を抱きたい

保元の乱に勝利した後白河天皇は治天の君として、実権を握った。院政期は院が治天の君となるが、実権を持つ者が治天の君であり、天皇が治天の君となることもある。


しかし、後白河天皇は兄の崇徳院を謀反に追いやって治天の君となったものであり、権威は弱かった。元々、天皇になる立場ではなく、政治への関心も薄かった。このため、近臣の信西(藤原通憲)が政治的な主導権を握った。保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏を再建した。信西政権と言ってよい。この信西の突出に対して、同じ後白河側近の藤原信頼が対立する。


信頼については無能説と有能説が分かれる。

無能説が伝統的見解である。『平治物語』は信頼を「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし、ただ朝恩のみにほこりて」と酷評する。恐怖で馬に乗ることができず、落馬して顔を討ち、鼻血を出したと描かれる。

有能説は武門の棟梁となり得る存在であったとする。信頼は藤原隆家の子孫である。隆家は藤原道長と権力を争い、刀伊の入寇では太宰権帥として武士達を指揮して撃退した武勇の人である。その気風は信頼にも受け継がれており、自身は武士ではないが、武士を統率する役回りであった。平家物語は猛き者として「承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼」を紹介する。


信頼が武蔵守の時に源義朝の息子の義平は武蔵国比企郡大蔵館を襲撃して源義賢を滅ぼす大蔵合戦を起こした。信頼と義朝は平治の乱以前からつながっていた。また、信頼は異母兄の基成を陸奥守・鎮守府将軍とし、藤原秀衡に基成の娘を嫁がせ、奥州藤原氏とも関係を持った。


武士の側では平清盛と源義朝がライバル関係になる。義朝は右馬権頭という官職を得た。しかし、義朝はこれに不満を抱いた。その結果、左馬頭になった。それでも義朝は清盛と比べて恩賞面で不遇だった。但し、保元の乱以前から清盛と義朝では差があった。清盛が高位になることは当然という面がある。


義朝は自分こそが戦功の第一との自負があった。これは義朝個人の主観だけでなく、客観的にも評価できるものであった。清盛は戦闘に消極的であった。それは清盛が崇徳院とも近い関係があったためである。その清盛が後白河院に味方したことが保元の乱の勝因になる。このため、戦闘には消極的でも清盛の功績は大きい。ここは義朝とギャップが生まれるところであった。


義朝は信西が実力者であることは認識しており、信西と近付きたかった。このため、自分の娘を信西の息子に嫁がせる縁談を申し入れた。

「我が子は学生です。武士の婿には相応しくありません」

信西はあっさりと断ってしまった。


信頼と義朝の関係の説明は、信頼無能説と有能説によって分かれる。無能説では保元の乱の後に不満を持つ者同士が結びついたとなる。有能説では信頼を主君とする主従関係に近いものとする。


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