崇徳院の怨霊を静めたい
後白河は陰陽師に崇徳院の呪いを解くことを求めた。しかし、崇徳院の恨みは深く、結局、呪いを解くことはできなかった。陰陽師は崇徳院の怨念を鎮めるために、讃岐国に赴いた。そして、讃岐国に渡ってすぐ、噂を聞いた。
「その噂というのは何でしょうか?」
「何でも、讃岐国には恐ろしい化け物が出るらしい」
「どんな化け物なんでしょう?」
「それがよく分からないんだよ。ただ、夜になると現れて人を喰らうそうだ。しかも、その化け物は白装束を着ていて、顔は髑髏のようだと言う。だから、『骨かぶり』と呼ばれているとか。そして、その正体は崇徳院だというのだ」
「でも、そのようなものは嘘ですよね」
「ああ、もちろん、作り話でしかない。おそらく、誰かが面白半分に流した話だろう。だけど、崇徳院が蘇ったという噂は京の都にも伝わっている。だから、だから、崇徳院が復活したのではないかと怯えている者もいるのだ。それに、崇徳院の怨霊が京に戻ってくるという話もある」
「なるほど。それで、崇徳院が復活するかもしれないという根拠は何なのですか?」
「まず、崇徳院は『御廟参り』と呼ばれる儀式を行っていた。これは天皇が崩御した後、天皇に代わって政治を行う者が天皇の御霊に参ることだ。崇徳院は亡くなった後、自分が死んだことを公表せず、密かに墓を作ってもらい、そこに籠っていた。ところが、ある時、崇徳院の墓に何者かが現れ、中に納められていた遺骨を奪い去ったという。その後、崇徳院の怨霊は姿を現し、都の人々を苦しめるようになったというわけだ。この話は知っているかい?」
「はい。知っています」
「そうか。なら話が早いな」
「ということは、崇徳院の怨霊が姿を現すようになったということですね」
「ああ。用心に越したことはないだろう」
平治の乱の信西や源義朝の死も崇徳院の祟りと考えられた。平清盛の熱病の死も崇徳院の祟りと考えられた。しかし、一番の主敵の後白河法皇が不幸にならないのは筋が通らない。崇徳院は歌人の西行が讃岐を訪れた際にも怨霊となって現れた。
「我を尊べ、さすれば国は平らかになろう」
崇徳院は京の人々から恐れられた。
「崇徳院の怨霊の祟りは怖い」
「崇徳院の怨霊は何をするか分からない」
「崇徳院の怨霊は恐ろしい」
日本三大怨霊は菅原道真、平将門、崇徳院である。このうちの道真と崇徳院の二人が讃岐国の林田と縁がある。道真は讃岐守になり、林田湊で庶民の生活を見て漢詩を作った。崇徳院は保元の乱後に讃岐国に流されて林田郷で生活した。
平将門は林田と無縁であるが、将門と同時期に反乱を起こした藤原純友が讃岐国府を攻撃した。讃岐国府の海の入口が林田湊であり、林田湊が先ず攻撃された。平将門の新皇の信託は八幡大菩薩に加えて、菅原道真の霊も出している。
道真や将門と比べると崇徳院の怨霊は皇国史観に利用された要素が強い。保元の乱から武士の世になり、天皇の政治的実権が失われた理由を崇徳院の怨霊とする説が明治時代に出た。
崇徳院の呪いの言葉「皇を取って民となし、民を皇となさん」は天皇が政治的実権を失う形で、その後の日本史で実現している。さらに日本国憲法の主権在民で「民を皇となさん」が実現した。日本史上最強の怨霊である。
昭和の戦後にも崇徳院の怨霊の怒りを思わせる現象が起きた。昭和三十九年(一九六四年)九月二十八日に白峯御陵で崇徳院の八〇〇年祭が執り行われた。式典当日の午前〇時過ぎに白峯山麓の林田小学校で失火が起き、校舎を全焼した。




