衣縫猪手と漢人刀良は林田に暮らしたい
播磨の林田は交通の結節点であり、古代から外来者の争いが激しかった。古くから外来文化が摂取された豊かな里であった。衣縫猪手と漢人刀良も外部から播磨の林田に来た人物である。彼らは百済からの渡来人であり、讃岐の林田から播磨に移住してきた。この地を出身地と同じように林田と名付けた。
しかし、この地には伊和大神の子どもの伊勢都比古命と伊勢都比売命の兄妹がいた。兄妹は父の国占めの伝統を守って、外来者を寄せつけなかった。林田では人家ができる度に神々の禍が下され、人々は平穏な生活を送れなかった。
そこで猪手と刀良は山すそに社を建てて神々を祀った。これによって兄妹の怒りが静まり、人々は平穏に暮らせるようになった。林田は里を形成し、兄妹を祀った地域は伊勢野と呼ばれるようになった。後の兵庫県姫路市林田町上伊勢と下伊勢である。この時の祭祀は林田町上伊勢の多賀八幡社に受け継がれている。
伊勢野の伝承には様々な解釈が可能である。
第一に自然に対する人間の開拓とする。神の領域であった自然を開拓することの正当化する。
第二に先住民と渡来人との対立とする。播磨の林田に渡来人が進出し、先住民との間に紛争が多くなった。渡来人が先住民の神を祀ることで先住民との間に平和が訪れた。または渡来人が先住民を滅ぼした後に怨霊鎮魂で祀った。
一方で猪手と刀良は自分達の祖として伊勢都比古命と伊勢都比売命を祀ったとする説がある。この立場では伊勢都比古命と伊勢都比売命は自分達の神となる。
伊勢都比古命と伊勢都比売命は紀伊半島の東側の伊勢に進出し、石で城を造り、居住した。これは猪手と刀良に敗れた林田の先住民が伊勢に移ったと解釈することができる。逆に猪手と刀良が自分達の祖として伊勢都比古命と伊勢都比売命を祀ったとする立場では、猪手と刀良の一族が伊勢にも進出したとなる。
この伊勢都比古命と伊勢都比売命のところには阿部志彦神が侵略してきた。しかし、伊勢都比古命と伊勢都比売命の石の城の守りは固く、阿部志彦神は勝てずに退却した。
神武天皇が東征を行い、紀伊半島に上陸した。神武は天日別命に命じた。
「はるか東方に国がある。ただちにその国を平らげよ」
天日別命が攻めてくると伊勢都比古命と伊勢都比売命は戦わずに信濃に逃れた。
「私の国を天孫にたてまつりましょう。私は八風を起こし海水を吹き上げ波浪に乗って東に去りましょう」
天日別命は神武に報告すると神武は言った。
「国の名は国津神の名を取って伊勢としよう」
これが伊勢国の名前の由来になる。神武は天日別命に伊勢の統治を任せた。
播磨の林田から分離した場所に上岡里がある。後の兵庫県たつの市神岡町である。大倭国の畝火、香山、耳梨の三山の神が争っていた。出雲国の阿菩大神がと聞いたので、これを諌めて止めようと出かけた。
しかし、林田まで来た時に争いは終わったと聞いた。そこで阿菩大神は乗ってきた船を覆して、そこに鎮座することにした。故に神阜と名付けられた。阜の形は覆した船に似ている。この伝承は林田に出雲から進出した勢力が土着したことを物語る。