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摂関家は権門化したい

保元の乱は皇室や摂関家の争いであるが、戦争の中心は武士が担った。武士の時代の始まりを印象付ける戦乱である。慈円『愚管抄』は保元の乱から「武者の世」が始まったとする。

「鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトハ起テ後、武者ノ世ニナリニケル」

しかし、武士の時代となったことは結果論である。むしろ保元の乱は権門の時代を印象付ける戦乱であった。


保元の乱は後白河天皇・藤原忠通と崇徳院・藤原頼長が対立した。権力をめぐる対立は過去にもあったが、平安時代は戦乱にはならなかった。宮廷の権力闘争で失脚すると、それで終わってしまった。権力闘争の勝者が武力を持ち出すことは無く、敗者が武力で抗うこともなかった。たとえば菅原道真は冤罪で大宰府に左遷され、そのまま大宰府に行き、そこで亡くなった。


鳥羽院没後の宮廷の権力闘争では藤原頼長が謀反人とされた。これも冤罪であるが、これまでの歴史では頼長が失脚して終わり、戦乱にならなかった。保元の乱が起きた背景は、摂関家が国家権力の正規軍に対抗し得る武力を持つ権門であったためである。逆に後白河天皇方は摂関家の権門を潰さなければ安心できず、何が何でも謀反人として追い詰めた。


「摂関家が権門化する以前であれば、崇徳院や頼長は政治的に失脚するにとどまり、戦乱が発生することはなかったであろう」(佐伯智広「保元・平治の乱」高橋典幸編『中世史講義【戦乱編】』ちくま新書、2020年、21頁)


摂関家の軍事力の中核は源為義や平忠正らの武士である。ここから武士の力を借りなければ権力闘争を解決できなくなったと評価される。しかし、源為義や平忠正らは摂関家の家人と言って良い存在であった。源氏は東国に勢力を拡大したが、それは摂関家の荘園管理を通じて行われた。


頼長は従者同士の争いを原因として藤原家成の邸宅を破壊するなど乱暴な行為がある。それは悪左府と呼ばれた頼長の個性によるものと理解されることが多いが、摂関家が武士団を動かす私的権力になっていたからできたことである。


伝統的な歴史観では平安時代後半から公家が無気力になり、力を失い、武士が取って代わった時代と考えられる。しかし、公家の時代から武士の時代という二項対立の歴史観は一面的と批判されている。逆に将軍家も朝廷を軍事面で守護する軍事権門という権門の一つという見解が出ている。

公家も会議で政治に取り組んでいた。公家には政治をほっぽり出して和歌や蹴鞠に明け暮れたイメージがある。特に源氏物語などの女房文学を読むと、その印象を強くする。しかし、それは公家の生活の一面であって、政治生活もあった。

とはいえ、会議中心は生産的ではない。その関心は専ら人事である。現代の公務員組織にも通じる。民間企業で社内政治に長けたと言えばビジネスができる人という意味ではない。公家の政治も似たような印象を受ける。そのような政治体制の特徴は無責任である。保身第一の無能公務員体質に通じる。


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