畠山重能は大蔵合戦を戦いたい
河内源氏では源為義と義朝の親子が対立していた。為義は摂関家の藤原忠実に仕えた。その間に義朝は東国に下向した。義朝は為義から廃嫡同然の扱いを受けた。
「為義が忠実に仕えるに際して、忠実を蟄居に追い込んだ白河院近臣の娘を母とする義朝が忌避されたとみるべきであろう」(元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』日本放送出版協会、2004年、52頁)
義朝は相模国の三浦氏の婿になり、鎌倉を拠点とした。義朝と三浦氏の娘の間には義平が生まれた。その後に義朝は上京し、義朝は妻の実家の熱田大宮司家を通じて鳥羽院との関係を深めた。鎌倉には息子の義平を残した。
為義は義朝と対立し、関東が義朝の勢力で席巻されることを阻止するため、武蔵国に息子の義賢を派遣した。義賢は秩父平氏の秩父重隆の婿になり、仁平三年(一一五三年)に武蔵国比企郡大蔵館に迎えた。
秩父平氏は坂東八平氏の一つで、武蔵国留守所惣検校職を継承していた。惣検校職は武蔵国の武士団の統率権や監督権を持ち、武蔵国の在庁官人トップの職である。武蔵国では古くから国司の支配が形骸化し、惣検校職が実務を取り仕切っていた。
検校は寺院における寺務の監督を意味していた。監督するという動詞であったが、監督者の職名になった。これは執権や奉行と同じである。国衙においては郡司の監督者として使われることになった。田所検校や税所検校など様々な検校が存在したが、その頂点に立つ者が惣検校であった。
秩父重隆は秩父重綱の次男である。重綱には長男の重弘と次男の重隆がおり、家督は重隆が継いだ。これに重弘の息子の畠山重能は不満を抱いていた。重隆が義賢と結んだため、重能は為朝の息子の源義朝とその息子の義平と結んで対抗した。
義平と重能は久寿二年(一一五五年)に大蔵館を襲撃し、義賢と重隆を攻め滅ぼした。これが大蔵合戦である。大蔵合戦に勝利した義平は鎌倉悪源太の異名を持った。義賢には二歳の息子の駒王丸がいた。義平は殺害を命じたが、幼児殺害に反発した重能が信濃国に逃がした。坂東武士の鑑と称賛された畠山重忠の父親らしい。重能は卑怯なことを嫌う清廉な硬骨漢であった。
重能は大蔵合戦に勝利することで大蔵の地や秩父平氏嫡流の族長の地位、惣検校職を獲得した。大蔵合戦は私戦である。朝廷から罰されても不思議ではない。しかし、義平らが罰されることはなかった。当時の武蔵守の藤原信頼が黙認していたためである。この頃から義朝と信頼はつながっており、平治の乱に結びつく。
敗北した重隆の系譜は孫の河越重頼が継承した。重頼は大蔵の地を奪われて河越館(埼玉県川越市)を新たな拠点としたため、河越氏となった。
大蔵合戦に付随して武蔵国足立郡の郡衙のあった埼玉県さいたま市桜区も戦場となった。もともと義賢は武蔵国比企郡大蔵館を拠点として南に勢力を伸ばそうとし、義平は鎌倉を拠点として北に勢力を伸ばそうとした。武蔵国足立郡は両勢力の対立の最前線になった。足立郡は埼玉県鴻巣市から東京都足立区までの細長い領域である。郡衙は埼玉県さいたま市桜区大久保領家にあったと推定され、それ故に「領家」という地名になっている。
埼玉県さいたま市桜区道場には大伽藍があったが、大蔵合戦の余波で炎上した。『新編武蔵風土記稿』では保元の乱の兵火で焼失したとする。『新編武蔵風土記稿』は江戸時代に昌平坂学問所地理局が編纂した地誌である。保元の乱は京で起きた戦争であり、むしろ保元の乱の前年の大蔵合戦と考えられる。
大蔵合戦は河内源氏の源義朝と父親の源為朝の親子対立が背景にあった。大蔵合戦によって源為義と義朝の親子対立は決定的になった。この対立は翌年の保元の乱で直接対決になる。大蔵合戦は源氏にとっては保元の乱の前哨戦となる。その意味で大蔵合戦の兵火を広い意味で保元の乱の兵火と記すことは成り立つだろう。また、保元の乱に際して武蔵国でも義朝派と為朝派の争いが再燃したならば、保元の乱の兵火となる。