藤原頼長は冤罪で内覧停止
藤原頼長は仁平元年(一一五一年)に藤原家成の邸宅を破壊した。頼長は鳥羽院の寵臣の家成を「天下無双の幸人なり」と評し、その権勢を警戒していた。家成は積極的に皇室の荘園を形成し、その大半は後に八条院領となった。また、頼長には自分は摂関家の名門、家成は中級公家という意識があった。
表向きの理由は従者同士の争いである。頼長の従者が家成の従者に辱められたと主張する。しかし、頼長の従者が家成の従者を挑発した結果であり、最初から頼長の罠であった。
権力者が政敵を攻撃したものであるが、自分の郎党(私兵)を使って攻撃した点が注目である。従来の貴族ならば国家権力を使って濡れ衣を着せる形で追い詰めただろう。頼長には武士と同じく、自力救済の論理がある。この後の日本史は武士の時代になるが、頼長が武士を支配し、国家からの独立性の強い権門となる可能性もあった。
頼長は家成を脅そうとした。しかし、それは裏目に出た。寵臣が攻撃された鳥羽院は激怒し、頼長は孤立していく。これが保元の乱に追い込まれる一因になる。
近衛天皇は久寿二年(一一五五年)に皇太子のないまま崩御した。崇徳院は自らの重祚か息子の重仁親王の皇位継承を望んだ。ところが、美福門院の養子の守仁王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま即位した。後白河天皇である。
雅仁親王は遊興に明け暮れており、帝王の器量ではないと評されており、これは異例の横槍であった。鳥羽院や美福門院、藤原忠通、信西の暗躍があった。ここでも崇徳院政は妨害された。崇徳は政治的に抹殺され、皇位継承に不満を抱いた。
「この怨みはかならずや晴らさむと思う」
鳥羽院は崇徳院を宥めようと、崇徳院に贈物を送ったり、崇徳院に歌を贈ったりした。それくらいで崇徳院の不満は収まらなかった。
「この世で一番恐ろしいものは何か?」
鳥羽院が崇徳院に尋ねた。
「それは父上だ」
崇徳院は答えた。
「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」
崇徳院の和歌である。離ればなれになった恋人への想いを込めた恋の歌である。しかし、肉親の情や政治権力の面で不遇だった崇徳院の無念の思いも感じられる。崇徳院は孤独であった。
一方で「われても末に逢はむとぞ思ふ」からは思いの強さが感じられる。同じように水が割れることを詠んだ和歌に源実朝の「大海の磯もとどろによする浪われて砕けて裂けて散るかも」がある。こちらは避けて散ってしまう。悲劇的な亡くなり方でも実朝が怨霊とならず、崇徳院が怨霊となることは理解できる。
信西は霊媒師に近衛天皇の霊を口寄せさせた。
「何者かが自分を呪うために愛宕山の像の目に釘を打った。このため、自分は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」
これは信西のやらせであるが、藤原頼長が呪詛したとの嘘を鳥羽院に嘘を吹き込んだ。頼長は冤罪によって内覧を停止され、失脚状態になった。