源高明は安和の変の冤罪に涙したい
源経基は清和源氏の祖である。清和源氏は経基王が源姓を賜ったことに始まる。経基の子孫が各地に土着して清和源氏の武士団となった。経基の三男の源満季の子孫から林田氏が生まれる。林田氏は清和源氏満季流となる。
経基の嫡男が満仲である。満仲と満季の兄弟は安和二年(九六九年)の安和の変に登場する。村上天皇の次の冷泉天皇の時代である。藤原実頼が関白太政大臣、源高明が左大臣、藤原師尹が右大臣になった。高明は醍醐天皇の第十皇子で、醍醐源氏の祖である。
有力な東宮候補に為平親王と守平親王がいた。兄の為平親王が順当であったが、高明は為平親王の岳父であった。為平親王が天皇になったら、高明が天皇の外戚になる。藤原氏は高明の勢力伸長を阻止するために守平親王を東宮にした。
藤原氏と高明の対立の背景は二つの見解がある。
第一に権力闘争とする。どちらも天皇の外戚として権力を握ることを目的としており、政策に違いはない。
第二に政治路線の対立とする。朝廷は蝦夷など異種族を討伐し、支配し、搾取する体制であった。この体制を藤原氏は継続しようとした。高明は差別や搾取をなくそうとする政治革命を目指したとする(今村翔吾『童の神』角川春樹事務所、2018年)。
満仲と満季は高明の派閥に属していた。高明の派閥には清和源氏の外にも橘繁延や藤原千晴・久頼の親子がいた。千晴は平将門を討った藤原秀郷の子であり、清和源氏と武家の勢力を競っていた。高明の派閥に属していても、清和源氏が頭一つ飛ぶ抜けることは難しかった。
高明は自分の邸宅で相撲を開催した。満仲は橘繁延と相撲をしたが、あっさり敗北してしまった。激情した満仲は刀を抜いて突きかかったものの、これも撃退されてしまった。これに反感を抱くことになった。ここから満仲は藤原氏に近付くようになる。藤原千晴は源高明と結びき、清和源氏は藤原氏と結びつく。共に源氏や藤原氏という同族では結びつかない。
満仲は高明の謀叛を密告した。
「左大臣が為平親王を擁立する謀反を企てています」
これは具体的な証拠がなく、結論ありきの密告であった。密告を受けて検非違使であった源満季は橘繁延や藤原千晴・久頼を捕らえた。この後の清和源氏は藤原摂関家の侍となることで勢力を伸ばした。
高明の謀叛は冤罪であった。高明は大宰権帥に左遷された。ところが、謀反の当事者である為平親王は罪に問われなかった。高明を潰すことを目的とした冤罪に過ぎなかった。
安和の変は藤原氏による他氏排斥事件の最後である。これで藤原氏に対抗する有力貴族は消滅し、摂関政治の時代になる。安和の変は摂関政治の基盤をつくった事件になる。藤原氏の他氏排斥は終了したが、今度は藤原氏内部での権力争いが始まる。
源満季の家督は猶子の致公が継いだ。致公は源高明の長男・忠賢の子である。安和の変で失脚させられた人物の子孫が失脚させた側の家督を継ぐことは皮肉である。満仲は高明側の人間で、裏切って密告したとの説が有力である。致公の家督継承は清和源氏が源高明と近い関係にあったことを裏付ける。
致公の子孫は清和源氏であるが、血統的には醍醐源氏になる。この子孫から播磨国林田郷を本拠地とする林田氏が生まれるが、血統的には醍醐源氏である。源致公は兵部丞や蔵人、下総守を歴任した。