藤原純友は公を否定したい
純友は公を否定した。驚いたことに、これは新自由主義と通じるものがある。「公」は、公共性という意味での「公」ではなく、一つの私的権力に過ぎないものである。新自由主義は公共性を解体すると批判されるが、「公」と言っても所詮は誰かが誰かを支配するものである。海は権力者である「公」の力が及ばない場所である。そこに純友は自由を見出した。
純友は自分達が当たり前のものと思っていた支配体制として国司や郡司を否定する。郡司もあげていることに注目する。京都から派遣される国司は支配体制そのものであるが、郡司は在地の豪族が就任するもので土着のものであった。それも否定しようとしている。
在地小領主の支配に領民と一体化した牧歌的なイメージを抱く向きもあるが、そこに凄惨な支配・搾取関係があることもある。鎌倉時代には「ミミヲキリ、ハナヲソギ」と地頭の横暴を訴えた申状も残っている。
新自由主義批判ではグローバリゼーションが土着のものを壊していくことが批判される。しかし、土着のものが個人を抑圧し、それを壊すことが個人の自由を増大する面もある。そのような文脈では新自由主義批判が既得権の擁護に映る。純友の理想は非常に大胆なものであった。
しかし、その大胆さが敗因にもなった。地方豪族は朝廷の追討に乗っかって純友を滅ぼすことに貢献した。純友には中央への反抗者だけでなく、在地の既得権破壊者の側面もあった。
追討軍は瀬戸内海の制海権を確保した。
「これで瀬戸内海は完全に我々の手中に収めたな」
「はい。後は純友を捕らえるだけです」
純友は捕らえられ、天慶四年(九四一年)六月二〇日に源経基の前に引き出された。
「純友よ。言い残すことはあるか?」
「俺は負けない! 必ず戻ってくるぞ!」
「もう遅いわ」
「まだ終わっていない!」
「お前の運命は決まっているのだ」
「俺は諦めんぞ! いつかきっと、天下を盗ってやる!」
「戯言を言うな!」
経基は刀を振り下ろした。純友の首は胴から離れた。純友は処刑された。しかし、純友の遺志を継いだ者がいるという噂が流れた。
「純友様の意志は俺達が受け継いでいるんだ」
「そうだ。俺達はこれからも戦い続けるぞ」
「純友様は私達の希望なんだ」
「純友様に続け!」
「おうっ!」
経基は豊後国で純友の残党を追捕した。
「これでようやく、都に戻ることができそうだ」
経基は安堵した。
「経基さん、おめでとうございます!」
「ああ、ありがとう」
純友を滅ぼした勢力も海賊であった。彼らは水軍としての実力を蓄えていく。やがて東国の武士団が源氏に従ったように伊勢平氏と結びついた。
「純友さんには申し訳ないけれど、これも時代の流れですよ」
承平天慶の乱では純友よりも将門の方が圧倒的に有名である。しかし、純友の乱の方が長期に渡った。範囲も淡路島から大宰府と広域である。一見すると一時的な制圧と略奪という海賊行為中心の純友よりも、親皇を名乗り、国司を任命した将門の方が革命的に見える。しかし、新皇は坂東の新皇であり、都の天皇を必ずしも否定するものではなかった。摂政忠平宛将門書状では旧主である忠平へのへりくだった姿勢も見られる。国司を自分が任命するのではなく、否定する純友の方が革命的であった。
小野好古は純友追討の功績で山城守や大宰大弐などに就任した。大宰大弐であった康保元年(九六四年)年には冤罪で左遷されて亡くなった菅原道真の廟所で大宰府の官人を集めて残菊宴を行った。




