林田の由来を学びたい
林田は地名である。播磨国揖保郡や美作国苫田郡、讃岐国阿野郡に林田という地名がある。播磨国と讃岐国の林田は「はやしだ」、美作国の林田は「はいだ」と発音する。林田は古くは波夜之陀や波夜之太、波以多と記されていた。
播磨の林田は播州平野に位置し、瀬戸内性の豊かな自然と、安定した気候に恵まれた関西屈指の穀倉地帯である。林田川が流れる。林田には、ある種の優しさと平穏がある。温かい湯に浸されるような心の安らぎがある。別の場所とは光も色も音も匂いも重力も違う世界に入ったようであった。林田で迎える朝は清々しかった。空気が澄み切っている。新鮮そのものである。
讃岐の林田は北を瀬戸内海、南西を綾川に面している。温暖で雨が少なく日照時間が長いという瀬戸内海式気候であり、古くから塩田が発達していた。二〇世紀に埋め立てが進んだが、当時の海岸線はもっと内陸寄りであった。
瀬戸内海に面した林田湊は古くから栄えた。林田湊から瀬戸内海を通って山陽道や西海道、さらには朝鮮半島まで船が行き交っていた。瀬戸内海は古代から都と九州、さらには大陸をつなぐ大動脈であった。
林田の由来には諸説ある。第一説は林を開拓して田にしたとする。「森林を伐採して田畑にしたところという意味で、そこを領し、あるいは耕して名字としたものです」(大野敏明『日本人なら知っておきたい名字のいわれ・成り立ち』)。
第二説は祝田の転称とする。播磨国の林田には祝田神社がある。日本武尊は熊襲征伐に出かけたが、播磨灘で台風に遭った。祝田神社に祈ったところ、浪が静まった。これに対して祝田神社よりも林田の地名の方が古いという批判がある。
第三説は火事の伝承に由来する。大火事が起き、多くの村人の家が焼けてしまった。そこで村人達が集まって相談した。
「どの家に身を寄せるべきか」
「一番貧しい者の家を犠牲にしよう」
話し合いの結果、貧乏くじを引いた者の家にみんなで押しかけようということになった。それで選ばれた家がハヤシダケと呼ばれていた。それが訛って、ハヤシダと呼ばれるようになった。
第四説は波夜乃加奈那という女性の伝承に由来する。波夜乃加奈那という美しい女性がいた。
「この土地で一生を終えられたら……」
それが叶わない願いだと分かっていても、そう思わずにはいられなかった。波夜乃加奈那は親同士の話し合いで他国に嫁ぐことになった。
「この土地を離れたくない」
波夜乃加奈那は泣き叫んで抵抗したが、夫は無理やり波夜乃加奈那を連れて行ってしまった。
その後、波夜乃加奈那は子どもを連れて、生まれ育った地に向かった。いくつもの試練を乗り越えて辿り着いたが、既にそこは荒地となっていた。そこで波夜乃加奈那は子どもを慰めるために、自分の名前から林田と名付けた。波夜乃加奈那は一所懸命に働いた。やがて田と畑ができ、林田には米が実るようになった。
波夜乃加奈那は子どもを大切に育てた。子どもはやがて成人して、林田城を築いて城主となり、初代林田王として君臨した。林田王は林田の地を治め、繁栄をもたらした。林田王が林田を治めるようになってから林田は豊かになり、人口が増えた。
「吾、此の地に住みて子孫繁昌せんことを希う」
林田王は難波の海人族の娘を娶った。白い歯を持った美しい姫君であったため、その美しさに因んで白歯姫と呼ばれた。
第五説は波や寄せる場所という意味とする。林田の漢字からすると内陸イメージが強くなるが、元は海辺を意味していたことになる。