閑話 マーク・ムーア男爵令息
閑話二つ挟んで次の話になります。
一人目、レクシーの義兄
「あら、マークくん。こんにちは」
研修が終わり、屋敷へ帰宅するために王宮の廊下を歩いていたマークは、レクシーの家庭教師であるメアリに声をかけられていた。
「メアリ先生!こんにちは。いつも妹がお世話になっております。妹からは今日も授業だと聞いておりましたが……」
「ええ。授業終わりに用事があって今ここに着いたところよ。レクシーさんは本当に優秀ね」
「ええ、自慢の妹ですから」
まるで自分の事のように胸を張り、笑顔で答えるマーク。レクシーが男爵家に来る前後の彼の変わりように、メアリは内心苦笑いである。
彼、マークの表面上は和かでとっつき易い人だ、と思われているが実際は異なる。味方であれば心強いが、敵に回すと厄介。そんな言葉が似合うかもしれない。
現在学園で彼の懐に入れる人間は、第一王子のルーベン殿下だけだろう。それ以外の人に興味を持たない……そんな人だった。
が、妹レクシーが来てから彼は変わった。シスターコンプレックス……シスコンになっていたのだ。
生徒であるレクシーは、平民とは思えないほど優秀だとメアリは感じている。頭が良いだけではなく、勉強に対する姿勢も素晴らしいと思ってはいるが、マークがここまでレクシーを溺愛しているのには、何か理由があるのだろうか。
妹レクシーの事を、自分の事のように喜ぶマークを見て、メアリは「人ってこうも変わるのね」と吃驚しながらも、良い傾向だとマークに笑いかけていた。
「妹ができる……か……」
目下には、今日をもって自身の妹となる娘が、馬車から降りようとする光景が映る。レクシーは屋敷を見上げて口をぽかんと開けたまま、少しの間凍りついていた。多分、この大きさの屋敷は見た事が無かったのだろう、圧倒されているに違いない。
元平民であるとはいえ、口を開いたままではみっともないから閉じて欲しい……とマークは思っていた。彼女と目線が合う事はないが、もしレクシーが今のマークの視線を見たら、怯えてしまうかもしれないほど彼は冷めた目をしていた。
その理由は、彼女の受け身な性格だ。マークは妹になる女性がどんな娘かを知るために、先にレクシーの様子を孤児院で調査させていた。その者によると、彼女は人から言われた事しかしない性格らしい。彼はそのような人間に興味を持つ事はない。
だから彼女が家に来ても、仲良くするつもりなど更々なかったのだ。
それは自分だけではなく、彼の両親--ムーア男爵夫妻にも言えるようだった。自分の養子になる予定の娘が玄関まで来ているのに、姿を見せないのがその証拠である。彼女を迎え入れる事は、男爵家が国王陛下の目に留まるための手段の一つでしかないのだ。迎え入れた後は学園入学まで彼女を放置するだろう……ある意味で可哀想ではあるが、マークは彼女に手を伸ばそうとするつもりはない。
まだ口をあんぐりと開いているレクシーから目線を外し、本に集中しようと視線を戻しかけたマーク。だが戻す前に、レクシーの顔色が変化したことに気づく。口を開けているレクシーは眉を顰めた後、顔が心なしか青褪めているように見えたのである。
……それが彼の興味を引き出した。
屋敷を見て口を開ける理由は理解できるが、眉を顰めたり青褪める理由が分からなかったためだ。
引き続きレクシーを見続けるマーク。彼女が青ざめたのは一瞬で、見間違えたのではと思うほど。その時にレクシーは声が出ていたらしい、彼女はゾーイと会話をしているようだ。残念ながら、何を話しているかこちらには聞こえないが……すぐに会話は終了したようで、ゾーイはレクシーに背を向けた。
玄関の前には執事長のセルスと見習い、料理長と侍女が並んでいる。彼の両親が居ないのは、養子になるレクシーに気を遣ったわけでも何でもない。父は懇意にしている伯爵からの誘いで近くの山まで狩りに行っており、母は子爵夫人が主宰するお茶会に出席しているだけだ。伯爵も子爵夫人も、レクシーが来る事を理由に出席を断っても怒るような人ではない。単に両親がレクシーに興味がなく、権力を持つ貴族に媚を売りたいだけなのだ。
そんな事を考えていると、ふと下から声が聞こえた。
「皆様、今日から半年間お世話になるレクシーです。よろしくお願いします」
思った以上に礼儀正しく、言葉遣いも綺麗でそこまで悪くない。報告書と違う……?と眉を寄せたマークの元にまたレクシーの声が聞こえる。
「いえ、大丈夫ですよ。養子に迎えて頂けるとは言え、私は平民ですから……何となく予想はしていました」
彼女は出迎えに男爵夫妻が居ない理由を理解しているようだ。
「ふうん……」
--もしかしたら報告にあったような娘ではないのかもしれない。
根拠はない。言って終えば、勘のようなもの。普段であれば無視するそれを、マークはなんとなく信じる事にした。それが自身の勘違いであっても、別に困る事はない。そう判断したからだ。
そして最近、第一王子ルーベンから口酸っぱく言われる言葉。「文字だけではなく、自分の目で判断しろ」……この事をふと思い出したことも彼の判断を後押しする一因だった。
そんなマークが彼女への態度を180度変える事になる出来事が起こるのは、数日後のこと。
「男爵様、お願いがございます。マナーなどを学園に入学する前に、習いたいのですが」
男爵がレクシーに学園に入学するように晩餐で命じた時。「はい」という返事のみで終わるだろう、と予想していたマークの耳に、レクシーの要望の言葉が入る。
第一王子であるルーベンから「他人と話す時はまるで人形のようだな」と言われるくらい、あまり表情を変えない……いつでも冷静なマークですら彼女のこの発言には驚愕した。
--まさか勉強したいと言い出すとは思わなかった。
事前の報告は何だったのか……と思うくらい、妹のレクシーは自身で考え能動的に行動している。養子になったとは言え、彼女は元平民で孤児院の出である。男爵に要望を述べるなど、緊張するに違いない。実際、膝の上に置かれている手は握られており、少しだけ震えている。
何故マナーの勉強をしたいと考えたのかは、分からない。
分からないけれど、彼女は学園入学に向けて、このままでは不味いと考えたのだろう。そう言う意味では、礼儀作法を事前に習っておくのは良い考えである。貴族しかいない学園で平民上がりの彼女が平穏に過ごすには、礼儀作法や知識がある程度出来ていれば問題ないだろう。そう考えると、レクシーの選択は最善であると言える。
だから、彼女の要望を叶えたいと思い、気付いたら口添えをしていたのだ。
男爵は口添えしたマークを一瞥して眉を顰めたが、伊達に第一王子ルーベンの従者もどきと、生徒会副会長をしていない。父である男爵を言い包めるくらいは、マークにもできる。
ただ、男爵はレクシーの家庭教師に乗り気ではないので、探さずなあなあにする可能性も否めなかった。そのため、翌日ルーベンの元に参上した際、マークはレクシーの家庭教師について相談することにした。
元々相談するつもりも無かったのだが、どうするかと悩んでいたのを目敏く見つけたルーベンに、詰め寄られたのだ。
だが、それが良かったのか。思っても見ない言葉をルーベンから掛けてもらうことができたのだ。
「だったらメアリ女史とアナベル女史を派遣すれば良いのではないか?国王陛下からも許可を取れると思うぞ?」
メアリとアナベルは王族や公爵家の令息令嬢の元に、家庭教師として派遣される人材である。そんな人材を派遣してもらえる事にマークは驚いた。
実は貴族の養子になった平民は、申し出をすれば家庭教師を派遣してくれる事になっているそうだ。家庭教師の派遣については、公に発表しているものでもない上、元々平民が貴族の養子になる事自体が少ないため、あまり知られていないらしい。ちなみにお金を取ることもないそうだ。
元々放任主義の国王陛下と言われている。
それだけ聞けば貴族たちは好き勝手できるのではないか、と思われるだろうが、実際は違う。貴族たちの全ての行動は国王陛下が把握しており、国王陛下が彼らの行動を踏まえて評価を下している。なので、男爵家でも領地を治める実力が高ければ上位貴族へ昇格するし、実力がないと判断すれば降格もする。
ちなみにムーア男爵家も今の当主では降格……つまり準男爵になる可能性も否めなかったのだが、次期当主であるマークがいるので免れている。
そんな実力主義の国王陛下が家庭教師を派遣する事に対して、マークは不思議に思うも、ふとある事に思い当たる。
「もしかして……家庭教師を派遣して、彼女の有用性を図るためでしょうか?」
その答えは当たりだったようで、ルーベンがニコリと微笑んだ。
「やる気があって才能がある人材であれば、是非とも王宮に勤めて欲しいからな。折角彼女の能力を測る機会があるのに、その機会を逃すのは勿体ないだろう?まあ、彼女は王族も教えているベテランの家庭教師に教わる事ができるし、男爵は金銭を支払う事なく家庭教師をつけることができるだろう。そして此方は彼女の能力を事前に把握することができる。全員がwin-winの関係だと思うがな。何なら私から国王陛下に言伝をしておこうか?」
「宜しいのですか?」
「他にも報告するべき事ができたから構わない。ちなみに家庭教師を派遣する旨が認められれば、国王陛下から男爵に許可する旨といつから派遣するかを記載した手紙が届くはずだ。今回は男爵がマークの伝手を頼ってこの話がきた事にしておこう……まぁ、国王陛下なら見抜くだろうがな……」
こうして、兄を味方に付ける事で家庭教師をつけてもらう事に成功したレクシーだったが、実はレクシーが優秀で、その事を聞いたルーベンや国王が彼女を宮廷魔道士として囲おうとし始めるのはまだ先の話。