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【病院】ホラー2019

ある大学病院での研究発表

作者: 鷹野 進

 

 病院には、幽霊がつきものである。


 蛍光灯が間引かれた薄暗い女子更衣室で、白衣を羽織る。

 ロッカーの扉を閉じようとした瞬間。


 備え付けの鏡に、黒い長髪の女が映った。


 不意打ちで身構えてしまう。

 しかし、それも一瞬だけだ。正体はわかっている。

 遠野礼子。

 白衣に縫い付けられ、反転した自分の名前。


「……髪をまとめるの、忘れてた」

 どうやら、思った以上に疲れているらしい。

 手首のゴムで髪を束ねつつ、鏡を覗き込む。顔色は青白く、目の下の隈が濃い。


 医療現場の激務は、どこの病院――大学病院でも同じ。さらに、医学研究の最先端を担う大学病院は、稀少な症例や困難な手術が多く、体力的にも精神的にも厳しい。


 それに加えて、今、研究発表を控えている。


 医師の仕事は、患者を治療する臨床医と、医学を発展させるための研究を行う研究医がある。

 研究医として、次の発表で高評価を得られれば、昇進の可能性もあるだろう。悲しいかな、肩書きによって給料も待遇も変わってくる。


 上昇志向が強いという自覚はあった。

 今の講師でも研究はできる。でも、まだ足りない。もっともっと技術を吸収し、研鑽を積まねば、救える命も救えない。


 本音を言えば、肩書きはどうでもいい。院内の派閥争いも興味はない。

 しかし、上位の肩書き――教授や准教授でなければ、自分のやりたい医療の研究ができない。治療方法がなくて苦しんでいる、患者を救えないのだ。


 だから、今度の研究発表に全身全霊を懸けている。


 ロッカーの扉を閉じる。

 壁の時計を見れば、夜の当直の時間だ。






 深夜二時。

 闇に沈むフロアは、しんと静まり返っている。


 煌々と明かりが点けられたナースステーションの一角で、パソコンのモニターに映されたCT画像をチェックする。

 カチ、カチ、カチ……と時計の秒針が動く。今のところ、緊急搬送もナースコールもない夜だった。


 女の看護師が一人、リストと薬剤の照合作業をしている。空いた時間でないと、落ち着いて薬品管理もできない。他の看護師は巡回中。

 男の医師が二人、パソコンに向かって電子カルテを打っていた。時計の秒針の音とは違った、雨だれのようなキーボードの音が微かに響く。


 画像を睨みつけながら、腕を組む。

 研究発表に使う資料だったが、症例として説明するには若干、心許(こころもと)ない。サンプル数が少なく、説得力に欠けると言われてしまえばそれまでだ。


 どうするか。

 唸る。


 ――折口教授の論文に、類似した症例があったぞ。


 耳元で男の声がした。

 はっとなり、背後を振り返るが、もちろん誰もいない。

 看護師も、二人の医師も、自分の作業に集中していた。


 心臓が、ばくばくと暴れている。

 聞き覚えのある、声。

 同僚の柳田だ。

 でも、そんなはずはない。


 痩せた顔に銀縁メガネの、彼の顔が思い浮かぶ。

 お互いに医療の激務に身を置き、治療方針について意見を出し合い、時に喧嘩し、三年間一緒に働いた。戦友のようだった。

その柳田が、いるはずがない。


 彼は、二カ月前に交通事故で亡くなっている。


 ――研究発表だからって、あまり根詰め過ぎるな、遠野。強ストレスで心不全になるぞ。

 ――何よ。アンタだって、何日病院に泊まりこんでいるのよ。また痩せたでしょ。骨と皮だけになっても、知らないんだから。


 そんな軽口を叩き合った日々が、ふとした瞬間に蘇る。

 思い出に浸っていると、けたたましくナースコールが鳴り響いた。


「二○三号室、宮本さんです!」

 看護師の声に、ナースステーションを飛び出す。


 電子カルテを打っていた、若いほうの医師――佐々木が追いかけて来る。もう一人は待機。ナースステーションを無人にするわけにはいかない。


 佐々木が私の横に並んだ。

 若いだけあって、足が速い。緊張に顔を強張らせている。経験値は、まだまだだが、それでも患者の命を預かる医師だ。懸命に走る。


 医師不足の中、一人でも欠ければつらいところを、代わりとして新しく二人の医師が入った。亡くなった先代の院長もやり手だったが、今の院長もなかなかだ。人事の差配でその力がわかる。


 佐々木と一緒に、個室である二○三号室へ駆け込んだ。


「どうしましたか!」

 佐々木が明かりを点ける。

 ベッドで宮本さんが体を曲げ、咳をしていた。シーツに嘔吐の形跡はなし。ごぉほっ、ごぉほっ、と痰が絡んだひどい咳。


 宮本国男、七十三歳、男性。大腸ガン・ステージ2で、術後の経過は良好。機器に表示されたバイタルは、咳のためか乱れている。佐々木が、宮本さんの体に掛けられていたシーツをめくった。肛門からの出血はない。


「宮本さん、大丈夫ですからね!」

 佐々木が吸入器を準備した。

 声を掛けながら、手早く痰を除去する。咳のせいで、涙と鼻水でくしゃくしゃになった宮本さんの顔が、幾分和らいだ。


 睡眠時における誤嚥。

 気管に痰が入っただけのようだった。それでも、高齢者は誤嚥性肺炎になりやすいため、気が抜けない。


「どうですか? 楽になりましたか?」

 声を掛けながら、佐々木が宮本さんの様子に神経を集中させる。

 高齢者の重い咳の場合、骨密度低下による胸部の骨折の可能性もある。宮本さんはひゅー、ひゅー、と浅い呼吸を繰り返す。

 宮本さんの目が、大きく見開かれた。


「ひいいぃ!」

「どうしました!」


 佐々木の問いには応えない。

 宮本さんが、私の背後を指差した。


「お、女が! 知らない、女が、いる!」

 ぞっとして振り向く。

 白い壁があるだけだった。


 何も、いない。


「誰もいませんよ、宮本さん」

 困惑したように、佐々木が眉を寄せる。


「そうですよ。大丈夫ですよ」

 声を掛けても、宮本さんは皺だらけの指を、ぶるぶる震わせるだけだった。

 やがて、看護師が二人駆けつけた。幽霊が出た! と錯乱する宮本さんを、慣れた様子でなだめ始めた。






 病院には、幽霊がつきものである。

 それも決まって、女の幽霊が多い。


「……男は幽霊になりにくいんだろうか」

 夜勤明け。窓から白み始めた空を眺めつつ、ナースステーションのパソコンの前で大きく伸びをした。


 申送りを済ませ、疲れた表情の佐々木が退勤する。

「お疲れ様です」

 看護師たちと一緒に彼を労う。

「はい、お疲れ様」


 結局、ナースコール五件に緊急搬送三件の夜だった。これでも平穏なほうだ。ふらふらと去っていく佐々木の背中に手を振る。

 ぼそぼそと、看護師たちが内緒話を始めた。


「……宮本のお爺さんが、女の幽霊を見たって」

「うそ、二○三号室は出ないはずじゃ……」

「二〇二号室の相部屋じゃなくて?」

「そこは、子どもでしょう。ほら、足のない女の子……」

「もし、男の幽霊だったら……二カ月前に交通事故で亡くなった……」

「やめてよ。それだったら、最近は心不全で……」


 席を立つ。

 ひと眠りして、研究の発表原稿を仕上げよう。そうしよう。

 お疲れ様、と言い残してナースステーションを後にする。


 病院には、幽霊はつきものである。

 看護師たちや、患者の不安もわかる。生と死の狭間、闘う場所が病院だ。未練や執念や怨念があっても、不思議ではない。


 予期された死は少ない。誰だって、唐突な死に戸惑うだろう。やり遺したことや、悲しませてしまった家族、友人、同僚もいるはずだ。

 思い残すことがあれば、幽霊にだってなる。


「……柳田」

 仮眠室に向かう薄暗い廊下で、口からその名が零れた。

突然、いなくなった同僚。


 気が滅入る過酷な現場で、遠慮なく意見をぶつけ合えた、信じ合えた、戦友。私の研究発表が決まってから、あれこれ口を出し、世話焼きになったヤツ。

 柳田に、心残りはなかったのだろうか。






 研究発表の当日は、曇りだった。

 天窓から見える空は暗い。大学病院の大講堂も、同じように暗かった。薄明るいのは、私が立つ演台とスクリーンだけだ。


 医療従事者、病院の関係者が席に座っている。

 年寄りか、学生上がり。年齢層の二極化が激しい。平日の三時では、さすがに現役はいない。


 堂々とした風格の医師たちは、やはりベテラン。先代の院長や、大学時代の恩師の姿があった。蒼い顔した若手たちは、医療の夢と現実のギャップに打ちのめされた時期だろう。もう頑張れとは言わない。時すでに遅しだ。


「――このように、ケースAとケースBには、有意差があります」


 大講堂に集まった関係者を前に、研究の成果を説明する。


「よって、従来の治療法と比較し――」

 居並ぶ人々の中に、見知った顔があった。

 心臓が止まるかと思った。

 最後列の通路側に、痩身で銀縁メガネの男が座っていた。


 柳田だ。


 目が合う。

 息が詰まる。

 言葉が途切れた。


 誰も、彼に気づいてはいない。生前と同じ姿で、確かに、存在していた。

 ゆっくりと、柳田が頷く。

 途切れた発表を、咳払いで誤魔化した。ついでに、緩みそうになった涙腺も。


「……失礼。従来の治療法と比較し、効果があることがわかりました」

 ベテラン医師たちが小さく唸った。声をひそめて、隣同士で意見交換を始める。若手たちは必死でメモをしていた。医療の最先端に遅れまいと必死だ。意欲が高い。だから、この場にいる。


 三十分の口頭発表を終え、質疑応答になった。

 五、六人の手が挙がる。司会者が、順番に発言を促す。中には鋭い指摘もあったが、どうにか全ての質問に応えることができた。


 講評に移り、院長が登壇する。その表情を窺えば、満足そうな笑み。手応えありだ。司会者からマイクを受け取った院長の講評は、思った通りベタ褒めだった。高評価、上出来だ。

 柳田を見れば、彼は微笑んでいた。


 病院には、幽霊がつきものである。

 不慮の事故、大往生。死因は様々だ。未練や執念や怨念があって、迷い出ても、不思議ではない。


 意気揚々と話す先代院長は、老衰で亡くなった。十分に生きただろうに、まだ化けて出る。院長という肩書きへの執着か。それとも道楽か。


 大学時代の恩師は、睡眠中の急性心筋梗塞。珍しいケースで、意識がない状態で起こるため、激痛がない。私の場合とは大違いだ。しっかり意識があった状態――病院で居残って、発表原稿を書いていた時、一ヶ月前だ。


 突然襲った、あの殴られたような胸の痛みは忘れられない。


 院内なのに発見が遅れて、ついでに手遅れになって、若手医師に死亡診断書へ心不全と書かれた時は、泣きたくなった。

 心不全は病名ではない。


 心筋梗塞や弁膜症やその他諸々の病気をひと括りにした呼び名だ。死因特定は難しいとしても、可能性を排除していけば、おおよそ絞られるだろう。自分としては、やはり急性心筋梗塞だと考えている。声も出ないほどの激痛だったし。


 準備に準備を重ねた研究発表を控えて、死んでも、死にきれなかった。思い残すことがあれば、幽霊にだってなる。


 でも、それも、今日で終わりだ。


 私に向けて、院長が労いの拍手をする。

 同じように、集まった死者たちが手を叩く。平日の午前三時、大学病院の大講堂に拍手の音が満ち溢れた。


 最後列の通路側の席を見れば、そこには誰もいなかった。

 ふっと、張り詰めていた気持ちが解ける。


 これでもう、思い残すことはない。





この物語はフィクションです。

病院および医学に関する記述もフィクションですので、ご注意ください。



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[一言] 冒頭の一文の前振りからの展開。なるほど!となりました。お見事!(*´Д`*) とりあえず、お祓いしましょうか!病院全体的に!(笑)
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