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弥生の起源

作者: 育岳 未知人

『この物語に登場する歴史的名称や遺跡は、事実に基づいたものである。』




一、プロローグ




光一の最近のマイブームと言えば、借りてきたビデオで韓流ドラマを観ることである。光一は五十歳。ふとしたことから弥生時代の歴史に興味を持ち、本まで出版してしまった。そんなある日、妻の文江と近くの韓国料理店で夕食をする機会があった。店の中は少し年配の奥様たちや、まだ若いOL風の客などで、かなり賑わっていた。光一たちは、空いているテーブルに着くと、海鮮チヂミとチーズダッカルビ、それにジンロをグラスで注文した。すると、気のいいマスタの計らいで、なんと韓国海苔とキムチのサービスまで付いてきた。早速二人はテーブルに置かれたチーズダッカルビに手を付けてみる。確かに味はいいが少し濃いめの味付けに、自然とお酒が進む。少し酔って白いご飯が欲しくなった光一は、マスタにライスと水を頼み、持ってきてくれたマスタにふと尋ねてみた。

「朝鮮半島の歴史を勉強したいんだけど、楽しく勉強できるようないい教材はないですか?」

彼は、少し考えてから、アドバイスしてくれた。

「それなら、韓流ドラマの歴史ものなんかはどうですか?」

「韓流ドラマか。それはいいですね。」

「3世紀以前の頃のものとかあります?」

「それでしたら、朱蒙チュモンなんかがいいんじゃないですか。」

朱蒙チュモンかあ、今度レンタルビデオを借りてみようかな。ありがとうございます。」

「韓国について興味を持ってもらえるのはうれしいですが、・・・」

マスタの話が終わらないうちに、他の客の注文が入り、それっきり話は途絶えた。

「お父さん、今度は韓国の歴史なの?」

「いやあ、日本の歴史を調べていくと、東アジアの歴史も知りたくなってね。まずは、朝鮮半島の歴史を調べたくなったんだ。」


光一は、明くる日にさっそくレンタルビデオを借りることにした。ビデオ店には、韓流ドラマが所狭しと並んでいる。その一角に歴史ものの朱蒙チュモンのDVDはあった。朱蒙チュモンは全部で39巻ある。光一は取り敢えず1巻目を手に取った。1巻には2~3話収録されている。今から2000年以上前の高句麗建国神話に登場する高句麗王 朱蒙チュモンの物語らしい。他にも面白いビデオがないかと別の棚を見回すと、海神ヘシンのDVDがあるではないか。以前に弥生の歴史を調べていたときに、出会った海神わだつみと同じである。そして、日本の王朝のルーツは海神にあると結論付けたのだった。朝鮮半島にも海神はいたのか?気になった光一は、海神ヘシンのDVDも借りることにした。

 

光一は、韓流ドラマの海神ヘシンのことを考えていた。このドラマは統一新羅時代の9世紀が舞台とのことだが、日本の神話にも登場する海を司る海神わだつみは、史記の淮南衡山列伝の記述で、紀元前219年頃に渡来した徐福と出会ったことになっている。したがって、紀元前3世紀頃には日本に居たはずである。以前に古事記の日本神話に登場する海神わだつみをネットで調べていたら、史記の淮南衡山列伝にも徐福の話として登場するのを確認していたのだ。ヘシンとわだつみは同じ海神ではあるが別人なのだろうか。海神ヘシンに主人公として登場する東アジアの覇者チャン・ボゴ(配役:チェ・スジョン)は、韓国の三国史記と言う歴史書では、身分の低い反逆者として記されている。しかし、ドラマでは、東アジアの海上貿易を牛耳った覇者たる海神ヘシンが英雄として描かれている。

そして、悪役ではあるがその盟友でありライバルとして描かれているヨムジャン(配役:ソン・イルグク)は、三国史記では、海神チャン・ボゴを王の命を受け討ち果たした英雄として記されているらしい。さらに、ヨムジャンを演じたソン・イルグクは、海神ヘシン以上に大ヒットした朱蒙チュモンで高句麗を建国したとされる主人公 朱蒙チュモン自身の役をも演じている。朱蒙チュモンは、高句麗の年代から推定すると、紀元前1世紀頃の人物である。三国史記には、夫余の神話とよく似た卵からの誕生と建国の神話が記され、高句麗の始祖で(いみな)が朱蒙、(おくりな)が東明聖王とされている。朱蒙のビデオには、古朝鮮の再建を願って漢と戦い負傷した解慕漱ヘモス将軍(配役:ホ・ジュノ)を、その妻となる河伯ハベク族の柳花ユファ姫(配役:オ・ヨンス)が助けることで出会い、哀しい出来事が展開する中で、朱蒙チュモンが生まれ、やがて父の意志を継いで古朝鮮の復活となる高句麗を建国して行くという物語が収められている。


     『海神(わだつみ/ヘシン)』 『朱蒙チュモン

韓流ドラマ 9世紀の航海王の英雄   紀元前1世紀の高句麗建国王の英雄

三国史記  身分の低い反逆者     高句麗の始祖で諱が朱蒙、諡が東明聖王

日本神話  紀元前3世紀の海を司る神 記載なし

     (日本王朝のルーツに比定)


朱蒙チュモンは、日本神話には登場しないので、明らかに朝鮮半島の人物であることがわかる。ここで、わだつみ=ヘシンとすると、日本では海を司る神が、朝鮮半島では、身分の低い王に対する反逆者とされ、韓流ドラマでは昇華されたものの時代背景が白村江の戦いで日本が敗戦した後の統一新羅時代となっている。海神わだつみの末裔は安曇(あずみ)族で、白村江の戦いで敗退する。海神ヘシンチャン・ボゴとは、この安曇(あずみ)族の水軍を指しているのではないだろうか。これを見ると、日本と朝鮮半島との関係は、韓国併合よりずっと昔から、相容(あいい)れない関係にあったことが(うかが)われる。そして、砕け散った銅鏡と、神功皇后と察する豊野花ほのかのあの時の悲しげな顔が蘇って来た。しかし、朝鮮半島のみの人物である朱蒙チュモンのビデオに古朝鮮のシンボルとして描かれている三足烏さんそくうは、高句麗壁画に刻まれていると同時に、中国では長江文明に、日本では八咫烏やたがらすとして登場する。そして、日本サッカー協会のシンボルマークにもなっている。また、日本にも多くの朝鮮人(韓国人)が在住し、美味しい韓国料理店や、スレンダー美人・イケメン男子のアイドルグループが活躍している。光一は、どこかでボタンを掛け違えたのではないかと歴史を紐解いてみたいという衝動に駆られた。





二、百済を訪ねる




朱蒙チュモンのビデオも最終回第81話に差し掛かった頃、朱蒙チュモンの妻である召西奴(ソソノ 配役:ハン・ヘジン)は、息子の沸流ピリュ温祚オンジョを連れて、高句麗から離れ、新しい国を求めて南に行く。そして、百済を建国することになるのだ。百済の都があった扶余(プヨ 旧字:扶餘)は、ネットで調べると、朝鮮半島の中西部よりやや南に位置する忠清南道チュンチョンナムドの郡であり、錦江クムガン別名、白馬江ペンマガン流域の自然に恵まれた静かな町とある。そして、白馬江ペンマガンとは、あの白村江の戦いの舞台となった場所のようである。百済は大和朝廷と友好関係を保っていた。特に第26代聖王の頃には、最後の王都となった泗沘サビ=現在の扶余プヨに遷都し、新羅との関係が悪化するに連れ、日本との関係を強化し、諸博士や仏像・経典などを贈り、見返りに軍事支援を要請したようである。そんな歴史もあり、現在の扶余プヨは、百済の名残りを留め、親日的な町に見える。光一は、百済、そしてその源である高句麗や夫余(高句麗の前身の朝鮮半島北方の国)の歴史を訪ねて、扶余に行ってみたくなった。


扶余プヨへは、ソウルからオプショナルツアーが運行されているようである。ソウル観光も合わせて二泊三日の旅を計画した。


一日目

羽田空港12時頃 金浦空港15時頃 ソウル市内観光(明洞) ソウル宿泊

二日目

扶余オプショナルツアー ソウル宿泊

三日目

ソウル市内観光(景福宮) 金浦空港16時頃 羽田空港18時頃


さっそくパスポートを申請して、旅行社には、明洞ミョンドンエリアのホテルの宿泊とセットでチケットの手配を依頼した。


5月の陽気に誘われて、光一は、ソウルの街にいた。明洞ミョンドンは、ソウルの繁華街で、食べ歩きも楽しい。ロッテ免税店を巡って、南大門市場で焼酎を片手にサムギョプサルをいただく。屋台でも身振り手振りで言葉が通じてしまう。暗くなって街はさらに活気づいてきた。

屋台を十分堪能したところで、光一は、スーパーで朝食を買って、タクシーを拾ってホテルに戻った。部屋は幾分広く、ダブルベッドでゆったりできる。明日は、扶余プヨへの旅である。シャワーを浴びて、ベッドに入ったのは10時頃だった。


明くる日は、6時に起きると、朝食を食べて、身支度を整え、ロビーでツアーの送迎車を待った。すると、7時半頃だろうか、日本語の上手な若い女性が、車で迎えに来てくれた。朱蒙チュモンのビデオで柳花ユファ姫を演じていたオ・ヨンスにどことなく似た魅力的な女性だ。そして、今回のツアー客は光一だけだったので、運転手は別として、彼女と二人で旅することとなった。彼女は、キム・ヨンソさんと言った。なんと楽しい旅になることだろう。

光一は、車の中で、彼女のことや扶余プヨの町について、色々と教えてもらった。

「学生さんですか?」

「今は、扶余郡の韓国伝統文化大学というところで、文化財を中心に学んでいます。ときどき、こうやってツアーガイドのアルバイトもやっているんです。」

「扶余の町には博物館もあるし、いい教材が沢山あるんでしょうね。日本に来ることもあるんですか?」

「一度、京都に行ったことがありますよ。日本には、豊富な文化財があるので、参考になります。」

「今日廻るところは、どの辺になりますか?」

「今日は、定林寺址チョンニムサジ博物館と、国立扶余プヨ博物館を観て、昼食後、扶蘇山城プソサンソンを散策し、山の向かい側の皐蘭寺コランサ船着場から白馬江ペンマガンを遊覧し、帰途に就く予定です。それでも時間があるようでしたら、ご希望の場所にご案内します。」


車は、京釜キョンブ高速道路を南に2時間半くらいで、扶余プヨの町に着いた。定林寺址チョンニムサジ博物館の駐車場に車を停め、博物館を見学する。博物館の中には、定林寺址チョンニムサジから出土した遺物や寺全景の復元模型などが展示されており、キムさんは、百済における韓国の仏教が盛んな頃の仏教芸術や日本との交流などについて、詳しく説明してくれた。博物館の外には、有名な五層石塔や、石仏坐像が配置されている。五層石塔には、唐が平定したときの大将による碑文「大唐平百済国…」が刻まれている。説明してくれるキムさんの複雑な心持ちに(おもんばか)った。

次の国立扶余プヨ博物館は、すぐ近くにあるので、光一たちは歩いて向かった。ここには、所蔵約15000点のうち約1000点が展示されており、博物館の建物は仏教の象徴である「卍」の形で、中央ホールを中心点に進入路、展示室、管理室などが広がった羽のように連なった形状をしているらしい。展示品のうち、国宝の百済金銅大香爐や金銅弥勒菩薩半跏像、虎子(ホジャ:虎の形をした土器製の携帯男性用便器)などが、見どころとのこと。弥勒菩薩半跏像は、京都の広隆寺の弥勒菩薩半跏像にも通じ、日本との交流を物語っている。虎子ホジャの説明のとき、キムさんのはにかんだ顔も、可愛かった。

お昼の時間となり、光一たちは、扶蘇山城プソサンソンの向かいにある食堂で、名物の(はす)の葉ごヨニッパッを食べることにした。この料理は、精進料理の一つで、豆や栗、松の実、かぼちゃなどが入ったご飯を(はす)の葉で包んでから蒸しあげる、ほのかな(はす)の香りのするやさしい味わいの料理らしい。

(はす)の葉の香りもいいですね。(はす)は、日本でも、地下茎を蓮根として食べますね。それに、仏教の極楽浄土を象徴する花として、親しまれています。泥の中から、真っ直ぐに伸び、清らかな花を咲かせる姿には、感動してしまいますよね。」

「おっしゃるとおりです。私の好きな花の一つです。7月頃になると、この近くの宮南池クンナンジには、沢山の(はす)の花が咲き乱れるんですよ。」

「それは、見てみたかったなあ。時期が早いのが残念です。」


光一たちは、しばらく休憩した後、扶蘇山城プソサンソンの正門である扶蘇山門を(くぐ)り、石畳の山道を散歩した。新緑の間から漏れる陽光が心地よい。しばらく歩くと泗沘楼に出た。ここは、標高が最も高く、百済時代には王が月を愛でた場所らしい。さらに進むと、落花岩の上に建つという百花亭と皐蘭寺コランサが見えてきた。百済落城のとき、3000名の女官が落花岩から身を投げたと言われており、その後に供養として、百花亭と皐蘭寺コランサが建立されたようだ。遠い昔に哀しい歴史があったのだ。百花亭からは白馬江ペンマガンの流れがよく見えた。朱蒙チュモンのビデオで柳花ユファ姫の河伯ハベク族が漢に皆殺しに遭った哀しい出来事を思い出し、キムさんにふと声をかけた。

「百済の悲劇を遡ること800年程前、漢は百済の遠い前身である古朝鮮にも、同じような仕打ちをしたのかも知れません。」

「百済の前身は高句麗、高句麗の前身は夫余、夫余の前身は古朝鮮ということですね。扶余プヨという町の地名も、昔の夫余の流れを汲んでいるからなのかも知れません。いい意味でも悪い意味でも、昔から大国の影響を受けて来たんですね。」


光一たちは、皐蘭寺コランサにお参りして、皐蘭寺コランサ船着場から白馬江ペンマガンの遊覧船に乗り、女官が身を投げたという落花岩を川の中から再度確認した。

まもなく、クドレ渡船場に着いた。傍らのクドレ彫刻公園を散策しながら、歩いて車に戻る途中、聖王の銅像が見えた。

「聖王は、日本の仏教浸透に貢献された方ですよね。」

「都をこの地に移し、百済の発展に貢献された方です。日本とも親しかったようですね。」

「李氏朝鮮の頃に、儒教を国教として、仏教を排斥したのは、残念です。教えを乞うた国なのに・・・。」

光一は苦笑しながら続けた。

「日本では、仏教は人々の生活に溶け込んでいます。特に死んだ人の供養が主ですが・・・。お祝い事は神道です。結構いい加減な国民性なんですよ。」

「仏教が栄えていれば、韓国の歴史も変わっていたのかも知れません。」

キムさんが、聖王の銅像を振り返りながら、ふと呟いた。


予定していた時間に近づいていたので、少し土産物を見た後、光一たちは、駐車場に停めてあった車に乗り込み、帰りの途に就いた。

道路は、思ったほど混んでいなかったので、18時頃にはソウルの街に着いた。

光一は、帰ってから食事するのも億劫だし、今日のお礼を込めて二人を夕食に誘った。「もし差支えなかったら途中で夕食を食べませんか?代金は私が持ちますから。」

「私たちは構いませんけど。いいんですか?」

「そんなに高いものは無理ですけど、韓国のお勧めの鍋料理なんかどうかなと思いましてね。」

「じゃあ、参鶏湯サムゲタンなんかどうでしょう?高麗人参なんかも入っていて疲れが取れますよ。」

「いいですね。今日は結構歩いたから疲れてますからね。決まり!」

光一たちは、明洞ミョンドンにあるレストランに向かった。

ホテルの地下にある専門店に入り、参鶏湯サムゲタンを三つと、それにビールとコーラを注文する。料理が運ばれてきたので、三人は乾杯コンベと言って乾杯し、参鶏湯サムゲタンを思い思いに味わった。高麗人参やナツメの味が効いているが、鶏肉とスープが以外とサッパリとしていて美味しい。

「疲れた身体には、薬膳料理でしかも美味しい参鶏湯サムゲタンが一番ですね。」

光一がそう言うと、キムさんが笑顔で答えた。

「私も時々作ったりするんですよ。」

「料理もお上手なんですね。」

「いいえ、ネットで調べて、たまに時間があるとやるぐらいです。」

「最近は日本でも韓国料理店が増えているので、お馴染みの韓国料理が食べられますよ。」

「韓国でも、最近では回転寿司なんかの日本料理店が結構ありますね。」

「そうなんだ。確かに、さっき回転寿司店を見かけたかもしれない。最近は色んな国の色んな料理が、その土地に合わせてアレンジされて食べられるようになり、食生活が豊かになりましたね。」


光一たちは、お腹も満たされて、店を出ると、ホテルに向かった。

「今日は、丁寧なガイドと運転ありがとうございました。お蔭様で韓国の歴史を身近に感じることができて、いい勉強になりました。」

「こちらこそ、食事までごちそうになってありがとうございました。まだ、未熟なガイドで物足りなかったかも知れませんが、そう言っていただけるとうれしいです。」

三人はそう挨拶して別れた。





三、朱蒙の夢




光一は、疲れていたので、部屋に戻って、シャワーを浴び、10時前にベッドで眠りに就いた。


そして、気が付くと、光一の傍らに、朱蒙チュモンのビデオで見た母親の柳花ユファが、立っている。彼女は、光一にこう言った。

「朱蒙よ、解慕漱ヘモス様が成しえなかった古朝鮮の復興を、これからあなたが成し遂げるのよ。」

「待ってください。私は朱蒙ではありません。私は日本から来た単なる旅行者の光一という者です。私には、そんな力はありません。」

思わず光一は答えた。自分は、単なる韓国への旅行者なのだ。

「でも、あなたは、朱蒙にそっくりよ。きっとあなたは朱蒙の生まれ変わりに違いないわ。だから、あなたは日本の東明聖王なの。できないはずはないわ。きっと、あなたは、朱蒙として、古朝鮮の復興を成し遂げることができるはずよ。」

「・・・」

「遠い昔、漢に居た私たちの祖先は、東方に追われ海を渡り、古朝鮮を建てたのよ。そして、また、漢によって古朝鮮を追われ、流浪の民となり、北や南に逃れ、そして、東に海を渡ったわ。今こそ、離れ離れになった糸を手繰り寄せて、再び古朝鮮を再建し、漢に戻るのよ。漢は、始まりであり、終わりでもあるわ。」

光一は、故郷の漢に戻れと言っているように聞こえた。しかし、自分は単なる旅行者なのだ。軍隊も権力も持ち合わせていない。柳花ユファの言っていることが理解できなかった。

「・・・」

「まだ、私の言うことが理解できないみたいね。でも大丈夫。きっと、わかる時が来るわ。あなたは、東明聖王なのだから。」


ああ、夢だったのか。光一は目が覚めて、時計を見た。外は明るくなって、朝の6時を回っていた。喉が渇いていたので、ペットボトルのお茶をごくごくと飲んだ。

昨日、キムさんが一日中付き合ってくれたからだろうか、柳花ユファが夢に出てくるなんて・・・。どうして、柳花は光一に古朝鮮の再建を託したのだろうか?九州に旅した時は、自分が倭建命としての役目を託されたように思う。そして、韓国では朱蒙の役目を託されたのだ。朱蒙と倭建命と光一はよく似ていてどこかでつながっているのだろうか。

古朝鮮を再建して、漢に戻れと言っていた。古朝鮮を建てるとは、いったいどういうことなのか?そして、漢に戻るとは?


 光一は、お腹がすいたので、身支度をしてホテルのチェックアウトを済ませ、近くのファーストフード店で朝食を食べることにした。ハンバーガーの大きさや味は、日本とあまり変わらなかった。食事を済ませると、明洞ミョンドン駅から地下鉄に乗り、景福宮キョンボックンに向かった。景福宮キョンボックンは、李氏朝鮮の太祖・李成桂イ・ソンゲが、1395年に高麗の首都だった開京(現・開城)から漢陽(現ソウル)に移した際に建てた王宮であるが、豊臣秀吉の朝鮮出兵による文禄の役で焼失し、1910年の韓国併合後、朝鮮総督府庁舎が建設されるなど、日本の朝鮮支配に翻弄された場所でもある。朝鮮王朝時代の姿に復元すべく、1990年に始まった第一次復元事業で25%が復元され、現在は第二次復元事業が行われている最中とのことである。歴史の流れとは言え、李氏朝鮮に対して、日本は加害者であり、それが現在の日韓関係に負の遺産として多大な影響を及ぼしていることは事実であろう。光一は、日本語無料ガイドを行ってくれると聞いて、景福宮キョンボックンの立派な光化門を眺めながら、チケットを購入して、案内所に向かった。

王の即位の礼、朝会、外国からの使節の謁見など、国の公式行事が行われたという勤政殿を始め、王が執務を行った思政殿、接待に使われた慶会楼、寝殿の康寧殿や交泰殿などを1時間半くらいで見て回った。ガイドさんの丁寧な説明のお蔭で朝鮮王朝の様子を垣間見ることができた。

光一は、近くのレストランでククスという韓国麺を食べ、ホテルに荷物を取りに戻り、そのまま空港に向かった。空港は、観光客で混雑していた。最近、何となく身体の衰えを感じるようになっていた光一は、免税店で、高麗人参を購入した。文江も喜んでくれるだろうか。


出国手続きを済ませ、高麗人参の説明書きを見ながら搭乗口で待っていると、『神秘の健康力・研究』という言葉が飛び込んできて、ふと頭に浮かんだことがあった。柳花ユファが光一に言った『古朝鮮を再建する』とは、実際に建国したりすることではなく、神話や伝説の世界と化した『神秘』に満ちた古朝鮮の歴史を『研究』して、史実に基づいた『健全な』歴史に再構築し、世の中に示すことではないだろうか?それなら光一にもできるかも知れない。


 まもなく、搭乗案内のアナウンスがあり、光一は改札を通り機内に乗り込んだ。座席に座り、窓を眺めると、外は雨が降っていた。光一は、朝鮮半島の歴史に思いを巡らせてみた。朝鮮半島は今以って二つの国に分断されている。その前には、日本が占領して国家が消滅した。さらに遡ると、元王朝による短期的支配や中国王朝の冊封による間接支配はあったものの統一新羅・高麗・李氏朝鮮といったほぼ統一国家を保った黄金期、高句麗・百済・新羅の三国時代、夫余・馬韓・辰韓に漢四郡の統治と続く。このように、時代は移り変わって来たが、そこには、常に中国やその他の強国により従属的立場を強いられてきた朝鮮半島の宿命が垣間見える。しかし、その昔の伝説の時代である古朝鮮の頃は、まだ中国の影響は及ばず、独立国家を保っていたのかも知れない。柳花ユファはそんな自主独立の時代を解き明かせと言ったのだろうか?


『朝鮮半島の国家形態の変遷』   『その時代の国々』

 現在    分裂独立       北朝鮮・韓国

 ↓     連合軍駐留

 ↓     日本駐留

 ↓     日本傀儡       大韓帝国 

 ↓     独立(中国冊封)   李氏朝鮮 

 ↓     げん駐留

 ↓     独立(中国冊封)   高麗 

 ↓     分裂独立(中国冊封) 高句麗・百済・新羅

 ↓     分裂独立・漢駐留   夫余・馬韓・辰韓・漢四郡

 伝説の時代 自主独立?      古朝鮮


飛行機は、東京上空に差し掛かり、間もなく着陸態勢に入り始めた。


光一は、柳花ユファの言葉どおり、東明聖王として、古朝鮮の歴史を紐解いて行く朱蒙チュモンの姿を想像した。そこには、海外の歴史にまで首を突っ込むのは大変だと思いつつ、朱蒙チュモンになった気分も悪くないなと、ほくそ笑む自分が居た。そして、それが、日本と韓国のボタンの掛け違いを治すのに繋がればそれに越したことは無い。 



四、古朝鮮の謎




韓国から戻った光一は、さっそく古朝鮮のことをネットで調べてみることにした。それによると、古朝鮮とは、前漢の武帝による漢四郡設置以前の古代朝鮮(紀元前108年以前)の総称で、檀君だんくん朝鮮・箕子きし朝鮮・衛氏えいし朝鮮の三朝鮮を指すようである。ウィキペディアによると、この三朝鮮は以下のとおりである。


檀君朝鮮(紀元前2333年)は、存在したという物的証拠が何一つ発見されていないため史実的な根拠は極めて薄弱。


箕子朝鮮(~紀元前194年)は、伝説上の創作された国家とする説と、そのまま史実ではないものの実在した王朝が反映された伝承とする説、史実とする説など見解がわかれている。


衛氏朝鮮(~紀元前108年)は、その実在について確定しているが、衛氏朝鮮を「朝鮮」とよぶのは司馬遷の『史記』が最初であるが、これは国名が忘れられていたため便宜的に楽浪郡朝鮮県(現在の平壌)の名を用いたにすぎず、実際の国名ではないとする説もある。


以上のことから、檀君朝鮮については、紀元前2333年頃に実在した可能性は極めて低いが、その伝説には、何らかのヒントが隠されているかも知れない。なお、箕子朝鮮と衛氏朝鮮については、『史記』に記述があり、実在していた可能性がある。

光一は、まず、檀君朝鮮について『三国遺事』の引用による記述を調べることにした。


桓因かんいんの庶子である桓雄かんゆうが人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下と共に降り、そこに神市という国を興すと、人間の地を360年余り治めた。』


この記述の中の太伯山とは、北朝鮮中部にある妙香山のこととされているが、この『太伯』が、中国春秋時代の呉王朝の始祖である太伯に因んで命名されたとすれば、呉からの移民が興したと考えらえないだろうか?王朝の滅亡期に多くの難民が出るということは、よく聞く話である。光一は、呉の最後の王を調べてみた。すると、紀元前473年に呉の第七代王である『夫差ふさ』が越に滅ぼされ、最後の王となったことがわかった。もし、夫差が生き延びて、部下を連れて朝鮮半島に渡り、古朝鮮を建国したとすれば、紀元前473年から360年経過した紀元前113年頃とは、渡海や古朝鮮建国までの準備に要した歳月を加味すると、古朝鮮が滅ぼされ漢四郡が置かれた紀元前108年にほぼ等しい頃となる。つまり、檀君朝鮮の伝説は、2333年という建国年の信憑性には欠けるが、伝説の内容としては古朝鮮のことを言い表しているのではないだろうか。


紀元前473年 呉滅亡(夫差らが黄海を渡り朝鮮半島へ?) ⇔5年

紀元前468年 古朝鮮建国?               建国

紀元前108年 古朝鮮滅亡(漢四郡設置)         ⇔360年


光一は、越王勾践の前で、呉王夫差が自害する場面を、史記の『越王勾踐世家』で確認した。すると、越王が呉王を部下として処遇すると申し出たが、呉王はもう老齢なので仕えることができないと言って自殺したが、死に臨んで顔を蔽っていたとある。したがって、死に臨んだ呉王は、実は身代わりで、夫差ではなかったとも考えられる。


『越王勾踐世家』

吳王謝曰:「吾老矣,不能事君王!」遂自殺。乃蔽其面


そして、それ以前に呉王夫差の庶子である公孫雄が越王勾践に対して、許しを請う場面がある。この公孫雄=桓雄、夫差=桓因とすると、夫差と公孫雄は、滅亡の渕から逃れ、古朝鮮を興した可能性が十分あるように思われる。


柳花ユファは、『漢に戻れ』と言った。また、『漢は始まりであり終わりである』とも言った。漢とは、呉をも指しているのだろうか?柳花ユファは、漢の頃に生きた人だから、そう言ったのだろうか?いや、『古朝鮮を再建=古朝鮮の歴史を再構築』としたら、『漢に戻る=漢の歴史に立ち戻って再構築』ということではないだろうか?


光一は、『史記』をもう一度調べてみた。史記は、中国の正史である二十四史の中で最も古く、正史が作成されるようになった最初の正史である。そして、その発行時期は、漢の時代に遡る。史記には、伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までの歴史が記されている。つまり、漢の時代に発刊され、中国の始まりから漢の時代までが記されているということは、漢に始まり漢に終わることを物語っているのではないだろうか。そして、漢の時代に記されたということは、漢に都合の悪い記述は避けられるのである。


『始まり』              『終わり』

漢の武帝の頃史記(最初の正史)発刊  漢の武帝の頃古朝鮮滅亡

史記は中国の伝説上の五帝から始まる  史記は漢の武帝の頃までで終わる

←←← 漢で始まり漢に終わるから漢を貶める記述は避けられる  →→→


柳花ユファが、史記に立ち戻れと言っているとすると、史記の朝鮮に関わる記述をさらに調べて行くことで、もっと新しい史実が見つかるかも知れない。

光一は、箕子朝鮮のことが記された史記の『宋微子世家』を調べてみることにした。


『宋微子世家』

箕子對曰:「在昔鯀陻鴻水,汨陳其五行,帝乃震怒,不從鴻範九等,常倫所斁。鯀則殛死,禹乃嗣興。天乃錫禹鴻範九等,常倫所序。・・・

於是武王乃封箕子於朝鮮而不臣也


そこには、周の武王が箕子を訪ねて行った際、箕子が語った『鴻範九等:洪範九疇こうはんきゅうちゅうに同じ』が記されていた。洪範九疇とは、儒家の経典である『書経』の一編にもなっており、政治道徳の九原則である。儒教の始祖である孔子は、宋(春秋)の初代宋公となった微子啓びしけいとその弟の微仲衍びちゅうえんの直系の子孫になるようだ。したがって、ここでは箕子=其子(その先生)と言う架空の人物を使って、後の紀元前500年頃に活躍した孔子の教えを説いているのではないだろうか。

そして、それに続いて、武王はそのような尊い先生を部下にするのは忍びないと(はばか)ったのか、確かに箕子を朝鮮に封じたと記されている。しかし、檀君朝鮮の紀元前2333年が誤りなら、周の武王(~紀元前1043年)の頃にはまだ朝鮮という地は無かったわけで、例えば『燕の東夷に封じその地を朝鮮と名付けた』などの表現になるべきかと思われる。また、年代は別としても、先に述べた檀君朝鮮の伝説の内容が正しいとすれば、朝鮮に封じたのは周の武王ではなく漢の武帝で、箕子ではなく漢四郡の太守を漢四郡に封じたことを暗に表現しているのかも知れない。やはり、史記は、漢四郡を正当化するために、昔から朝鮮が中国の支配下にあったことを伝えようとしているように見える。


次に、衛氏朝鮮のことが記された史記の『朝鮮列伝』を調べてみることにした。


『朝鮮列伝』

朝鮮王滿者,故燕人也。自始全燕時嘗略屬真番、朝鮮,為置吏,筑鄣塞。秦滅燕,屬遼東外徼。漢興,為其遠難守,復修遼東故塞,至浿水為界,屬燕。燕王盧綰反,入匈奴,滿亡命,聚黨千餘人,魋結蠻夷服而東走出塞,渡浿水,居秦故空地上下鄣,稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡命者王之,都王險。・・・上許之,以故滿得兵威財物侵降其旁小邑,真番、臨屯皆來服屬,方數千里。傳子至孫右渠・・・左將軍使右渠子長降、相路人之子最告諭其民,誅成巳,以故遂定朝鮮,為四郡。


概略は以下のとおりである。

『朝鮮王の『まん』は燕の国の人である。燕の最盛期には、真番・朝鮮を服属させていた。燕が秦に滅ぼされた後、漢が興ると燕王が漢に背いて匈奴に逃亡し、満は朝鮮に亡命した。そして、千余人の徒党や真番・朝鮮の蛮夷、燕・斉からの亡命者などを集めて王となり、王険(平壌)を都とした。そして、漢の外臣となり、朝鮮の最盛期は数千里四方に及んだ。満の孫の右渠うきょの代になると、さらに拡大し、漢に横柄な対応を行ったので、右渠うきょを責めて諭したが、聞き入れず、漢が攻め遂に朝鮮を平定し、漢四郡を置くことになった。』

つまり、古朝鮮は、途中から燕に属し、その後、燕からの亡命者『満』を王としたことが窺われる。そして、孫の『右渠うきょ』の代になると、領土拡大し横柄になったので、漢に攻められ遂に滅亡して漢四郡が置かれることになるのである。

一見筋は通っているが、これも漢四郡を置くための口実と取れなくもない。しかし、朝鮮は燕と隣接していたのだから、燕に朝貢していた可能性も十分考えられるし、燕から亡命したとしても不思議ではない。そして、360年続いたという檀君朝鮮の伝説を否定することにもならない。


柳花ユファは、漢に古朝鮮を追われ、北や南に逃れ、東に海を渡ったと言った。北に逃れて夫余を建国し、南に逃れて馬韓を建国したとすれば、夫余を建国したのは、『夫』に象徴される呉の夫差の系統で、馬韓を建国したのは韓の系統かも知れない。そして、東に海を渡った先が日本(倭)とすれば、日本は古朝鮮から分かれたということになる。そして、倭の建国に海神わだつみが関わっていたとすれば、紀元前3世紀頃には倭が存在していたことになる。これまでの情報を基に光一が出した結論は以下のようなものである。


紀元前473年に呉王朝を追われた夫差らは、多くの部下と共に、黄海を渡り朝鮮半島に辿り着き、古朝鮮を建国する。古朝鮮は、箕子朝鮮のごとく、孔子の教える儒教などの倫理哲学をも踏まえた徳による政治で土着部族や、中国からの亡命者なども積極的に受け入れ、教化し、緩やかな連合国家となる。紀元前4世紀頃になると、燕が強大化し、古朝鮮は燕に服属することになる。一部の部族は、新天地を求め日本の九州に移住し、倭を建国する。燕滅亡後の紀元前2世紀に入ると燕からの亡命者の満が王となり燕の間接支配から逃れて古朝鮮をさらに拡大する。しかし、秦に替わって誕生した漢の支配が広がると、漢四郡が設置され、遂に古朝鮮は滅亡する。北に逃れた夫差の系統は夫余を建国し、南に逃れた韓の系統は馬韓を建国する。そして、倭の系統は、一部を朝鮮半島南岸に残し、東に海を渡り、九州に逃れた。


 つまり、日本の王朝のルーツは、古朝鮮にあり、そのまたルーツは中国江南地方にあったというものである。しかし、燕に服属した古朝鮮から離れ、倭を建国した日本は、満の率いる古朝鮮と決別したのかも知れない。朝鮮から満州へと大陸侵攻した旧日本陸軍のシンボルは三足烏さんそくうではなく、二本足のからすだったのである。三足烏の三本の足は、「天」「地」「人」を表すらしいが、日本の大陸侵攻は、「天」と「地」のみで、「人」が欠落していたのかも知れない。清王朝最後の皇帝で映画『ラストエンペラー』のモデルとなった愛新覚羅溥儀あいしんかくら ふぎは、紫禁城に住み2歳で皇帝になると、中国革命の嵐が吹き荒れる中、日本帝国陸軍の大陸進出の道具として満州帝国の皇帝に担ぎ出され、自分や家族の運命は日本帝国の戦況悪化と共に翻弄されていくのである。皮肉にも自らの故郷である朝鮮半島および満州への大陸侵攻を行った日本と、それを被った韓国がなぜ相容(あいい)れない関係になったのかが、少しずつ解ってきたような気がする。




五、漢と海神




そんなある日、光一に中国出張の話が舞い込んできた。勤務している会社の工場が中国の上海にあり、新商品の生産立上げの支援を要請されたのである。光一は、中国の文化にも触れることができる絶好のチャンスとばかり、喜んで引き受けることにした。

上海へは、飛行機で東京羽田空港から上海虹橋シャンハイホンチャオ空港へ飛び、空港からホテルへはタクシーで向かう。光一は、十月の爽やかな日に、上海の街に居た。高層ビルが立ち並ぶ通りを少し歩き、ホテルの近くのカジュアルなレストランで夕食を取ることにした。メニューは火鍋である。一人鍋だが、青島ビールを片手に、白湯パイタン麻辣マーラーのスープに海鮮や肉や野菜などを入れていただくと、とても幸せ気分になった。

明くる朝、ホテルで朝食を済ませると、光一は工場に出社し、先輩の中村さんに挨拶に行った。中村さんは、以前同じプロジェクトで仕事をさせてもらい、お世話になった先輩である。現在は、上海の工場で生産技術部長として、現地社員の育成と指導に尽力されている。

「中村さん、お久しぶりです。今回、車載電装品Aシリーズの生産立ち上げ支援に伺いました。一週間ほど御厄介になります。よろしくお願いします。」

「やあ、小出さんか、お久しぶり。君が来てくれたら、安心だ。車載電装品Aシリーズは、工場でも注力している商品だし、よろしく頼むよ。立ち上がったら、一緒に飲みに行こう!上海の街を案内するよ。」

「ありがとうございます。品質優先で取り組みますが、納期のほうも何とか前倒しで終わらせたいですね。」

光一は、中村さんにお礼を言って、現場のほうに向かった。

製造ラインでは、既に量産試作が始まっていた。工程の不良品置き場を見ると、まだ、ポツリポツリと不良が発生しているようだ。工程管理の王さんに確認すると、樹脂成形の工程と、最終検査工程で、不良が発生していることがわかった。樹脂成形の不良はバリが出ることによる問題である。成形用金型の精度は国内で試作ラインを通して確認済みである。後は成形材料と、温度・圧力などの管理に課題が残っていると思われる。温度・圧力のプロファイルは、国内と同様だが、成形材料は、中国で別途調達しており、基本成分は同じだが、温度による可塑かそ特性が国内品に比べ幾分低温側に振れることがわかった。成形機の金型温度を基準値より5℃と10℃下げて、試し打ちをしてみる。その結果、5℃下げることで、不良が発生しなくなることがわかった。一方、最終検査工程での不良は、嵌合(かんごう)不良によるものだった。そして、実は樹脂成形部品の少量のバリが検査で()ねられずに流出したことによる組立不良であることがわかった。光一は、成形部品の検査基準を是正して、明くる日に量産試作を再開してもらうことにした。

そこで、取り敢えず今日のところは、中村さんに状況を報告して、ホテルに戻ることにする。

「現地調達の樹脂成型でバリが出ていました。成形機の金型温度を調整して、バリの検査基準を見直したので、もう不良は発生しないと思います。明日の量産試作の状況を見て最終判断したいと思います。」

「そうか、原因がわかって何よりだ。小出君、君が居てくれて助かったよ。」

「いいえ、今回は原因が一つだけだったので、ラッキーでした。明日、何も起きないといいんですけどね。取り敢えず、今日はこれで失礼しようかと思いますが、いいですか?」

「ありがとう。今日は帰ってゆっくり休んでくれよ。」

「それじゃあ、これで失礼します。」

光一は、工場を後にタクシーでホテルに帰った。今日の夕飯は、日本食が食べたくなって、ホテルの近くの焼き鳥居酒屋に入った。ここは、日本人のサラリーマンが多く、日本語も通じるから安心だ。光一は、枝豆と串焼きとサラダ、それににぎり寿司と日本のビールを注文した。旨い焼き鳥に酒も進む。

光一は、製造ラインの不良原因が解明できてほんとうによかったとビールを飲みながら、改めて思った。製造工程の安定を保つには、4M変動(MAN、MACHINE、MATERIAL、METHOD)による変化を捉えて、是正することが重要である。今回の問題は、MATERIALの変動が原因だった。やはり、品質理論は大切だ。


ひとしきり飲んで、光一はカードで勘定を済ませ、ホテルに戻った。少し喉が渇いていたので、無糖のペットボトルのお茶を飲もうとした時、ふと気になっていたことが頭をよぎった。国家の安定も品質理論と同じではないのか?南の越の国力増強という変化を捉えられず北へ勢力拡大したことにより国家が不安定になった呉や、秦の強大化という変化を捉えられず斉や趙との対抗のみに熱心だったために国家が不安定になった燕などからの避難民が古朝鮮を建てた。海神わだつみが倭建国に関わっていたとすれば、徐福と出会った海神わだつみは紀元前219年頃には日本にいたので、古朝鮮から分かれて倭国を建てた系統もその数十年前には日本に居たはずである。そして、その系統が同様に避難民とすれば、黄海や東シナ海に面していて、呉滅亡の紀元前473年前後から倭建国の最も遅い想定時期の紀元前230年頃までに変動があり国家が不安定になった王朝を調べれば倭国を建てた系統がわかるかも知れない。

光一は、ネットで中国の古代地図を調べてみた。すると、燕と呉を除くと、残るのは、斉と越と楚くらいであることがわかった。越は、呉越同舟という故事があるとおり、呉と相容れない関係なので古朝鮮建国の候補からは省き、斉と楚を調べてみた。斉では、紀元前672年に陳から亡命して来た田氏が、他の有力貴族たちを次々に抗争で脱落させ、遂に紀元前386年には主君の呂氏の座を乗っ取るという政変が起きている。楚では、逆に紀元前334年に越を滅ぼし東シナ海に面する土地を手に入れるという事件は起きているが、国家が不安定になるような事件は、紀元前4世紀には起きていない。紀元前3世紀に入ると秦の侵攻を受けるようになるが幾度かの遷都により持ちこたえる。しかし、春申君亡き後、国政を執る者がいなくなり、遂に紀元前223年に滅亡するのである。とは言え、楚の滅亡は想定する倭建国より後となるので、対象外となる。そして、呉の系統も夫余を興したとすると、対象外となる。越の系統が直接日本に渡来したことも考えられるが、日本には越前・越後など『越』の字が付く明示的な地名があるので、暗示的に伝わる倭国の基礎を築いた民族とは考えにくい。したがって、倭国のルーツは斉であった可能性が高い。


『不安定発生年代』 『倭建国の可能性』  『倭建国可否の理由』

紀元前473年滅亡 呉×(中国東海の国) 古朝鮮→夫余を建国

紀元前386年政変 斉○(中国東海の国) 古朝鮮から分かれて倭へ?

紀元前334年滅亡 越×(中国東海の国) 呉と相容れない、明示的地名

 【紀元前300年頃~紀元前230年頃に海神が関わって倭を建国する】 

紀元前223年滅亡 楚×(中国東海の国) 倭建国以降

 【紀元前219年頃秦の徐福が蓬莱山のある日本で海神と出会う】

紀元前195年亡命 燕×(中国東海の国) 倭建国以降


 しかし、斉の呂氏系統の最後の君主である康公は、酒色に耽り政治を顧みなかったようである。そのような人物が国を脱出して古朝鮮や倭を建国するだろうか?

 光一は、まずウィキペディアで斉の田氏のことが記された史記の田敬仲完世家の原文を確認してみた。すると、景公の子の晏孺子あんじゅしが太子として立った頃(紀元前490年)に政変があり、田氏が晏孺子あんじゅしとそれを支える国氏と高氏を攻めたことが記されていた。そして、国氏はきょに亡命し、高氏は殺されたが、晏孺子あんじゅし[晏圉あんぎょ]はに亡命したと記されている。なお、晏圉あんぎょとは、斉の功名な政治家 晏嬰あんえいの子とされているが、ここでは、晏孺子あんじゅし晏圉あんぎょが混同されている。


『田敬仲完世家』

田乞之眾追國惠子,惠子奔莒,遂返殺高昭子。晏(孺子)[圉]奔魯。


ところが、光一が図書館で借りた訳本には、高昭子と晏圉は魯に出奔したと記されている。光一は以前に、図書館から借りた訳本(中国古典文学大系 訳者代表 野口定男 平凡社発行)の史記に関する主だった箇所を画面コピーしてスマホに収めていたのである。そして、それには高氏も魯に出奔したと記されており、殺されていないことになる。史記の著者の司馬遷は、李陵の擁護が武帝の逆鱗に触れ宮刑投獄されるが、その後釈放され、執念の末、編纂を終える。当初竹簡に記された史記は、司馬遷が紀元前91年頃執筆を終えてから孫の代の頃にやっと世に出て、その後も数々の注釈・改訂がなされたようである。長い年月を経て、幾多の変遷を経る中、それぞれの発行本の中身は少しずつ異なって行ったのではないだろうか。


次に呉太伯世家を調べてみた。以前に呉のことを調べていたときに、呉の話なのに、ここには斉の政治家の晏嬰あんえいの話が載っているのを不思議に思ったことがあったからである。すると、晏子の話が載っていて、晏子因や陳桓子が登場する。


『呉太伯世家』

故晏子因陳桓子以納政與邑 是以免於欒高之難


一般的には『斉の政治家の晏嬰あんえいが親の晏桓子を介して国政と領地を返納したので欒施らんし高彊こうきょうの災難を免れた』とされているが、晏桓子が陳桓子になっている点、晏嬰を単に晏子としている点を踏まえ、因を単に助字と捉えずに固有名詞とも捉えて、晏子を晏孺子、陳桓子を陳系統の田斉と解釈すると、『故に晏孺子因は、田斉の系統に国政と領地を返納したので仲間の高の災難を免れた』と捉えることもできそうだ。先の田敬仲完世家の異なる記述が物語るように、高氏は殺されずに難を逃れたのかも知れない。そして、斉の政変が呉につながるということではないだろうか。

光一は、古朝鮮の伝説を思い出した。政変で田氏と呂氏が入れ替わったので『晏子因』と『桓子』を入れ替えると、『桓子因』となる。『子』は単に尊称などの意味なので『桓子因』=『桓因』となる。

つまり、古朝鮮の伝説に登場する天帝桓因とは、呉の最後の王夫差に加え、景公死後の政変で斉から魯に亡命した晏孺子あんじゅし呂荼りょとをも意味しているのではないだろうか。それらを踏まえて、倭建国の可能性を次のように再検討した。


『不安定発生年代』 『倭建国の可能性』  『倭建国可否の理由』

紀元前490年亡命 斉○(中国東海の国) 海神で古朝鮮建国に関わり倭も建国

紀元前473年滅亡 呉×(中国東海の国) 古朝鮮→夫余を建国

紀元前334年滅亡 越×(中国東海の国) 呉と相容れない、明示的地名

 【紀元前300年頃~紀元前230年頃に海神が関わって倭を建国する】 

紀元前223年滅亡 楚×(中国東海の国) 倭建国以降

 【紀元前219年頃秦の徐福が蓬莱山のある日本で海神と出会う】

紀元前195年亡命 燕×(中国東海の国) 倭建国以降


倭建国に関わった避難民の出身国は、確かに斉かもしれないが、その中心人物は、最後の呂氏系統の康公ではなく、紀元前490年の政変で魯に亡命した晏孺子あんじゅし呂荼りょとと高氏に違いないとの確信を得た。これにより、他の避難民より最も早い紀元前490年が、古朝鮮建国に携わったことと、他の避難民の渡海を支援した海神自身である可能性をも物語っているように思われる。そして、燕の勢力が拡大し、古朝鮮が燕に服属した頃、海神は古朝鮮を離れ、倭を建国したということではないだろうか。


もう一つ調べてみたいことがあった。柳花ユファが言ったように、漢=史記に戻ると、史記には、暗号が隠されていることが見えてきた。著者の司馬遷は、漢に都合の悪いことを暗号に隠して示したのではないだろうか。

田敬仲完世家には、古朝鮮に加担した晏孺子あんじゅし晏圉あんぎょと混同してわざと曖昧にしているように見える。

呉太伯世家には、呉の事象に対して表向きには斉の晏嬰あんえいの話を裏で晏孺子あんじゅしの話として載せているように見える。

そして、以前に調べた淮南衡山列伝で、臣下が王を諌めるために話した徐福と海神の比喩話も、漢の高祖劉邦の末子である淮南王劉長とその子劉安らの事象として載せているが、実は古朝鮮や海神の話をしているのではないかと思えて来たのである。そこで、再度原文を調べてみると、王の后として晏孺子あんじゅし呂荼りょとと同じ『荼』が登場する。そういえば漢の高祖劉邦の后で悪名高い呂后も呂の付く人である。そして、劉邦も劉長と同じ末っ子なのである。これは、単なる偶然と思えない。漢王と淮南王を重ね合わせているのではないだろうか。また、呂后は秦で繁栄した呂不韋りょふいの一族である可能性があるという。呂不韋りょふいも斉から亡命した呂荼りょとと同じ系統で海神として商売に成功したということではないだろうか。晏孺子あんじゅし呂荼りょとと高氏が亡命したからは淮河わいがにも近く、淮南王として君臨したことは十分想定できる。


『劉邦と劉安の比較』

地位  名前            きさき

漢高祖 劉邦            呂后

                 (劉邦死後は悪名高い、呂不韋一族)

淮南王 劉安            荼

  (海神の話、武帝のとき自害) (晏孺子:呂荼、古朝鮮と倭を建国)


これを光一なりに解釈してみると次のとおりである。

『漢のよき女房役だった海神は、淮南と倭を拠点に漢の各地や古朝鮮などと大々的に交易を行って多大な利益を得ていたが、武帝の頃に漢と対立し、古朝鮮は滅亡し、淮南も追われ、倭と朝鮮半島南岸で細々と交易するのみとなる。』


 夢中になって調べていたら何時の間にか12時を回っていた。光一は、室内照明を消して布団に入った。




六、弥生の起源




明くる日、光一は、工場に赴き、量産試作の状況を確認していた。ラインは順調に稼働し、これまでのところ不良は発生していない。王さんと談笑していると、中村さんがラインを見に来てくれた。

「順調そうだね。」

「そうですね、何とか無事に量産試作を終えたいところです。」

「じゃあ、今晩飲みに行くか。」

「いいですね。是非お願いします。」


16時を回った頃に、量産試作は、無事に終了した。光一は、王さんとの最終確認と片付け作業を行い、事務所に戻った。すると、中村さんが戻ってきて、声をかけてくれた。

「量産試作も無事終了したようだね。ありがとう。助かったよ。」

「予想していたより早く片付いて何よりです。」

「じゃあ、そろそろ引き揚げて、祝杯を挙げに行こうじゃないか。」

「そうですね。よろしくお願いします。」

光一たちは、上海の街に繰り出した。

屋台などを見て歩き、一軒のレストランに入って、上海蟹や小龍包など上海の味覚を堪能した。


そして、光一たちは中村さん行き付けの日式スナックに入った。

「ここのママさんは、日本企業に勤めていたから日本語が上手で、中国の歴史にも詳しいんだ。」

ママさんは、チャイナドレスを着ていて、アグネスチャンに似た可愛い女性だった。

「中村さん、いらっしゃい。お連れの方は?」

「僕の後輩で、頼りになるやつなんだ。」

「小出です。出張で来てるんです。」

「日本から来られた方ね。劉美玲リュウ・メイリンと言います。よろしくね。」

「こちらこそよろしく。最近東アジアの歴史について勉強中なんです。中国のこと色々教えてください。」

「中国はどちらか行かれたんですか?」

「いいえ、まだ、ホテルと会社の往復だけです。」

「明日、蘇州辺りに行ってみたらどうだい?上海からも遠くなく、古都の風情が残る水の都で、東洋のヴェニスと言われている綺麗な所だよ。日本語で解説してくれるオプショナルツアーもあるし、楽しめると思うよ。」

「いいですね。明日は蘇州の休日としようかな。」

「蘇州は、春秋時代の呉王朝の都よ。最後の呉王夫差は、蘇州が陥落して、越王勾践の前で自害するのよ。」

「呉越の歴史が感じられそうですね。でも、私の見解では、夫差はそのとき死んでいないんじゃないかと思うんです。」

「それってどういうこと?」

「史記の越王勾踐世家によると、夫差が自害するとき、顔を(おお)っていたんです。つまり、身代わりではないかと。古朝鮮の神話に太伯山という山が登場するんですが、それが呉の始祖である太伯に因んで命名されたとすると、夫差は難を逃れて臣下と共に朝鮮半島に渡り、古朝鮮を興した可能性があるんです。」

「少し飛躍しているようにも思えるけど、面白い推察ね。」

「それに、古朝鮮の建国神話に、桓因とその庶子である桓雄という神が登場するんですが、桓雄とは、夫差の庶子である公孫雄のことではないかと。」

「確かに、蘇州からなら、海を渡って逃れるのも可能ね。」

「さらに、古朝鮮を興した王朝は呉だけではないと思っています。斉王朝も絡んでいるんじゃないかと。」

「斉の主君の呂氏系統の座が、陳から亡命して来た貴族の田氏系統に乗っ取られるという政変が起きるのよね。」

「そうなんです。呂氏系統の最後の王は、田氏にいいようにやられて酒色に(ふけ)って政治から遠ざかり、結局主君の座を奪われるんですが、その5代前の晏孺子あんじゅし呂荼りょとと有力貴族の高氏は、田氏の政争の網を掻い潜って、隣国のに亡命して逃れ、同様に朝鮮半島に渡ったのではないかと。」

「斉は、呉と同様、周の諸侯国の一つだけど、蘇州よりずっと北の山東半島を囲むような地域に興った国よ。そんな呉と斉が、共に古朝鮮の建国に関与していたってこと?何かその根拠はあるの?」

「史記には、暗号が隠されていそうなんです。漢の時代に書かれた史記は、漢に都合の悪いことは書けないので、司馬遷は暗号を用いて示したのではないかと思っているんです。」

「確かに史記は、漢の武帝の逆鱗(げきりん)に触れるからか、完成してもしばらくは公にされなかったらしいわね。」

「呉太伯世家には、呉の話なのに表向きには斉の晏嬰あんえいの話に見えて、実は晏孺子あんじゅしの話が載っていて、裏の意味は、『晏孺子が田氏に国政と領地を返納したので仲間の高の災難を免れた』といった意味になりそうですし、斉の晏子因と陳の桓子が登場するんですが、呂氏が田氏に君主の座を乗っ取られるので、晏子因と桓子を入れ替えると桓子因になりますよね。これって、さっきの古朝鮮を興した天帝桓因を指していると思えませんか?その他にも、淮南衡山列伝には、淮南王の劉長とその子劉安らが登場しますが、臣下が劉安を諌める場面に登場する海神の話が、実は劉安自身が海神で、その海神の一族の話ではないかと思えて来るんです。」  

「中国は、南船北馬と言われるように、淮河を挟んで、北は寒く乾燥した畑作中心で主たる移動手段は馬に頼っていたのに対して、南は温暖で水田が広がって、蘇州辺りも水路が発達していて、川を船で移動するのが常だったわ。そして、淮河辺りは、そんな北と南に挟まれて、よく戦争の舞台になり、また、川が氾濫して、人が住みにくく、統治されずに、放置されていたのよ。淮南王の話は、漢の高祖劉邦の末っ子だけど、そんな無法地帯の王として漢に反逆する王の話だわ。」

「そう、その淮南王が海神で、淮河流域を拠点に滅亡する王朝の渡海を支援し、古朝鮮をも建てたんじゃないかと。」

「つまり、淮南王は劉邦の末子ではなく、斉からの亡命者の晏孺子や高氏が淮河辺りを本拠地にして海神となり、朝鮮半島に渡り、呉王夫差と共に古朝鮮を興したということ?」

「そのとおりです。さらに、淮南王は、古朝鮮から分かれて、倭をも興したのではないかと思っているんです。淮南衡山列伝には伍被が王を諌める場面に徐福と出会う蓬莱(ほうらい)山の海神の話が登場します。この海神とは、実は淮南王で、蓬莱(ほうらい)山のある日本に渡って倭王朝をも興したんじゃないかと思っているんです。」

「二人とも、ミステリアスな歴史に熱心なので、僕はついていけないよ。でも、史記ってやつは奥が深そうだな。」

「中村さん、すいません。つい熱中しちゃって。」

「小出さんって面白い人ね。史記は、中国の最初の正史だし、そんな暗号が隠されてるなんて思わなかったわ。」ママさんが、グラスにウイスキーと氷を足しながら、興味深そうに微笑んでくれた。


それから、彼女は、別のお客の所に挨拶に行き、歴史の話はそれっきりになった。中村さんと光一は、しばらくカラオケに興じて、店を後にすることにした。

「中村さん、いつもありがとうございます。今日は面白い方を連れてきていただいて楽しかったわ。」

「僕も楽しかったよ。でも、ママの歴史熱がまた上がりそうだね。」

「小出さんも、また中国に来たら寄ってくださいね。」

「こちらこそ、いきなりで、突拍子もない持論を展開してすみません。」

「いやあ、でも史記を見る目が変わったかも。じゃあ、みなさん、お気を付けて。」


光一たちは、タクシーに乗り、帰宅の途に就いた。

「明日いっぱいは中国にいるので、何かあれば連絡ください。今日はほんとにごちそうになり、ありがとうございました。」光一は、中村さんにお礼を言って、ホテルに戻った。

シャワーを浴びて、着替えると、蘇州のオプショナルツアーを調べてみたが、翌日のことなので予約困難と諦めて、自力で行くことにした。上海虹橋シャンハイホンチャオ駅までタクシーに乗り、そこから高速鉄道で蘇州まで約30分で着く。


明くる日の朝、光一は蘇州行きの高速鉄道の列車内に居た。高速鉄道を利用するのは初めてだったが、乗車券の購入方法をネットで調べていたので、何とか購入できた。窓口で、行先、乗車日、列車の時刻、人数を書いたメモと、パスポートを見せて、現金で購入するのだ。二等座席なので少し(うるさ)いが、日本の新幹線と同様、座り心地も悪くない。30分程で蘇州駅に着いた。光一は、列車を降り、蘇州駅北広場を西に進み、小高い丘になっている虎丘へ向かった。虎丘は、約2500年前の春秋時代、越王勾践との戦いに敗れた呉王 闔閭こうりょの陵墓であるが、この地に埋葬されてから3日後、その墓に白い虎が現れたことから 『虎丘』 と呼ばれるようになったという言い伝えがあるようだ。呉王は虎と縁があるらしい。海神は浦島太郎の竜宮城が住処だとすると、龍と縁があることになる。龍と虎を描いた龍虎図は橋本雅邦など多くの画家が題材にしており、龍と虎はよき相棒なのである。その由来は、易経の『雲は龍に従い、風は虎に従う』という一節にあるらしい。そして、それは古朝鮮の伝説の次の一節に繋がるのではないだろうか。

『桓雄は太伯山の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下と共に降り、そこに神市という国を興す』

呉の始祖は太伯で、呉王は虎だから、虎に従う風の伯→つまり風伯。海神は斉からの亡命者だから斉の始祖で軍師である太公望で、海神は龍だから、龍に従う雲の師→つまり雲師。そして、易経の一節『雲行き雨施し』などより、雲師から雨師が生じたとすれば、呉王と海神が古朝鮮を興したことになる。やはり、古朝鮮の始祖は呉王と海神ではないだろうか。


呉王        虎 風は虎に従う 呉の始祖:太伯     → 風伯

海神(斉から亡命) 龍 雲は龍に従う 斉の始祖:太公望は軍師 → 雲師

            雲行き雨施し             → 雨師

 

話を戻そう。史記の呉太伯世家によると、闔閭こうりょは、息子の夫差に「勾践が父を殺したことを忘れるな。」と言い残して死んだようだ。そして、『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』という故事が生まれたように、その後、痛みを忘れず、夫差が勾践を追い詰め、父の敵討ちを果たしたのだ。しかし、勾践が命乞いをしたため、夫差は許してしまった。その結果、今度は逆に勾践に追い詰められ、夫差は自害することになるのである。ただし、光一の説では、顔を(おお)っていたので、自害したのは身代わりで、夫差は一族を率いて古朝鮮を興したのではないかと思っているのだが。

『呉越同舟』という故事があるとおり、蘇州はそんな呉越の興亡が繰り広げられた地なのである。断梁殿という門を(くぐ)って、石畳の階段を上って行く。しばらく歩くと雲岩禅寺の大殿があり、その先には有名な雲岩寺塔が見えた。この塔は、宋の時代に建てられたようだが、ピサの斜塔と似ていて、地盤沈下で3度傾いているらしい。光一は、写真を撮ったり、辺りをあちこち見て回り、次に蘇州古典園林の一つである留園を見学することにした。山塘街を歩きながら、古い町並みに呉越の歴史を感じる。街に張り巡らされた運河は京杭大運河につながり、長江や淮河や黄河へと、そして海へとつながって行くのだ。歩くのに疲れた頃、途中に蘇州麺の店を見つけ、光一は早速昼食休憩を取ることにした。蘇州麺は、ストレート麺で、紅湯ホンタン白湯パイタンの2種類のスープがあり、光一は、白湯を注文した。すると、麺とスープだけのどんぶりと、具を盛った皿が別々に運ばれてきた。光一は、具をどんぶりに載せ食べる。あっさりとしたスープだが、具を載せて食べると、とろっとして味わい深い。食べ終えてからひとしきり休憩すると、店を後に留園に向かった。

留園は、中国四大名園の一つで、世界文化遺産にも登録されている。明の時代の創建で、(はす)や奇石を配した池庭を取り囲むように楼閣が回廊でつながって建てられている。楼閣や回廊には、花窓や透かし彫りが施され、壺や掛け軸などの美術品が置かれている。扶余プヨでガイドのキムさんと話した宮南池クンナンジのことを思い出した。(はす)の花の咲く時期は、さらに綺麗だろう。しばし時を忘れて古典庭園に遊んだ光一は、蘇州駅に向かい、蘇州を後にした。


光一は、上海虹橋駅の横の虹橋天地のフードコートエリアで夕飯を食べ、明日の朝食や缶ビール、ペットボトルなどを購入し、タクシーでホテルに戻った。いよいよ、明日は、日本に帰るのだ。シャワーを浴びて、缶ビールを開け、ネットで帰りの便の予約を済ませた。


その夜、光一は夢の中で、再び柳花ユファと会話した。彼女は、笑顔でこう言った。

「あなたのお蔭で、古朝鮮が再建できたわ。そして、漢も。でも、あなたは東明聖王だから、日出づる国に帰ってしまうのね。朱蒙チュモン、いいえ、光一、あなたのことはいつまでも忘れないわ。元気でいてね。」

「こちらこそ、ありがとう。僕は一時でもあなたの息子でいたことを誇りに思います。そして、真実の古朝鮮を、僕は世の中に語り継いで行きます。母さんこそ、いつまでもお元気で。」

光一がそう言うと、柳花ユファは、(はす)の花の咲き誇る池の向こうに消えて行ってしまった。


目が覚めると、ベッドの上に淡いピンク色の(はす)の花がひとひら落ちていた。柳花ユファは、思いを遂げ、極楽浄土に旅立ったのだろうか。光一は、花びらを大切にノートに仕舞い、軽い朝食を取り、ホテルを後に空港に向かった。

免税店でお土産に中国茶を買い、搭乗口で出発を待つ。しばらくすると、搭乗案内のアナウンスがあり、光一は、東京羽田行きの飛行機に乗り込み、窓の外を眺めた。秋の爽やかな日差しが射しこんでいる。雑誌をめくっていると、飛行機は間もなく離陸して上昇を続け、シートベルト着用サインが消えた。光一は、CAキャビンアテンダントにホットコーヒーを頼むと、これまで辿って来た東アジアの歴史を振り返ってみた。朱蒙チュモンのビデオで出会った柳花ユファは、光一に『古朝鮮を再建し漢に戻れ』と言った。光一は、朱蒙チュモンになったつもりで、古朝鮮の真実を紐解き、そして、漢の光と影が交差する史記の中に古朝鮮と倭の痕跡を見出し、それをつなぎ合わせたのだ。だから、柳花ユファは、「お蔭で古朝鮮が再建できた」と言ったのだと思う。光一は、もう一度頭の中を整理してみた。

つまり、日本の倭王朝の祖先は斉の流れを汲む海神だったということではないだろうか。そして、漢は海神と共にあり、海神は古朝鮮と共にあったのである。韓国と日本が相容れない関係になったのは、古朝鮮を離れて袂を割ったこと、大々的な交易で海神のみが多大な利益を得ていたこと、そして、心の通わない人を無視した二足烏による朝鮮併合と大陸侵攻が決定的な要因だったのではないだろうか。


 間もなく、CAがコーヒーを持ってきてくれた。光一はお礼を言い、温かいコーヒーを受け取った。すると、CAの笑顔が柳花ユファの顔に重なって見えた。そして、彼女の口元が、「ありがとう」と言ったような気がした。飛行機は今、東に向かって飛行している。光一は、やがて、日出づる国日本に辿り着くことだろう。



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