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「お疲れ様でしたー」

「お疲れ様、拓真くん。次来るときもよろしくね」

「はい。よろしくお願いします」


 笑顔で自分を見送ってくれる老夫婦の姿が遠ざかるまで手を振った拓真は、アルバイトの終わりを感じながら一人帰路を歩いた。

 今日は別段飛び込みの客も来ず、常連となった残業帰りの会社員の女性団体が店を訪れて、仕事や上司の愚痴を話し合っていた。

 来店直後は事件の被害者遺族である拓真の存在を気にかけていたが、彼がいつも通りの接客姿を見せると、その表情は安堵にも似たものへと変わり、相変わらず未成年にお酌をしろと、本人たち曰く未来の社会勉強をさせようとしてきた。

 見かねた店のオーナーがワインのボトルを手に酌をすると、女性たちは大人になったら期待していると、そのまま談笑に移った。

 今日も常連客に囲まれ、勘が鈍ったかと思った作業動作も問題なく働いた今日は、なんだか充実した日に思えた。

 鬼頭の事は思い出しただけでも嫌になるが、公園での唯という少女の出会い、そして変わらぬアルバイト先の温かさに心が満たされながら、拓真は最寄りのコンビニに寄ってから帰ろうと思い、足を進めた。


「――おい。なんだお前は」


 最寄りのコンビニに辿り着き、店内に入店しようとした時だ。

 すれ違いざま、よろけて肩をぶつけてきた中年の会社員男性が因縁をつけてくる。

 酔っているのか顔を赤くし、そっちがよろけてきたはずなのに肩がぶつかって機嫌が悪いのか、眉間に皺をよせ、間合いを詰めてくる。


(……面倒なのに絡まれたな)


 チラリと視線を周りに向けても、辺りの客は見て見ぬふり。店員でさえ、厄介事に巻き込まれたくないのかレジの忙しさにかこつけて助けてくれようとはしない。どうやらこの問題は、自分で解決するしかなさそうだ。


(ここは一応、謝っておいたほうがいいか……)


 本来なら、謝るべきは向こうのはすだが、酔っ払い相手には何を言っても無理な話だ。

 穏便に事を済ませるのであれば、ここはこちらが下手にでて謝り、去ってもらうことを祈るだけだ。拓真は軽く頭を下げると、見ず知らずの酔っ払いに謝罪に、反応を伺った。


「すいませんでした。俺の不注意です」


 理不尽な事で謝るのは慣れている。過去の経験が今の自分を生かすのは嫌な気分だが、そうしなければこの場を流すことは出来ない。

 拓真はそう思い謝ったが、どうやら酔っ払いには通じなかったようだ。

 中年の男は拓真の頭を叩くと、自分が優位に立っていると思い込んでいるのか、罵声を浴びせ始めた。


「悪いと思うなら、もっと頭を下げろや」

「……すいません」

「は? 聞こえないんだが?」

「……本当に、申し訳ありませんでした」


 なんで自分がこんな酔っ払いに頭を下げなければいけないのか。

だんだんそんな気持ちさえ芽生えてくるようになるが、それを押し殺し拓真は謝り続けた。それでも、男は拓真の頭を叩き、言葉を並べる。


「誠意を見せたいなら、土下座しろや。どーげーざー」

「……は?」


 事を穏便に済ませようと思っていた拓真だったが、男の態度にさすがに怒りを覚え、顔を上げる。


「だから、土下座しろって言ってるんだよ。それで許してやる」

「……アンタ、何言ってるんだ」


 理不尽な要求。当たり散らされる怒りの矛先。振り下ろされる暴力。

 徐々に重なるあの男の姿に、拓真は頭を下げることが出来なくなり、顔を上げて中年の男を睨みつける。


「なんだ? その目は。文句でもあるのか?」

『なんだその反抗的な目は。お前が文句を言える立場にあるのか?』


 拓真の頭の中で男の声が聞こえる。目の前にいる男の声じゃない。別の――よく知った男の声だ。

 その男は銀縁眼鏡の縁を上げながら怒りを露にし、鋭い目つきでこちらを睨みつける。憎くて憎くて、たまらない相手だった。


「……あるよ。文句ならいくらでも」

「あ?」

「そもそも、よろけてぶつかってきたのはそっちですよね? 謝罪が必要なのはそっちからなんじゃないですか?」

「なっ!」

「こっちが穏便に済ませようと謝れば上手に出て、態度でかくして、頭叩いて、大人として恥ずかしくないんですか?」

「お、お前ぇ……っ!」


 次の瞬間だった。

 男が振り上げた鞄が左肩を思いっきり痛めつけ、反動で身体が地面に倒れこむ。擦り付けられたコンクリートの凹凸が頬に痛みを与え、地面に打ち付けた身体が悲鳴をあげる。

 一瞬何が起こったか分からなかったが、地面の冷たさだけが拓真に事実を悟らせる。拓真は重い体を起こすと、息を乱しながら見下ろす男を、冷たい眼差しで睨みつけた。


「……大人ってほんと、クズばっかりだな」


 暴力で他者をねじ伏せ、怒り狂った言葉で圧をかけ、自分の下に置こうとする。

 そんな大人の――特に男の大人の姿に嫌悪した拓真は、吐き捨てるようにそう呟くと、擦り傷の出来た頬から砂利を払いながら、立ち上がった。

 騒ぎが大きくなり出し、周りに人が集まりだし、中年の男が去ったのはそのすぐ後だった。拓真は、厄介事はごめんだと自分も逃げるようにその場を後にし、結局はアルバイト先から最寄りのコンビニには寄らなかった。

 しかし買いたいものがあった為、マンション近くのコンビニに足を運んで買い物を行った。

 なかなか鎮まらない怒りを胸に、彼はマンションへと帰宅した。

 明かりのついていないマンションの一室に戻り、リビングへと足を向けた拓真は、呼吸を整えながらその怒りをゆっくりと宥めていく。


「……あの男、消さなきゃ……」


 マンションの外の物陰。

 誰かが自分を遠くから眺め、心の奥から湧き出す鋭利な殺意を押し殺していることを知らずに……。




 夕方からのアルバイトはしっかりとやり遂げた。里香から借りたノートもコンビニでコピーをとったし、明日の朝食用の惣菜パンと菓子パンも買い込んだ。

 やるべきことをやり終えた拓真は帰宅し、制服の上着とネクタイだけを脱ぎ捨てて、ワイシャツとズボンの姿で疲れ切った体をふかふかのベッドへと沈めた。

 机の上に置かれた雑誌にCD。ノートのコピーが写された大量の紙。窓際には母親が以前買ってくれた小さなサボテンの鉢が置かれており、床には通学用の鞄が置き捨てられている。部屋は散らかしたままだが、今は片づける気にはなれなかった。

 襲ってくる睡魔に、逆らうような真似はしない。目を閉じ、意識を深く真っ暗な世界へ落としていく。ゆっくり、ゆっくり。周りの音など気にせず……。

 と、ある程度意識を手放した時、声が聞こえた。

 何を言っているのかは分からないが、確かにそれは女の人の声だった。


「……母さん?」


 疑問に思いながらも拓真はベッドに沈めていた体を起こし、フローリングの床に足をつけて、ベッドを下りる。声が聞こえたのは多分、一階のリビングだろう。母さんが居るとしたら、そこしかない。

 拓真は部屋を出て、二階の自室から階段を下りて一階へ。そして灯りの点いていなかった廊下へと出る。

耳に入る声は徐々にだが大きくなり、何かを誰かと話しているという事実がはっきりと分かってくる。母親の話し相手は、男だ。


「だから……は……なんだっ!」

「……は……なの。……さい」


 所々しか聞き取れない会話に耳を傾けながらも、拓真は恐る恐る足を進め、僅かだが開いたリビングへと続くドアの隙間から、差し込む光を頼りに中を覗いた。

 次第にはっきりしていく会話の内容に、聞き覚えのある声。嫌な予感が、頭を離れてはくれない。

ドアノブにソッと手を添え、彼はゆっくりとドアを引いた。

 そして、眩しい光の先に見たものは……――。




「――やめろっ!」


 蘇る光景に、拓真は飛び起きた。

 急に覚醒した意識の中、彼は見開いた瞳で光に照らされた明るい世界を見つめ、そして少しだけ落ちついたところで自分の腹部に右手を添えた。

 痛みは……ない。


「なんだ。夢かよ……」


 そう分かった途端体中の力が抜け落ち、起こしていた体が後方へと倒れ込む。

幸い、場所がベッドの上だった為痛みはない。寧ろ心地よさを感じながら、拓真はベッドに身を預けた。

 今見たことは全て夢だった。過去と現実が織り交ざった、気付くまで時間のかかる厄介な夢。

 思えば、夢の中で気付くべきだったのだ。配置の違う家具に、無駄に多い小物、そしてあの事件後買った覚えのない雑誌やCDといった品々。

 あそこは――夢の中で見た部屋は、前に住んでいた一軒家の方の自室だ。今のマンションの自室じゃない。第一このマンションの一室に階段を上り下りする二階はない。

 着ている服装は夢の中と同じで、ノートのコピーをとったこと、コンビニでパンを買ったことは事実だが、過去にも似たような行動をとった日はあった。

 今見た夢はその時の出来事と今日あった出来事が類似していたせいで違和感なく浸透した、過去と現実の記憶を元にした夢なのだろう。

 冷静になって思い返せば、今はいない母親の声が聞こえてきた時点であれが夢だと気付くべきだったのだ。そうすれば、悪夢にうなされることもなかったはずだ。

 そう思うと、なんだか笑いたくなってくる。


「ハハッ。我ながら馬鹿らしいな」


 意味もなく笑って、笑って――その笑みは不意に消えた。


「……悪夢はもう、終わったんだ……」


 悪夢はもう、終わった。

 聞きたくない声も、受けたくない痛みも、認めたくない存在も全て、消えたんだ。この世界にはもう、苦痛も不幸もない。あるのは平穏な日常という名の幸福だけ。

 世界にはそれだけあれば、充分だ。


「……もう、大丈夫だ……」


 無意識に天井に向かって伸ばしていた腕で目元を覆い、拓真は誰もいないこのマンションの一室で一人、一筋の涙を流してしまった。

 それから、どれぐらいの時間が経ったのかは分からない。短かったようにも思えるし、長かったようにも思える。

 ベッドから下りてカーテンの外を覗いても、窓から見える世界は街灯の明かりと夜の暗闇。午後十時に飲食店を出てからコンビニによって、このマンションに戻ってきた時の景色と、さほど変わりはなかった。


(……なんか、喉渇いたな)


 ぼんやりとする頭で思ったのは、そんなことだった。

 拓真は多少の喉の渇きを感じ、トボトボとした足取りで部屋を出る。

 涙の残る頬を拭いながら廊下を歩き、リビングに隣接されたキッチンへと向かう。確か家に帰る前に近所のコンビニで買った烏龍茶とスポーツドリンクが、冷蔵庫の中に入っているはずだ。

 彼は買ってきたばかりの未開封のそれらに手を伸ばすべく、リビングに隣接されたキッチンへと足を運んだ。

 リビングの窓から入ってくる月明かりが程良く視界を照らし、電灯をつける気は湧かない。

 真っ白な新しい冷蔵庫の扉を開けて、扉の内側の収納スペースに置かれた二本のペットボトルのうち烏龍茶の方を手に取り、開封してボトルの先に口をつけ、一気に飲む。

 喉を鳴らしながら飲み終えると同時に、深く息を吐き、ふと視線をキッチンから覗くリビングに顔を向けた。そして、


「ん? ……えっ!」


 思わず声を上げた。俺以外の人間が、この家の中にいたのだ。

 その人物はリビングの中央付近に配置した黒いソファーの上に横になり、眠っていた。

 恐る恐る近づいてみれば、その人物――中年の女性からは規則正しい寝息が聞こえてくる。肩まで伸びた黒い髪に、内側に巻かれた毛先。淡い紫色のシャツに、クリーム色のスキニーパンツ。

 この姿には見覚えがある――自身の母親だ。

 彼女は五月にソファーで寝るには寒い服装で眠っていた。

 時折寒さから身をよじる姿を見て、拓真は慌ててリビングの隣にある和室へと続く襖を開け、戸棚に仕舞っていたベージュ色の毛布を取り出す。それを持ってリビングに戻り、自分の気配に気付かず眠り続ける母親の上にかけた。


(母さん、帰ってきてくれたんだ。もう大丈夫なのかな?)


 療養の為に実家に戻る母親に、合鍵は渡してあった。

 体調が良くなって、心が落ち着いたらいつでも戻ってこられるようにと。早く治ることを願いながら、拓真は鍵を渡した。

 手渡した合鍵が使われるのは、もう少し後のことになるかと思っていたが、彼女は帰ってきた。父親が殺された事件以来痩せ細っていた体も、今は事件前に近づいているように彼は思う。顔色も、少しは良くなっている。

 少しずつだが良くなりつつある自分の母親の体調に安心した拓真は浅く息を吐き、このまま彼女を寝かせようとリビングを後にしようとした。


(……なんで?)


 が。光に反射して光る“それ”が目に入り、彼は足を止める。

 母親の目から、一筋の涙が流れていた。泣いていたのだ。

 直後。まるで何かにうなされるかのように眉を顰めた母親は、拭うことの出来ない涙を頬に伝わせ、悪夢にうなされていた。その悪夢がなんなのかは、拓真には分からない。

 ただ、なんとなくだが想像はついた。

 泣く時の理由は決まっている。必ずあの男が関与している時だ。その度に彼女は苦しんで、涙を流す。


「……母さん。悪夢は終わったよ……? なんでまだ、泣いているわけ……?」


 悪夢は過ぎ去ったはずだ。それなのに、どうして母親は泣いているのだろう。一体何が今の彼女を苦しめているんだろう。

 何も知らない今の拓真には、分からない。

 彼は泣きながら眠る母親をリビングに残して、自室へと戻った。閉めたドアに背を預けて、天井を仰ぎながら答えを探すも、その先の答えに辿り着くことはなかった。

 ――そして、次第に夜が明けた。

 窓を覆うカーテンの僅かな隙間から差し込む朝日に気付き目が覚めた時、拓真はベッドの上で布団をかぶり眠っていた。寝ぼけ眼で中を覗けば、赤いパーカーを着て黒のジャージズボンを穿いた自分の体がある。

 リビングから戻ったあの後、部屋着に着替え眠ったのだと、ようやく思い出す。


「……あー。そっか。なるほどなー……」


 頭がボーッとしつつも、拓真は昨日起きた出来事を思い出す。

 久々に学校に登校して、翔太や里香と話して、鬼頭のうるさい説教に逆ギレして飛び出した後、公園で美少女の唯に出会った。一緒にクレープを食べた後、アルバイトの時間になったから別れて、そのまま仕事をして、コンビニに寄ってから家に帰って、いつの間にか寝ていて、夜中に起きてリビングに行って、それから……。


「……母さんが、帰ってきていて……――て、ヤバッ!!」


 母親が帰ってきた事実を思い出し、彼は慌てて飛び起きる。

 思い浮かぶのは調味料と飲み物以外入っていない空っぽの冷蔵庫とアイスのみが入った冷凍庫。

母親が朝食べられるものはどこにもない。キッチンの棚に置かれた、昨日コンビニで買った菓子パンなら食べられるだろうが、その存在を彼女は知らない。

 拓真はベッドを飛び降りると部屋を飛び出し、リビングにいる母親に声をかけた。


「母さん! あのっ!」


 と、そこまで言いかけた時だった。


「……あれ?」


 リビングに、女性のの姿はなかった。昨日かけたはずのベージュ色の毛布もソファーの上にはなく、まるで誰もいなかったかのような現状に、拓真は驚く。


「……かあ、さん?」


 昨日見た母親の姿は自分の夢だったのだろうか。

 そんな思いを胸に一歩ずつ足を踏み出せばその答えは見つかった。リビングの横の和室の襖が、昨日ちゃんと閉めたはずなのに、隙間が僅かに出来ている。

 その隙間から中を覗けば、自分で敷いたのであろう敷布団の上で、毛布に包まる人物の姿が目に入った。


(なんだ、ここにいたんだ)


 母親の存在が確かなことに、自然と安堵の息が漏れる。

 リビングの壁に掛けられた時計を見れば、時刻は午前七時半。起こすにはまだ早いと思った拓真は、音をたてないように襖の側を離れ、キッチンへと向かう。

 台の上に置かれた、膨らんだレジ袋。結んであった封を解けば、中から昨夜コンビニで買った二個ずつの惣菜パンと菓子パンが顔を覗かせる。俺はそのうち、ウインナーを巻いたロールパンとクリームパンの袋を取り出し、残りの二つをそのままレジ袋の中に入れておく。

 次に固定電話の横に置かれたボールペンとメモ用紙を手に取り、真っ白なメモ用紙にボールペンで走り書きを残す。『おはよう。母さんの分の朝ごはん』と。

 その紙を先程のレジ袋の側に置き、風で飛ばされないように棚から取り出した未使用のマグカップを重りとして乗せる。これで問題ないはずだ。


「――っと、やべぇ。急がねぇと」


 現状に満足している暇はない。夜が遅かった母親を起こすには早い時間だが、学校には向かわなければならない時間でもある。

 拓真は置いていた二つのパンを手に、自室に戻ると同時に通学用の鞄の中に投げ入れ、その上から青いカバーのスマートフォンを落とす。そして十五分で身支度を整え、キッチンに戻り、烏龍茶をコップ一杯飲み干す。


「じゃあ、行ってきます!」


 久しぶりに言った、行ってきます、という言葉。

 彼は床に置いていた鞄を拾い上げると、そのまま急いで玄関へと向かい、黒のスニーカーシューズに履き換え、ドアノブを回した。

 玄関の扉の先。本日も晴天の青空に嬉しくなり、拓真は意気揚々と外に飛び出した。

 昨日見た悪夢のせいで落ち込んでいた気分も、一晩忘れるかのように眠ったことと、療養中だった自身の身内が戻ってきてくれた現実が気分を高め、浮上させてくれる。

 今の気分は、心地よい。


(……いい日になるといいな)


 そんなことを思いながら、拓真は走り出した。


「……あっ……」


 僅かに開いた襖から、リビングを去っていた彼の残像を女性が怯えた目で見ていたとも知らずに……。


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