少女
頭を冷静にして思えば、暴言を吐いてしまったな、と思わないことはない。
教師――しかも担任相手にあんな態度をとるのは良くないし、この起こしてしまった行動が内申書を書くことに響き、望んでいた推薦にも影響することは分かっている。
……だが、耐えきれなかった。
鬼頭のあの態度が、あの声が、あの言葉が。全て、あの男のものと酷似してしまったのだから。
(あーあ。明日は説教か?)
先程とったあの態度が、短気な鬼頭の癪に障らないわけがない。明日は会うなり、説教なのだろう。
明日鬼頭に会うことを出来れば遠慮したいと拒みながらも、仕方ないと深く溜息を吐いて、拓真は近くにあった茶色いベンチに座り込んだ。
進路相談室を飛び出し、不機嫌なまま学校を出た彼が辿り着いたのは、杉波高校から徒歩十五分の所にある大葉自然公園。ドーム二個分の広大な敷地面積を誇る自然公園だ。
五月の若葉生い茂る緑の草木と芝生。花壇に植えられたピンクやオレンジ、黄色といった色鮮やかな花々。ランニングや犬を連れて散歩する人達の為に作られた歩道と、そして自分が座る木製のベンチ。
ここに足を運んだのは、特別意味があったわけじゃない。ただなんとなく、だ。
学校を飛び出して熱くなった頭を冷やす為に適当にふらついていたら、無意識のうちに足がこの場所に向いたのだ。
さて。アルバイトが始まる夕方まではまだ時間がある。が、特にすることは何もない。
自宅のマンションで里香に借りたノートを写す作業でもすればいい時間潰しになるだろうが、自然公園に運んだ足を再度マンションに向けるのは気が重いし、あの大量のノートを写すという作業も気が引ける。
何より、鬼頭からあんな説教くさい言葉を吐かれた後だ。ノート写しなんて、そんなことをやる気にはなれない。コピーをとってしまえば充分だろう。
ここで適当に時間を潰して、早めにアルバイト先である飲食店に向かい、食事をとってから仕事に入る。これからの流れはそんな感じでいいだろう。
拓真は今後の流れを決めると考えることをやめ、曲がった背筋を伸ばし、足を組みかえた。
ボーッと見つめる先に見える光景は、何気ないものだった。
三歳ぐらいの男の子がおぼつかない足取りで芝生の上をテトテトと歩き、傍らでは母親らしき三十代の女性が心配そうに、しかしどこか嬉しそうにその様子を見守っていた。
そんな微笑ましい光景の横の歩道を、四十代くらいの男が軽装で走りながら去っていく。目で追いかけてみれば、男はテンポを乱すことなく走り続け、この場を去って行った。
更に、男とすれ違う形で今度は一組のカップルがこちらに向かって歩いてくる。見覚えのない学校の制服に身を包んだ、自分と同い年くらいの女子高校生と、紺色のスーツを着用した二十代の優男は、互いに手にクレープを――女の子にいたっては両手に種類の違うクレープを持って話しながら、男が女の子の歩幅に合わせる形でこちらに向かって歩き、拓真の前を素通りしていった。
歳の離れた女子高校生と社会人のカップルに物珍しさを覚えながらも、拓真の興味は二人が手に持っていたクレープへと向けられる。
女の子が持っていた、苺と生クリームがふんだんに使われたクレープと、バナナとチョコレートクリームが溢れんばかりに盛られたクレープ。どちらも美味しそうではあるが、あのクリームの量はきっと甘過ぎて、食べる気がしない。
それよりはさっきの男性社会人が持っていたツナとレタスやコーンが巻かれた惣菜系のクレープの方が俺は好きだし、軽く鳴った小腹を満たす為に食べたいと思える。
……が。
(……男が一人でクレープ、か)
上がりかけた腰を下ろし、俺は組んでいた足を崩す。
クレープの移動販売をしているマゼンダ色の車は、さっきの歳の差カップルが来た方向にあるが、そこに向かって歩き、車内でクレープを売る二十代後半の女性店員に、男の自分が一人で一つのクレープを注文するのは少々気が引ける。
相手の店員は誰が何を買おうと気にすることはなく、それが店の売上へと繋がればいいと考えているのだろうが、そうと分かっていても一人で食べるクレープを買いに行くというのは、男のプライド問題としてどうなのかと思い、躊躇われてしまう。
せめて、彼女に頼まれて買った、や、女の子にあげる為に自分用も合わせて二つ購入した、といった経緯ならメンツは保たれるが、生憎今の彼に彼女はいない。
拓真は何度か告白されたことはあったが、相手がみんなよく知らない人物だった為に丁重に断った。
それが今、年齢イコール彼女いない歴に繋がっている。
(こんなことなら、彼女の一人ぐらいつくっておけば良かったかな……)
そうすれば自分の青春も少しは花が咲いて、今頃一緒にクレープの一つや二つ、食べられたのだろうか。
「あー。彼女欲しいな……」
クレープを食べる為だけの口実にするのは申し訳ないと思いながら、それでも拓真はこのすいた小腹を満たしたくて、不満を声に出して漏らした。
その言葉に、他意はなかった。
その時はただ、なんとなく漏らした言葉だった。
――しかし。
「――っ! ……風?」
突如吹き荒れた強風に、目を細めた時だった。
木々の枝から離れ宙を舞う木の葉にまぎれ、一本のリボンが同様に宙を舞う。
黒の紐に白のレースが施されたそのリボンは、ふわりと風に流されながらも、やがてひらひらと地面へ――拓真の目の前へと落ちてくる。
拓真は無意識にリボンに手を伸ばし、地面に触れる前に掴み取った。掴むと同時にやんだ風によってリボンはだらりと下に垂れ、動くことはなくなった。それを彼はマジマジと見つめ、息を吐いた。
(風に飛ばされたリボンって、なんか漫画みたいだな)
漫画のお約束通りだとすればこの後、このリボンを探しに美少女が慌てて駆け寄ってくるのが定番だが、残念なことにこれは現実。おそらく現れるのは幼い子供か、容姿が残念な女の子のどちらかだろう。
拓真は風で再度リボンが飛ばされないようにしっかりと握り、その“どちらか”が来るのをベンチで待った。
(――おっ。噂をすればなんとやら)
待つこと十数秒。ヒールがコンクリートを踏み鳴らすコツコツといった音につられ、拓真は俯いていた顔を上げる。
ヒールのある靴を履いている辺り、幼い子供ではなさそうだ。だとすれば、年頃の女の子か。拓真はその人物が一体どんな人間なのか、興味本位で目を向けてみた。
その瞳が、奪われるとも知らずに……。
「えっ……?」
息を呑み、言葉が詰まる。
彼の目の前に現れた同い年くらいの彼女の容姿は、それ程までに美しく、この世のものとは思えない、非現実世界から現れたような存在だったのだ。
太陽の光を浴びてキラキラと輝くシャンパンゴールドの髪に、一方が解かれ片方だけ黒のリボンで結ばれた不完全なツインテール。宝石にも負けない程に映えるエメラルドの瞳は丸く、彼女は整えられた眉を八の字に顰め、こちらに向かって駆けてくる。
上から、白のジャケットに淡いピンク色のチュニック、デニムのショートパンツに黒のタイツ、そしてヒールのある茶色の編み上げブーツに身を包んだ彼女は、肩から掛けた茶色のショルダーバッグを揺らしながら駆け寄り、やがて数歩手前でその足を止めた。
拓真はその一部始終を目を逸らすことなく見つめて――いや、見とれてしまっていた。
まるで漫画やアニメのといった非現実の世界から飛び出してきたような綺麗な容姿の美少女に、彼は目を奪われる。
正直な話。綺麗で可愛い女の子なら里香で見慣れていると思っていたが、まさかそれに劣らない人物がこんな近くに現れるとは思ってもみなかった。
拓真はしばし息を呑むのも忘れ、名も知らない彼女を見つめた。
「……あ、あの」
淡いピンクのグロスが塗られた彼女の唇が、詰まりながらも言葉を紡いでいく。
「えっと、その……この辺りにリボンが飛んできませんでしたか?」
「え?」
「黒に白のレースがついた長めのリボンなんですけど……」
「あ、あぁ。これのこと、だよね?」
突然の出来事に驚くと同時に彼女の姿に見とれてしまっていた拓真は、一テンポ遅れながらも彼女が伝えたい言葉の意味を理解し、リボンを握っていた手をソッと前に差し出した。
「は、はい。これです! ありがとうございます‼」
その瞬間、彼女の顔に花のような笑顔が浮かびあがる。
「風で飛ばされちゃった時はもうダメかなって思っちゃったんですけど、見つかって良かったです。本当に、ありがとうございます!」
「あ、いや……どういたしまして」
ただの黒い一本のリボンだが、彼女にとってはとても大切な物なのだろう。嬉しそうな彼女の表情を眺めながら、拓真自身の心のどこかが満たされフッと笑う。
と。そこで彼女の不完全なツインテールの存在を思い出し、ベンチに座っていた席を詰め、空いた右スペースを手で軽く叩いた。
「あ、良かったら隣座る? 髪結ぶのに立ったままじゃやりづらいだろうし」
「はい、ありがとうございます。――って、あの、どうして私が髪を結ぶって分かったんですか? 私、何も言っていないのに」
「へっ⁉ あ、いや、それはー……」
彼女の問いかけに、拓真は言葉が詰まった。
何故分かったのか。そう問われても彼が返せる答えはただ一つ。ただなんとなく、だ。
不完全なツインテールを見て、もう片方の下ろされた髪を結ぶものと思っただけで、確証はなかった。
しかし以前、里香も同じように髪をツインテールにしたことがあった。
里香は気分を変えたいと言って髪を結んでいたが、その時鏡もなしに立ったまま髪を結ぶ姿は大変そうに見えて、恐らくその時の記憶が鮮明に残っているからこそ、拓真は今こうして無意識に声をかけたんだろう。
だが、それは目の前の名も知らぬ彼女からしてみたら不思議なことで、彼女は首を傾げ愛らしい表情で自分を見つめる。
さて、どうやって答えるべきか……。
考えたところで上手い誤魔化し方を知らない拓真は小さく溜息をつき、彼女にありのままを話した。
「前に俺の幼馴染が、同じように髪をツインテールにしようとした時があったんだ。その時立ちながら結ぶ姿が大変そうだったから声をかけてみたんだけど……迷惑だった?」
「あ、いえ。そんなことはありません! お気遣い、ありがとうございます」
ぺこりと申し訳なさそうに頭を下げた彼女は「では、お言葉に甘えて」と小さく呟き、拓真の右隣のベンチに腰を下ろした。
そして受け取った黒いリボンを持ち直すと下していた髪を手で器用に束ねると、そのまま慣れた手つきでリボンを巻きつけて結び始める。
「あの、すいませんでした」
「ん? 何が?」
「その、貴方の厚意を疑うようなこと、言ってしまって……」
「あぁ、別に俺は気にしてないよ。それにあの発言、聞きようによっては違和感覚えて警戒するし、疑って正解だよ」
自分で言っておいてなんだが、出会って間もない女の子にあの言葉のかけ方はよくなかったと、拓真は頭の中で反省した。
聞きようによっては、初対面であるはずの彼女がツインテールであることを事前に調べ上げていた人間の発言にも聞こえるし、そうでなかったら新手の流行らないナンパの口説き文句にも聞こえる。どちらにしろ、疑ってかかるべき発言ではあった。
(まぁ、『ベンチの隣に座らないか』なんてナンパの誘い方、最近の女の子は引っかからないだろうけど)
そう考えると、善意でかけた言葉だったが、聞き方によっては恥ずかしい発言をしたなと思いながら、チラリと横目で彼女を見つめれば、彼女はすでに綺麗な金髪のツインテールを完成させた。
「これでよし! 本当に、ありがとうございました」
「いやいや、俺は何もしてないから、顔上げてくれない?」
「……そう、ですか?」
ぺこりと下げていた頭を、少女はおずおずと上げる。
「だけど、リボンを拾ってもらったことも、隣にどうぞって席を譲って下さったことも、私にとってはとっても嬉しいことだったんです。だから、どうしてもお礼が言いたかったんです」
「いや、どれも大した事じゃないと思うんだけどな」
「貴方にとっては当たり前なことかもしれませんが、私はすごく嬉しかったんです!」
横に向けた体をグイッと寄せた少女は、拓真の目をまっすぐ見て、強い口調でそう言った。
どうやら彼女は今時珍しい、純粋で真っすぐで、それでいて義理堅い子らしい。拓真はそんな彼女の姿に驚きながらも苦笑し、
「どういたしまして」
と、この押し問答に決着をつける為、そう返した。苦笑とはいえ、自分が笑ったことに納得したのか、彼女も嬉しそうに笑った。が、
「――あっ!」
「ん? どうかした?」
「い、いえっ! なんでもないです!」
突如照れたように顔を赤めた彼女は誤魔化すように笑い、寄せていた身を引いた。おそらく初対面の相手に身を寄せ過ぎたことに、今になって気付いたのだろう。
拓真は少しだけそのことを残念に思いながらも、身を離した彼女を優しく見つめた。
と、その時だった。




