父親
父親が死んだ。もう何日も前の話だ。
他殺、刺殺、強盗殺人。それが警察の見解だった。
犯人は家に忍び込むとまず母親の後頭部を殴り、気を失わせ、金目の物を物色しようとしたところ、帰宅してきた父親と鉢合わせになり、父親を刺殺。財布に入っていた現金を盗み玄関から逃走。何度も父親の体を刺したのは、突然のことで気が動転していたからだろうと警察は説明した。犯人は今も逃走中で、警察は懸命に捜索中とのことだ。
事件の直後はマスコミが泊っていたホテルに押しかけ、事件も大々的に全国ニュースとなり世間に知られることとなったが、新しいニュースが舞い込めば人の気はそちらに逸れる。
おかげで今のマンションにマスコミが来ることはなく、警察からも時折電話がかかってくる程度となり落ちついた。
だが、死んだ人間の息子が通うこの学校ではまだ、この事件の熱は冷めない。
この街では珍しい強盗殺人だ。騒ぐのは当たり前だし、怯えて注意を促すのも、気が張りつめるのも当然のこと。今日の職員会議で空気が重かったのも、さっき翔太が言った通り、この事件が原因だからだろう。犯人が逃げ回っている今、生徒の安全を気にかけるのは学校側の仕事だからな。
(……本当に、大変だな)
今回の事件で多くの人が動き、拓真を取り巻く環境が変化した。
気を病んだ母親も変わったし、翔太や里香の自分に対する態度も、周りが見てくる目も変わってしまった。
人も、環境も、全てだ。
――彼自身は、何も変わらないというのに。
だが当分の間、自分は腫れもののような扱いを受け、父親を無残に殺された悲劇の男子高校生を演じなければならないと拓真は思った。あまりにも苦痛なことだが、拓真はそれに耐え、変貌していく世界を見続けなければならない。
それが彼の、今置かれている状況なのだから。
(大変で……そして面倒だ)
元通りの生活に戻れることを夢見ながら、拓真ははこの半日をただ漠然と過ごした。早く平穏な日常を生きたいと願い、流れる雲に時を重ねて。
外の世界を――真っ青な世界を見つめながら……。
「あー。ようやく今日の授業終わったー!」
「翔太はずっとノートに落書きしていたくせに、よく言うよね。あ、拓真にはノート貸すね。ただし、次の授業までには返してよ?」
「分かっているって。ありがとな、里香」
とり終えたばかりの古文のノートを含む大量のノートを里香から受け取りながら、拓真達は一息つき、互いに笑い合った。
いつもならこの流れでどこか繁華街に出かけたりするのだが、今日は生憎、三人とも用事があって一緒に行動することは出来ない。翔太は午後からアルバイトがあり、里香は海外出張から帰ってくる自身の父親を空港まで迎えに行くという用事がある。拓真も鬼頭との話を終えたら、久しぶりに夕方からアルバイトをしなくてはならない。
互いに用事のある拓真達は、二言三言言葉を交わすと鞄を手にそのまま教室を後にし、一階の生徒玄関へと移動した。
「じゃあ、俺は進路相談室に行くから」
「おー。じゃあ、ここで」
「二人とも、また明日ね」
黒のスニーカーの靴紐を結び直す翔太と、内履きから茶色のパンプスに履き換えた里香の二人に別れを告げ、拓真は足早に一階の端にある進路相談室へと向かった。
と、駆け足で廊下の角を曲がりきった時だった。見慣れた大きな背中を前方に見つけ、急ぎ足を急停止させる。
「ん? なんだ、斎藤か」
――鬼頭だ。鬼頭は振り返りながら拓真の姿を見るとそう言葉を漏らして、前を向いて歩きだした。鬼頭が『ついてこい』と背中で告げているのは明らかで、拓真は大人しく後をついていく。
鬼頭――本名を矢頭というこの先生は、歴史の教科担当兼三年生の担任を受け持つ男。
その悪い目つきと外見同様、中身も怖い矢頭――別名・鬼頭と拓真の付き合いは、二年生の頃からという少し長い付き合いとなるが、未だにこの気が立っている状況と、その時の鬼頭の態度及び長くなる説教じみた話に慣れることはない。
簡単に言えば、拓真はこの鬼頭が苦手というわけだ。
(てか、今からする話って一体なんだ? 説教……ではないだろうし、となると今後の進路のことか?)
長く続く、気まずい沈黙。早く進路相談室に辿り着けと思いながらも、拓真は考えをこれから起こる出来事に巡らせる。
自分は特に問題のある生徒ではないと自負している為、説教を受けるということはないだろうし、進路の話をするにはまだ時期が早い気がする。今はまだ三年生の五月になったばかりだ。だとすれば、出席日数の危なくなってきた単位のことだろうか。それとも、やはり今回の事件についてのことだろうか。事件で傷心したと思われている自分の精神カウンセリングということもありえなくはない。
どちらにせよ、長引きそうな話が夕方からのアルバイト前に終わることを祈りながら、拓真は鬼頭の後に続き、鍵が開けられた進路相談室へと足を踏み入れた。
部屋の中央に置かれた横長のテーブルに、そのテーブルを挟むように配置された二つずつ横並びにされた四つある椅子。保護者も招いて相談できるようにと作られたこの部屋には、囲むように壁に沿って棚が並べられ、中には進路の参考資料としていくつもの冊子とファイルが隙間なく並んでいる。
拓真はそれらに目を向けながらも歩みを進め、鬼頭に促されて下手側の椅子に座る。
その鬼頭はというと、立ったまま棚の前へと足を進めて立ち止まり、上の棚からいくつかの薄い冊子、下の棚から水色や黄緑色といったファイルを手に取り、それをテーブルの上に置くと同時に、拓真の目の前の椅子に座りこんだ。
(……予想、外れたな)
テーブルに並べられたのは大学の紹介冊子の数々と、今までこの学校の卒業生が就職してきた企業のリストと詳細が書かれた紙が綴られたファイル。今回の話し合いの内容は、どうやら今後の進路についてのようだ。
まだ考えたくなかった内容に、拓真はうんざりしながらも鬼頭が話し始めることに対して身構えた。
「……まずは今回の事件、大変だったな。親父さんを亡くして、校医の話じゃお袋さんのことも大変みたいだな」
「え? あ、あぁ。そう、ですね……」
そう言われれば、休み時間。移動教室の際にすれ違った校医に、今回の事件の事で俺自身が大丈夫かどうかと、二言三言話をした気がする。
そんなことを思い出しながらも、拓真は話を続ける。
「でも、今はもう大丈夫ですよ。事件から日も経って、段々今の状況に慣れてきたんで」
「そうか? ……なら、いいんだが」
(とりあえず、変に気を遣われても気持ち悪いだけだからな)
拓真は鬼頭がこれ以上変に気を遣わないように作り笑いを浮かべ、その場を流した。
「あー、で、だ。今回呼んだのは、お前の今後の進路について話し合いたかったからだ。今後進学するのか就職するのか、とかな」
「……あー、その話、ですか」
聞かれた彼は鬼頭の言葉に苦笑しながら、どう言葉を返そうかなと懸命に思考回路を巡らせる。
別に、自分の将来について考えがないわけじゃない。良い内申書が書かれれば推薦で大学に進学したいという思いもあるし、その道がダメなら就職活動をしなければいけないという思いもある。
幸い成績は悪い方ではなく、大きな問題も起こしていない。就職面に関しても、今働いている飲食店を経営する夫婦から『卒業したらうちで働かないか』と声もかけてもらったことがある。どちらに行くべき方向が向いても、拓真はただ自分が決めた道を進めばいいと思っている。
……しかし、そのどちらかに決めかねているのが現状なのだが。
拓真は内心で苦笑するも、同時に思い出す。この進路を、あの男が良しとしなかったことを。
『その歳になってまだ進路を決めていないとは、お前は母親に似てノロマだな』
『しかも、そんな不確かな進路に縋るとは、どこまで馬鹿なんだ』
あの男が言っていた、自分は不確かな進路に縋っているという言葉は確かなのかもしれない。
推薦は彼自身の小さな望みであって、絶対ではない。加え、現状では学費の面も厳しく奨学金も視野にいれるが、厳しい状況に変わりはない。
卒業後、うちの店で働かないかと声をかけてくれたアルバイト先も、老夫婦が営む小さな飲食店。現在の売り上げは良いが、それがいつまでも続くという保証はなく、加えて将来は安定していない。
エリート公務員だったあの男にとって、拓真が話す進路は夢物語のようなものなのだろうか。
(……現実に、そうなのかもしれないけどな……)
そう思い始めると、進路について言葉を発することが嫌になり、彼は口を噤んだ。
「――とう。斎藤……斎藤!」
「――っ! は、はいっ!」
過去と感傷に浸りかけていた拓真を現実に引き戻したのは、彼の名字を呼ぶ鬼頭の声だった。鬼頭は少しだけ顔覗きこんでいたが、拓真の意識が戻るのを確認すると溜息を吐いて言葉を続けた。
「おい斎藤。話、聞いているのか? ちゃんと進路について考えているんだろうな?」
「えっ? あ、それは……」
ちゃんと考えている。
そう言って考える進路図を話せば、鬼頭はなんて言葉を返すだろう。背中を押してくれるのか。それとも……。
「……いえ、まだ決めていません。アハハハ……」
多分鬼頭は、自分の考えを否定する。そう思って拓真は嘘をつき、誤魔化すように笑った。
どうせ、自分みたいに進路が未定の生徒は他にもいるはずだ。こう答えても問題はないだろうと思った彼の考えは、どうやら甘かったようだ。
目の前の鬼頭は鋭い目つきを細めて拓真を睨み、そして、
「お前まだ決めていないのか! そんなふらついた考えで、この先やっていけると思っているのか!! 他の生徒はすでに決まっている奴もいるんだぞ!?」
「――――?!」
溢れる怒りを隠すことなく、言葉を吐いた。
叱咤する鬼頭の姿はあの男と重なり、拓真は息を詰まらせる。直後に自分の体が硬直したのも、確かに分かった。
この話はもうしてはいけない。早いところ話を終えて、この場を去らなければいけないと危険だ。
そう思った瞬間。拓真はどうにか怯える心を奮い立たせ、懸命に言葉を紡ぐ。
「……た、確かにこのままじゃダメだってことは分かっています。でも、今はまだ考えたくないんです。だって、あんな事件があった後だし、今の状況で手いっぱいで、進路のことなんて考えられませんよ」
拓真は思った。引いてくれ、鬼頭。今の――事件後の自分に未来の話は酷だと思い込んで、早くこの話を切り上げてくれ、と。
だが、そう願い逃げ腰となった彼の態度が、鬼頭は気に入らなかったのだろう。
鬼頭は音を立てて立ち上がり、怒りを露わにした表情で拓真を見下し、そして怒鳴りつけた。
「こんな時だからこそ、この先のことを考える必要があるんだろうが! そんなことも分からないのか!」
『この程度のことも分からないのか。母親に似て愚図だな!』
「――っ!!」
拓真を見下し怒鳴りつける鬼頭の姿が、再びあの男の姿と重なった。
突き飛ばし、床に倒れ込んだ自分を見下し、罵倒を浴びせ侮辱する。
それだけならいい。だがあの男は自分ばかりか、息子の躾がなっていないと母親を怒鳴りつけ、暴力をふるった。
今の鬼頭はあの男と酷似していて――いや、同じだ。今の鬼頭は、あの男そのものだ。
自分と母親を傷つけた、あの男と……。
「いいか? 親父さんを失って悲しい気持ちは分かる。けどな、今お前がしっかりしないと悲しむのはお前のお袋さんなんだぞ? 分かったら、今後について先生と――」
「……うるさい。もう喋るな」
「ん? お前、今なんて……」
「……喋るなって、言っているだろ」
「あ? おい、斎藤。お前先生に向かって――」
「――うるせぇ! 黙れっ!!」
「なっ⁉」
感情が暴走する。
鬼頭があの男ではないこと。相手が教師という目上の立場にあることは、頭の片隅では理解している。
だが鬼頭の物言いが、声が、あの男の姿と重なり、拓真を狂わせる。
もう聞きたくない声、言葉、物の言い方、全てが。もう聞かなくてもいいと思っていたものを、なんでもう一度聞かなくてはけない。その姿を、どうして見なくてはいけないんだ。
どうしようもない怒りが拓真を狂わせ、呼吸を荒くする。乱れた呼吸が、静まり返ったこの部屋に大きく響くように聞こえたのは、気のせいだろうか。
「……この話はもう終わりだ。二度と俺の前で喋るな。いいな」
そう吐き捨てても、鬼頭が言葉を返すことはなかった。
拓真はそんな鬼頭の顔を見ることなく鞄を手に、この進路相談室を飛び出し、部屋に背を向け、ズカズカと廊下を歩きだした。
「……ったく。来なきゃ良かった……」
登校したことを後悔しながらも、拓真は内履きを履き換え、太陽の光が眩しい外へと歩き出した。




