親友と幼馴染
都立杉波高校は、都内に創立された定時制の高校だ。
繁華街と自然公園を周囲に持つ地下鉄大葉駅西口から徒歩十分の、少々離れた位置に建てられた高校。
午前八時半から午後十二時半まで授業を行う午前部と、夕方からの給食を終えて午後六時から午後十時まで授業を行う夜間部の、二つの学部に分かれ、一学年一クラス二十人程度の生徒数の少ない、四年制の小さな高校だ。
未成年の喫煙・飲酒、暴力行為の禁止。指定制服の着用義務など、世間では常識のことを校則の内容としており、それ以外の髪を染める、バイトを行うなどの内容を容認した、他の学校の生徒いわく“ゆるい校則”に縛られた杉波高校の生徒は、その自由な校風にのっとり青春を謳歌していた。
もちろん彼――斎藤拓真もその一人だ。都立杉波高校の午前部三年に在籍し、午前中は学校、午後は飲食店でアルバイトといった高校生らしい日々を送っている。
《あの事件》のせいもあって、最近を除いては、だが……。
「この感じだと、セーフ、か?」
マンションで時間を過ごしすぎて時間がないと思い込み、慌てて飛び出して駆けてきたものの、現在時刻は午前八時。朝礼までは二十分、授業開始まではまだ三十分も余裕がある。
急いできたことを損したと思いつつ、拓真は年月と雨風によって少々黒ずんだ外壁の校舎を見つめ、壁に設置されていた時計から目を逸らした。
こんな所――校舎前に立っていたところで、走ってきた足が一層疲れるだけだ。彼は肩にかけていた鞄の持ち手をかけ直すと、いつものペースで生徒玄関へと足を進めた。
(……あー、息苦しい)
校舎前に立っていた時も、こうして生徒玄関で靴を内履きに履き換えて校舎内に入った時もそうだ。周りを歩く生徒から興味と憐れみの視線を向けられ、一部の女子生徒にいたっては、人の顔を見るなり小声でヒソヒソと話を始める。
「ねぇ、あれって三年の斎藤先輩だよね? ほら、ニュースでやっていた……」
「あー。だよね、だよね。もう学校に来ても平気なんだー」
(……全部聞こえているっての、後輩)
どれだけ声を潜めたところで、人の噂話とは自然と耳に入ってくるものだ。話すのなら本人のいない所で隠れて盛り上がればいいものの。
なんてことを思いながら、拓真は周囲の視線と話し声に嫌気がさし、気付かないふりをして三年生の教室がある三階まで階段を一気に駆け上った。そして上りきった階段のすぐ正面にある廊下の角を曲がり、教室後方にあるドアを横に引いた。
「はよーっす」
「おう、はよー。――って、拓真!?」
「えっ! 拓真、登校してきたの?!」
「……二人とも驚き過ぎじゃないか? 幽霊かよ、俺は」
教室のドアを引きながら挨拶をすれば、校庭に面した窓際の席に座っていた二人の男女がオーバーリアクションで彼を迎え、賑やかだった教室の雰囲気が急にざわつき始める。
驚きと興味と、そして憐れみと。さまざまな感情が入り混じった視線を一斉に向けられながら、拓真は改めて窓際の二人を見つめる。
着崩されたネクタイ、ゆるいパーマのかかった茶色い髪の男・柏木翔太はその漆黒の瞳を丸くし、口をパクパクさせて何かを言おうとしているが、言葉になっていない為拓真には理解できず、翔太はただその馬鹿面を晒す。
そんな翔太の斜め前の席に座っている腰まで伸びたサラサラの黒髪美人・東雲里香も、カラーコンタクトの映えるアクアブルーの瞳を同様に丸くしているも、驚きのあまり瞼をパチパチと動かし、その度に彼女の長い睫毛が上下に揺れる。
相変わらず翔太は可笑しな反応をするし、里香はいつも通り人の目を引く綺麗な容姿をしている。
拓真はそんなことを思いながら二人に歩み寄り、周囲の驚きと憐れみの目を無視して、里香の後ろにある自分の席に腰を下ろした。
「翔太。今日の一時限目って、数学であっているよな?」
「え? お、おう……そう、だけど」
「ん。サンキュー」
周りの空気に居心地の悪さを感じながらも、拓真はそれを表に出さず、翔太に尋ねて一時限目の教科を確認する。
(数学……如月先生の授業か)
鞄の中に無造作に入れられていた、黒のペンケースと青いカバーのスマートフォンを取り出し、必要のなくなった鞄の持ち手を机の横に作られたフックにかける。
数学他、授業に必要な教科書やノートは教室後ろにあるロッカーに入れっぱなしのはずだ。宿題で必要な時以外は家に持って帰ることはないそれらを、ロッカーから机の引き出しに移動させようと席を立った時だった。
「……な、なぁ。拓真」
「ん?」
気まずそうな表情と声色で、翔太が尋ねる。
「お前、もう学校に来ても大丈夫なのか?」
「……なんで?」
「なんでって、それは……なぁ?」
「う、うん。だって、あんな事件があった後だし……本当に、もう大丈夫なの?」
翔太が視線を泳がせた先、目の合った里香も気まずそうな――いや、気を遣いながらの口調で拓真に尋ねてきた。
チラリと目線を他に向けてみれば、近場で他の人と話をしていたグループも時々俺の方へと目を向け、まるで壊れ物でも見るような目で俺を盗み見ていた。どうやら斎藤拓真という人物は今“取扱注意の品物”のようだ。
そのことを内心で笑うも、心の奥は複雑だった。以前までの、気は遣うものの肩をバシバシと叩き、ある程度は人のテリトリーに土足で踏み込む豪快な精神はどこにいったんだろうと思う。
しかもこれまで遠慮のない仲の良い関係を築いてきた大切な親友と幼馴染までもが、このぎこちない態度への変貌ぶりだ。それほどまでにあの事件はニュースとして大きく取り上げられ、人の心に深く残ったのだろうか。
連日のマスコミインタビューやテレビで流れるニュースを、人ごとのように流してきたが、今ここで彼はようやく、あの事件の大きさを痛感させられる。
気を遣ってくれるのは嬉しいが、今回の件に関しては気遣い無用だ。寧ろ気を遣わないでくれたほうが拓真としては助かる。
――何故なら自分は、しばらく喪に服していたとはいえ、今回の一件では内心、何も傷ついてはいないのだから。
まぁ、無傷と言い切るのは語弊があるかもしれないが、みんなが思うほど傷ついていないのは確かだ。母親が病んでしまったこと、住み慣れた家を離れることは悲しかったが、父親の死は……今考え直しても、それ程でもないのかもしれない。
だが、この思いはみんなには秘密だ。母親のことや家のことでショックを受けているのは事実だし、そのことは話してもいいかもしれないが、父の死に関しての率直な感想は今の段階では口が裂けてもいえない。
とにかく、自分としては早く以前のような気軽に話せる日常を願うも、それなのにこうして腫れものに触れるかのような対応を受け、距離を置かれることはどこか寂しく思う。
今の状況は、まるで大きな壁一枚を隔てて話しているようで、感じる距離に拓真は辛くなった。
彼は一度溜息をつきながら項垂れ、苦笑しながら顔を上げた。
「翔太も里香もありがとな。けど、そんなに気を遣わなくてもいいから」
「けどよ……!」
「けど、じゃねぇよ。……まぁ、確かにあの事件は衝撃的だったし、結構精神的に堪えたけど今はもう大丈夫だって」
「拓真、本当に? 無理してないの?」
「していないよ。していたら学校になんか来ないって。通夜も葬儀も終わって、母さんのことも家のことも落ち着いたから、こうして登校したんだよ」
「……そっか」
「それに、家にいても考え込むだけだしな。それならいっそ、馴染み深いお前達二人と馬鹿やっていた方が、気持ちが楽なんだよ」
「……拓真」
「つーわけで。この話は終わり、な?」
翔太と里香。大切で心優しい二人がこれ以上思い悩まないようにと、拓真は白い歯を見せて笑ってみせる。
建前の嘘と、気を遣ってほしくないという本音を混ぜた言葉。二人は言葉に混ぜ込んだ嘘に騙され、本音の想いを信じてくれるだろうか?
そんなことを思いながら二人を見つめれば、翔太と里香は互いに困ったように顔を合わせるも、その後で二人は眉を顰めながらも息を吐き、口元に笑みを浮かべた。
そして、
「拓真がそう言うなら、信じてやるか」
「そうだね。……それに、こんな風にぎこちないの、私達らしくないもんね」
まるで何かがふっ切ったかのように、二人はいつも通りの明るい笑顔を浮かべ、拓真もそれにつられて笑った。
気にしなくてもいい。重い気持ちを持ったまま生きるのは、正直だるい。いつものようにこの三人で馬鹿笑いして明るく生きる方が、何倍も楽しいことだと彼は思う。それが多分、幸せと言うのだろう。
拓真は軽くなった心のまま、教室後方へと歩みを進め『斎藤』の札がつけられたロッカーの中から数学の教科書とノートを取り出し、席に戻った。
「あっ、そういえばさ。家のことは落ち着いたって言っていたけど、引っ越しとかはもう終わった感じか?」
「おう。ある程度は、な」
「なーんだ。終わってなかったら、新しい部屋を見物がてら手伝いに行ったのに」
「来なくていいっての」
翔太の厚意を遠慮しながら、拓真は席に座る。そんな彼の顔を、里香が覗きこむ。
「ねぇ、拓真。家具とか新しく買い揃えたんだよね? ちゃんと暖色系の物とか、観葉植物とか買った?」
「いや、それはないな。確かベッドは白で、ソファーは黒にしたはず。植物なんて必要ないかと思っていたんだけど……ダメか?」
「ダメってわけじゃないけど、あった方がいいかなって」
「ん? なんで必要なんだよ、里香」
頭上に疑問符を浮かべて尋ねた翔太同様、拓真も不思議に思い首を横に傾ける。
「だって拓真のお母さん、去年の母の日に赤とかオレンジの暖色系の花を贈ったら喜んでいたって言っていたでしょ? 新しい住まいでも家の中に好きな色があると落ちつくし、嬉しいと思うの。殺風景な部屋は生活感がなくて居心地悪いよ、きっと」
「なるほど」
「後。前に教えてもらったんだけど、観葉植物の緑は安心・安定の色らしいよ。心理的な鎮静効果があるらしいから、置いておいて損はないと思うの」
「そっか……ありがとな、里香」
「すっげー! 里香って物知りなんだな!」
「フフッ。たまたまだよ。それに、全部お母さんから受け売りだしね」
まぁ、その分やってみる価値はあると思うよ。
そう言葉を続けた里香は幼馴染の自分に助言出来たことが嬉しかったのか、雑誌モデル顔負けの綺麗な笑顔を見せた。その笑顔につられて拓真も笑うも、チラリと横を見れば口をポカンと開けて、間抜け面で里香を見つめる翔太の姿があった。
見惚れるっていうのはきっと、この状況を差しているんだろう。里香の笑顔なんて、いつも見ているから目を奪われることなんてないだろうに……美人に惚れた男っていうのは大変なのだろう。
なんてことを思って笑いながら、拓真は話を続ける。
「じゃあ、母さんが実家から戻ってきたら、一緒に買い物に行って勧めてみるよ。きっと喜ぶだろうし」
「うん、そうしてみて。――って、お母さん、今家にいないんだ。拓真一人なの?」
「そっ。マンションで一人暮らし中」
「へー。じゃあ、飯とかどうしているわけ? 拓真家庭科の成績、五段階中成績二だろ?」
「うるせぇよ。家庭科五以外オール二の奴が偉そうに言うな」
翔太の悪意ある言葉に反論しながらも、拓真は口を尖らせる。
家庭科の成績が五段階二であるのた確かに問題である。だが他の教科は四と時折五の好成績だから単位上の問題はない。ちゃと掃除は出来るし、料理と裁縫は出来ないが、それらを得意とする彼女を見つければ生活面での問題はないだろう。……今現在はそんな出来た彼女はいないのだが。
拓真は内心で愚痴りながらも、不満を吐き出すように深く息を吐いた。
「……コンビニ弁当とか、スーパーの惣菜だよ。悪いかよ、一人だと便利なんだって」
「うっわー、栄養バランス悪そう。あのさ、野菜ちゃんと取っているのか? 三五〇グラムが無理なら二〇〇グラムでもいいから取った方がいいって。何も取らないよりはマシだぞ?」
「……翔太。お前は栄養管理士か? 母親か? 給食の先生か?」
(今時、人の食生活と栄養バランスを気にする男子高校生がどこにいる。女の子か、お前は)
拓真はどこかお馬鹿臭が漂う翔太を呆れた顔で見つめた。と、その時こちらを心配そうな表情で見つめる里香とも目が合い、彼は視線をそちらに向ける。
「翔太のお母さん発言はともかく……ねぇ、拓真。よかったら私、ご飯作りに行くよ?」
「え?」
「翔太じゃないけど、拓真の食生活とか心配だし。三食毎日ってわけにはいかないけど、夕食だったら作りに行くよ。拓真だって、温かいご飯食べたいでしょ?」
「まぁ、そりゃ……」
里香の言葉の通り、確かに温かいご飯を久しぶりに食べたいという欲求はある。コンビニ弁当やスーパーの惣菜をレンジで温めたところで、どこか味気なく手作りの温もりには負ける。インスタントの味噌汁だってそろそろ飽きてきた頃だし、手作りの温かい汁物が飲みたくなってきたところだ。
(……けど、なぁ)
チラリと横に目を向ければこちらを羨ましそうに見つめる翔太と目が合いそうになり、拓真は慌てて逸らした。
本音を言えば、三人揃って夕食を食べられるのが一番いいのだろうが、あいにく食器はまだ充分な数が揃ってはいない。食器は必要枚数のみ買う予定で、予備を買うだけの資金は今ない。フライパンや鍋といった調理器具はあるものの、とてもじゃないが二人を呼べるだけの環境は整っていないのだ。
どちらか一人――里香だけを呼ぶのであれば、母親用に今ある買った食器でなんとかなるかも知れないが、 そんなことをすれば翔太が拗ねるのは確実だ。
(今の関係が複雑になるのだけは、勘弁してくれよな……)
拓真は心の中で深い溜息を吐くと、気持ちを切り替えて苦笑した。
「うーん……悪い、里香。気持ちは嬉しいんだけど、食器とかまだ揃ってないからさ、今は無理なんだ。本当にごめんな」
「そ、そう……?」
「悪い。けど食器とか揃ったらさ、その時は里香に何か作ってもらおうかな。あ、そうなったら翔太も来るよな? 三人で鍋とか焼き肉パーティーとかしようぜ。な?」
「うん、そうね。そうしよっか」
「三人で材料持ち寄ってやるんだろ? やっべ! すっげー楽しみになってきた!」
納得して微笑む里香と、今後のパーティーに心弾ませる翔太の笑顔を見ながら、拓真も笑ってみせた。
やっぱり三人でいる今が楽しいと、彼は思う。どちらか一人が欠けてもいけない。慣れ親しんだ三人だからこそ、こんな他愛のない話でも楽しくて幸せに思える。この時がいつまでも続けばいいのにと、そう願わずにはいられなかった。
(――って、あれ? そういえば……)
この時が続けばいいのにという想いで思い出した。
チラリと視線を教室の壁に掛けられた時計に向ければ、時刻は午前八時十八分。朝礼まで後二分しかないというのに、担任の鬼頭が廊下から姿を現す気配なかった。いつもならこの時間には教壇に立ち、生徒に着席を促している頃なのに。
(へー。珍しいこともあるもんだな)
それならそれで、こうして話している時間も長くとれるし、あの鬼頭の余計な説教じみた話を聞く時間も短くて済む。
拓真は二人との会話に戻ろうとしたが、彼が視線が他に向けられている事に気がついた里香が同様に時計を見上げ、現在時刻を確認した。
「そういえば先生遅いね。職員会議、長引いているのかな?」
どうやら考えることは、里香も同じなようだ。
「ん? あー、そう言われてみればそうか。――あ、ちょっと待っていて! 俺、隼人に状況聞いてくるから!」
そう言って翔太が指差し駆け出した先にいたのは、たった今教室後方のドアから入ってきた遅刻ギリギリの男子クラスメイト。名前は確か、秋元隼人。
白のタオルを頭に巻いた赤茶色の髪をした秋元は、突然横から声をかけた翔太に動じることなく挨拶を交わすと、眠たそうに欠伸を一つ漏らした。
噂では秋元は杉波高校の近所にある鉄板焼きの店でアルバイトをしており、仕事は学校が終わってすぐから午後十時ギリギリまで行っている。その為睡眠時間は短く、溜まった疲労を回復する間もなく学校への登校を余儀なくされる。おかげでいつも欠伸を漏らし、授業中に眠る度鬼崎や他の先生達に怒られる姿が、拓真の中の秋元の印象だ。
秋元は眠たそうな顔で翔太と何度か言葉を交わし、適当なタイミングで頷く。横では人懐っこい翔太が見えない尻尾を振り、楽しそうに話していた。
が、その会話も長く続かせることはせずに、適度に話を終えると翔太は手を上げて話を切り上げ、秋元もよほど眠たかったのか机に突っ伏し、そのまま眠ってしまった。
「ただいまー。話、聞いてきたぜー」
「おかえり」
「で。秋元、なんて言っていたんだよ」
意気揚々と戻ってきた翔太を出迎え、里香と拓真は話に耳を傾ける。
「えーっと。さっき秋元が教室に来る前に一階の職員室の前を通って来たんだけど、その時窓から中覗いたら、なんか先生達、重い空気の中難しい顔して話していたらしいぜ。それだったら職員会議、長引くよなー」
「そうだね。でも、一体何の話をしているんだろう?」
「そりゃやっぱりアレでしょ。拓真んちの事件じゃねーの? 強盗殺人で無残な死体なんて、この街では前代未聞の事件だし。犯人も捕まってない今、先生達も色んな方面で細心の注意を払ったりしないと――」
「翔太っ!!」
「え? な、なんだよ里香――って、あ……」
声を荒らげた里香の目線がチラリと拓真に向けられたことにより、翔太は事を察し、口を噤んだ。三人の間に流れた気まずい沈黙に、彼は苦笑いを浮かべるしか出来なかった。
「そんなにピリピリしなくてもいいって、里香。翔太の考えなしの発言は、今に始まったことじゃないだろ?」
「で、でも……」
「ご、ごめん。拓真……」
「二人ともそんなに気にするなって。起こったことは事実だし、そのことで先生達が気を配るのは当然のことだろ?」
そう言葉をかけても、二人からの返答はない。
「……この話も、もうなし。お互いに気分暗くなるだけだしな」
「……お、おう」
「分かった……」
(やっぱりこの流れは、しばらく続くのか……)
申し訳なさそうに、二人が項垂れた時だった。タイミング良くチャイムが鳴り響き、教室前方のドアが音を立てて開く。
「お前ら、席に座れ!」
姿を見せたのは角刈りヘアーに無造作に伸びた髭、黒の半袖シャツに青のジャージズボンを穿いた担任・鬼頭だった。
鬼頭は眉間に皺を寄せて無言で教壇に立った為、生徒達は慌てて自分の席に座った。こういう表情の時の鬼頭に対して迂闊に干渉しない方がいいというのが、去年も担任だった鬼頭の姿を見てきた自分生徒の見解だ。
触らぬ神に祟りなし。拓真は机の上で頬杖をつき、視線を窓の外の青空に向けた。澄んだ青にふわりと流れる白い雲。浮かび、風に流される雲を見つめながら、彼は出席をとっていく鬼頭の声を右から左に流し、自分の名前が呼ばれるのを待った。
「斎藤」
「はい」
斎藤と名字と呼ばれたのは、それからしばらくしてからのことだった。目線を教室内に戻し、鬼頭の声に短く返事をすれば、一瞬目を見開いた鬼頭と目が合う。
「……お前、来ていたのか」
「もうそろそろ登校してこないと、出席日数が足りなくて単位が危ないんで」
「……放課後、進路相談室に来い。話がある」
「……はーい」
どうやら今の鬼頭に、冗談を聞き流すというゆとりはなさそうだ。拓真は重みを帯びた鬼頭の声に肩をすくめ、こちらを横目でチラリと盗み見た翔太と苦笑し合った。
「――で、伝達事項は以上だ。朝礼は以上!」
出席をとり終え、伝達事項を伝えた鬼頭は出席簿を閉じ、教壇を降りて教室を出て行ってしまった。
教室に残された生徒はようやく息を吐いて互いに苦笑し合い、軽い雑談を始めるも、それは数学担当の二十代後半の小柄な女性・如月先生の登場により中断され、そのまま授業が始まった。
肩にかかるぐらいの長さであり、うなじで結ばれた黒髪を払いのけ、かけていた赤縁眼鏡の縁をくいっと上に上げる。先生はお決まりとなった一連の動作を終えると、教科書のページを指定し、開くように声をかけた。
みんな教科書の指定されたページを開き、ある生徒は真面目に、ある生徒は気だるそうに授業を受け始める。拓真もみんなと同じように教科書とノートを開き、黒板に書かれていく白い文字をノートに書き写そうとした。
が、その手はすぐに止まってしまう。
昨日の続きからと説明される内容に、見覚えない図形と公式。思えば、彼が最後にノートをとってからもう二週間も日が経っているんだと、今の状況で思い知らされる。如月先生が説明していく内容は上手く理解出来ず、耳に入ってはすぐに抜けていく。
(……ノート、後で里香に貸してもらうとするか)
聞いていても頭に入ってこない公式に口元を引きつらせて、拓真は授業を受けることをやめ、再度窓の向こうに見える青空を見つめた。
考えなく、ただ茫然と。青に反する、赤い世界を思い出しながら、彼は視線の先を見つめた。




