少年
「んっ……」
暗い世界と、まどろみと、そして動かない頭。
意識が目覚めた拓真を迎えたのは、見覚えはあるものの見慣れることの出来ない自分の部屋。あるべき所に机があり、クローゼットがあり、そして彼が潜り込んでいる布団が敷かれたベッドがある。
必要最低限の家具だけが配置された、質素な部屋だ。
「そうか……今のは夢、か」
血に塗れた真っ赤な世界は、夢だった。
否、全てを夢だと切り捨てることはできないのだが、とりあえず、今見たものは夢だという確かな根拠はある。……現実には、あの女の子はいなかったからだ。
あの真っ赤な世界は現実のものだったが、そこに女の子の姿はなかった。いたのは状況に混乱する自分と、床に倒れていた母親と。それから――、
(……思い出したくないな)
拓真は考えることをやめると、枕元に置かれた青いカバーのスマートフォンを、差し込んであった充電器から抜き取って時間を確認する。
時間を確認するだけなら、机の上に置かれたデジタル時計に目を向ければいいだけの話なのだが、寝起きの頭ではそこまで考えることが出来ず、何より上半身を起こすのが面倒くさい。
ついつい慣れた手つきでスマートフォンをいじり、スマートフォンの画面に表示されたデジタル表示の時計を寝ぼけ眼で見つめる。
時刻は午前七時二十五分。そろそろ支度をして、学校に向かわなければ遅刻してしまう時間だ。分かっている。体を起してベッドから降り、身支度を整えなければ遅刻してしまうということは、頭では理解している。
だが、
(……だるい)
体が思うように動くかといえば、それとこれとは話が別だ。
夢見が悪かったせいで重く感じる体が起き上がることはなく、拓真はベッドの上でゴロンと寝返りを打った。
本音を言えば、この布団の中から出るのはごめんだし、若干睡魔の残る体を無理矢理起こし上げるようなことはしたくない。このまま布団の中に体を潜り込ませ、欲を言えば寝返りを打ってもうひと眠りしたいところだ。
いや、いっそのこと傷心を理由にもう一日休むのはどうだろう、と拓真の脳内に考えがよぎる。理由が理由なだけに、担任の鬼頭も何も言わないだろうと、中々いい案のように思えてきた。
そうと決まれば、行動は素早く。拓真は体勢をうつ伏せに変えると、手に持っていたスマートフォンの画面を親指で操作し、連絡先の羅列から文字をスライドさせ鬼頭の文字を探す。
「鬼頭、鬼頭っと……お、あった、あった」
画面に『鬼頭』の文字を見つけ、その箇所を指先で触れようとした時だった。
(――あ。けどな……)
ふいに思うところがあり、画面に触れようとしていた親指がピタリと止まる。彼は止めた親指をスマートフォンの側面に添えると、しばし表示された画面を見つめて考える。
この二週間に引き続きもう一日休んでしまおうと考え、鬼頭に連絡をしようとした拓真の脳裏に浮かんだのは、二人の腐れ縁の存在だった。
名前を、柏木翔太と、東雲里香。悪友の同級生と、幼馴染の女の子の姿だった。
傷心が理由で自分が休んだと聞けばあの二人はきっと、ただだるいからサボったとは思わないだろう。嘘を信じ、本当に心に深い傷を負ったのだろうと思い込み、心配して胸を痛めるのであろう。考えすぎかもしれないが、心優しいあの二人なら有り得ることだ。
それだけ今の自分がの置かれている現状が、他人の目から見たら可哀想で同情したくなるような状況なのだろう。
(実はそんなに悲しんでいないなんて、喪に服した人間が言えることじゃないけど)
とにかく。自分のだるいからサボりたいなんて嘘のせいで、あの二人に心配をかけたくはないし、気も遣わせたくない。それは自身の方が、気が引ける。
拓真は開いていたスマートフォンの明るい画面を消すとベッド上に投げ捨て、上半身を起こして深い溜息を吐いた。
「準備、するか」
誰に言うわけでもなくポツリと呟き、気だるい体を動かす。ベッドを下り、クローゼットの扉を両側に引いて開けば、そこには二週間ぶりに見る都立杉波高校の制服がハンガーに掛けられていた。
胸ポケットに校章の刺繍がされた紺色のジャケットに、茶色のズボン。白のワイシャツに深紅のネクタイは、どれもこれも、久しぶりに袖を通したり身につけたりするものばかりだ。気分だけの話をすれば、今の感じは長期連休の夏休み明けと似ている。
なんてことを思いながら、拓真は部屋着である赤いパーカーと黒のジャージズボンをその場に脱ぎ捨て、素早く制服に袖を通し、早々に部屋を後にした。
もちろん。部屋を出る際に通学用の鞄と、ベッドの上に置いていたスマートフォンを持って出るのを忘れない。
部屋を出た彼の目に入ったのは自室同様、引っ越してきて日が浅いせいかまだ見慣れない、二LDKのマンションの室内。
数歩で横断できる廊下を斜めに横切り、風呂場前の脱衣所に設置された洗面台の鏡の前に立つと、スマートフォンを投げ込んだ鞄を床に落とす。
洗顔と身だしなみの整え、限られた時間内にやるべきことはあるが、どれもそう時間がかかることはなかった。
「……フゥ。これでいいだろ」
目の前の鏡に映る黒髪で短髪の男は、自分の前髪をヘアーワックスの付いた指先でいじりながら、それをダークブラウンの瞳で見つめる。不意に鏡に目線を向ければ目が合い、横に逸らせば同時に逸れる。
不思議な光景なように思えるが、実際は鏡に映った自分の姿なのだから、同じことをしていて当然なわけである。拓真はワックスを定位置に戻し、その場を離れた。
「朝メシ……は、ないよな」
身なりを整え、キッチンに向かい冷蔵庫を開けてみたものの、中身はほぼ空。あるものはマヨネーズや醤油といった調味料と、紙パックの牛乳。そして冷凍庫のアイスのみ。どうやら、朝食として食べられるものはなさそうだ。
(昨日のうちに、コンビニで何か買っておけばよかったな……)
ダラダラと寝過した昨日を後悔しながらも、拓真は大人しく賞味期限が今日までの開封済みの牛乳パックを手に取り、冷蔵庫を閉めた。重さからして、飲み切れる量だろう。
そのままコップに注ぎ入れることなく、紙パックに口をつけ一気に飲み干し、彼はキッチンから覗くリビングを眺めた。
以前まで暮らしていた一戸建ての家のリビングに比べれば、やはりマンションの面積は狭くて、数日前に業者に運び入れてもらった黒いソファーとテレビのサイズも家にあったものに比べると小さい。
文句があるわけではないが、やはりどこか落ち着かない。過ぎた月日が浅いせいか、見慣れることのない空間に目を向けながら、拓真は持っている空になった牛乳パックを潰して、ごみ箱に投げ入れた。
本当なら数日前から、ここで拓真と彼の母親の二人で新しい生活が始まるはずだった。
母方の父――拓真でいうところの祖父の厚意によって借りることが出来たこのマンションで、自分たちは周りから憐みの目を向けなられながら、互いに支え合い生きる。そんな生活が、始まるはずだった。
しかし拓真の母親は《あの事件》以来心を痛め、精神的に病んでしまい、療養の為に田舎の実家に戻っている。拓真自身は負担にならないようにとこの新居に残り、いつでも母親が帰ってこられるようにと、一人この部屋を購入した家具で満たした。
その作業も一昨日ようやく終わり、生活に必要最低限の物は揃った。いつでも母親が戻ってこられる環境は整ったし、彼自身も以前のような生活に戻れるようになった。
だからこそ、今日は久しぶりに学校に登校するわけで……。
「――って、やばっ! 急がねぇと!」
物思いにふけていたせいで忘れていたが、限られた時間は刻一刻と過ぎている。
拓真は慌ててフローリングの床に置いてあった鞄を拾い上げ、玄関へ向かって短い廊下を走りだす。
玄関に出しっぱなしだった黒のスニーカーを履いて、急いで外に飛び出した彼を迎えたのは、白い雲が静かに流れる青い空だった。




