廻る
高校三年――十七歳の春になった。
四月下旬頃といえば、新入生が学校に慣れ親しんできた頃であり、五月の上旬のゴールデンウィークの予定を意気揚々と立て始める時期だろうか。
そんな世間が今日も平和な人生を生きている中、拓真は家のリビングで倒れていた。フローリングの床の冷たさを頬に感じ、散々容赦なく蹴られた腹部を押さえ、痛みに耐えながら。
「いってぇ……」
「……うぅ、っ……」
痛みに堪えて半目で呻き声の方を見れば、そこには同じように腹部を蹴られ、床に座り込んで蹲った母親の姿があった。周りには割れた皿の破片が散乱しており、彼女の足は切れて赤い一線が浮かび上がり、一筋の血を流していた。
自分達が何故こんな目に遭っているのか。どうして苦痛に耐えなくてはいけないのか。その理由は、見上げた先にある。
「私はもう行く。割れた皿はきちんと始末しておけ。……まったく、これだから屑は嫌いだ」
銀縁の眼鏡を指先で上げ、床に倒れ込んだ二人を見下した父親はそう吐き捨てると、白のワイシャツの上にグレーのスーツジャケットを羽織ると鞄を手に、リビングを去っていった。
廊下とリビングを仕切るドアが閉まり、足音が遠のき、玄関の扉が閉まる音を確認すると、拓真は重い体を起こし、よろよろとふらつきながらも母親に歩み寄った。もちろん、散乱した皿の陶器破片を踏まないようにだ。
「……母さん、大丈夫?」
「え、えぇ……大丈夫よ」
そう言い返した彼女の表情はぎこちなく引きつっていた。母親は拓真が差しだした手を取ることなく経ち上がると、側に転がっていたスリッパを履き、散らばった破片を片付ける為にキッチンへと戻っていた。その姿はよそよそしく、彼は距離を置かれているのだと簡単に察することが出来た。
無理もない。何故なら自分は――あの暴力を振るう男と同じ顔をしているだから。
同じ顔をして、その男の遺伝子を継いでいる。そんな人間を警戒するなという方が無理な話だろう。ましてや植え付けられた恐怖心があるのだとしたら、尚更だ。自分の姿を見て、怯える母親の気持ちが分からないでもない。だけども……、
(俺は母さんに、暴力を振るったりはしないのにな……)
そう思ったところで、自身の気持ちが相手に伝わることはない。話したことはないが、話さずとも分かる。何故か、そんな気がするのだ。
拓真は母親に差しのべていた手を下ろし、背を向けてリビングに配置された若草色のソファーに歩み寄り、その上に置かれていたこげ茶色のショルダーバッグを手にリビングを出て行った。私服に着替えてある為、この格好で外出ても問題はない。彼は廊下を歩き、一度脱衣所の洗面台の前で鏡を見て自分の姿を確認する。
黒のワイシャツにモスグリーンのジャケット。紺のダメージジーンズにショルダーバッグといったラフな格好だが、問題はないだろう。拓真は少しだけ跳ねていた髪を指先とワックスで直すと、そのまま家を飛び出した。
親友の翔太は同じクラスの秋元と出かけているし、幼馴染の里香は家族で外出中のはずだ。拓真は一人暇を持て余した休日をどうしようかと横断歩道を歩きながら考え、無意識に足を大葉自然公園に向けた。
園内に入って歩道をトボトボと歩き、適当な場所で空いているベンチに腰を下ろす。茫然と見上げた空は青く、白い雲が風に流されゆっくりと時間と共に流れていく。
拓真は今朝蹴られた腹部をさすりながら、ふと思う。
最近、翔太と里香の二人を合わせて三人で遊ぶことが――いや、同じ時間を共有することがなくなった気がする。今日は違うが、最近何故か二人は一緒に行動することが多くなり、そこには自分が入り込めない世界があるのではないかと思えてしまう。二人と過ごす時間が自分の唯一の幸せだったが、その時間は次第に消えていっている。
それなのに父親からの暴力は日を増して酷くなり、振るわれる力も強くなっているような気がする。母親も俺と父親の姿を重ねるせいか、距離を置く回数が多くなっていき、自身は孤立していく。
(……ハァ。幸せに、なりたいな……)
今の自分の人生に、幸せなことなんて何もない。不幸だけが、日々生きる自分の人生を支配する。希望もない、救いもない、そんな過酷で重い人生を、拓真は今日まで生きてきた。……幸せを、願いながら。
人並みでいい、幸せになりたい。誰でもいい、誰か俺を救ってくれないか。どんな手段をとってもいい。どんな結末が待っていてもいい。
誰か……助けて欲しい。
誰か……俺を幸せにしてくれないか。
「……頼むから、誰か……」
吐いたことのない弱音が漏れ、目尻が熱くなった時だった。
「――っ!?」
突如春の冷たい風が、桜の花びらを巻き上げながら吹き荒れる。突然のことに俺は目を細めて、そして細まった視界の先で見つけた。
――舞い散る桜の花びらの中を、一人の女の子が歩いてくる姿を。
彼女はとても綺麗で、可愛かった。太陽の光を受けキラキラと光り、透き通るシャンパンゴールドの金髪に、その髪をツインテールとして形成する白いレースがついた黒のリボン。白いジャケットの下に、淡いピンク色のチュニック。デニムのショートパンツに黒タイツを穿いた彼女は、茶色の編み上げブーツのヒールを鳴らしながらゆっくりと、こちらに歩み寄ってきていた。その手には水玉模様の可愛らしい包装紙に包まれた二つのクレープが握られており、彼女はクレープを手にこちらへ歩いてくる。
本当に、目を奪われるほどに綺麗だった。
「――え?」
そんな彼女の美しく輝くエメラルドの瞳と、目が合った。
最初はただの偶然だと思っていたが、視線を一度外し、もう一度彼女を見つめても目が合って、拓真は戸惑いながらも会釈した。そんな彼に対し、彼女はにっこりと微笑みかけて、距離を詰める。そして、
「こんにちは」
淡いピンクのグロスが塗られた唇で、澄んだ声を発した。
「こ、こんにちは……」
言葉を詰まらせながらも拓真は挨拶を返し、頭を下げる。彼女はチラリと俺が座るベンチの空席部分を見ると、自分に目線を向け、
「隣、いいですか?」
と、首を左に傾けて尋ねてきた。
どうせ隣に誰かが座る予定はないし、何より美少女の頼みだ。断る理由なんてない。拓真は席を左に詰めると右側のスペースを開け、軽く二度叩いた。
「えっと、どうぞ?」
「ありがとうございます」
彼女は花のような笑顔を見せると隣に腰を下ろし、左手に持っていたクレープを拓真に差し出した。
「……えーっと」
「クレープ、よろしければどうぞ」
「へ? け、けど……」
「美味しそうな匂いに惹かれて買ったのはいいんですけど、やっぱり二つも食べきる自信がなくて。だから、どうぞ」
「でも……」
知らない人から物を貰うのは危険だ。そう分かってはいるも、彼女の瞳は汚れがなく純粋でその厚意に甘えてもいいかなと思うが、やはり最後に一歩が踏み出せない。
目の前では俺がクレープを手に取るのを待ちわびている彼女が、愛らしい表情で自分を見つめている。拓真は悩み、彼女の厚意に戸惑った時だった。
――グゥ~……
ふと、お腹が鳴った。彼女の、じゃない。拓真の、だ。
「……え?」
「……あ。えーっと……」
そういえば思い出した。自分が今日、まだ何も口にしていないことを。
今朝は食事の準備を始めようとしていた時に、徹夜で機嫌の悪かった父親が現れ、俺拓真と母親に暴力を振るったのだ。もちろん朝食は食べていないし、その後すぐに家を飛び出した為、そんな暇はなかった。
「もしかして、お腹すいているんですか?」
「ま、まぁ……」
「じゃあ、尚更ですね。はい、どうぞ」
「あ、ありがとう……ございます」
お腹が鳴った恥ずかしさから顔を赤めながらも、拓真は彼女からクレープを受け取る。
生クリームがふんだんに使われたデザート系クレープなら手に取るのを躊躇うところだが、彼女が差し出してきたのはツナやコーン、レタスといったものを巻いた惣菜系のクレープ。彼は素直に彼女の厚意に甘えることにして、クレープをもらうことにした。
「では。いただきます」
「いただきます」
小さな口をめいっぱい開けて、苺と生クリームがふんだんに盛られたクレープをパクリと一口かじる。そんな彼女の様子を見届けてから、拓真も自分のクレープを一口食べる。
(……うん、うまい)
続いて二口三口とかじりながら、拓真はふとあることを思い出し、食べる口を止めた。
「あ。そうだ、クレープのお金――」
「そんなのいいですよ。これは私の奢りです」
「え!? け、けど――」
「いいったらいいんです! ……それに、今回は私の番なんですから」
「え? 今回って?」
「いいえ、なんでもありません。さ、食べましょう!」
「あ、あぁ……」
今回? 私の番? 彼女が何を言っているのかは拓真には分からなかったものの、彼女に強引に促され、とりあえずクレープを食べる。普段は女の子に奢られるなんてことはしないが、今回はまぁ……特別ということにしておこう。
拓真はありがたくクレープを頂きながら、目の前の桜の木と舞い散る花びらを見つめた。彼女の着ているチュニックと同じ、淡いピンク色のそれらを。
「――それで、何を悩んでいるんですか?」
「な、なんだよ? 急に……」
「私でよければ話、聞きますよ?」
「……そ、それは……」
拓真の顔を覗きこみそう言った彼女の言葉に、彼はどう反応していいのか分からなかった。
彼女はどうして、自分が悩んでいることを知っているのだろう。もしかして、さっき悩んでいたところを見られていたのだろうか。そう考えると合点はいくが、こんな見ず知らずの女の子にまで心配されるくらい悩んだ顔をしていたのだと思うと、逆に恥ずかしくなる。
拓真は合ってしまった彼女の瞳から目を逸らした。
(だけど、そうだな……)
この際、誰かに相談してみるのも悪くないという考えが、彼の中で芽生え始める。
相手は見ず知らずの美少女。しかし何故だろう。自分は彼女のことを知っているような気がする。どこでとは言えないが、何故だが面識があるように思えてしまう。それに、何よりどこか安心する存在のように感じてしまう。彼女になら、全てを話してもいいような、そんな気さえ思えてくる。
しばし考え、拓真はやがて口を開くことを決意する。
救いもない。希望もない。幸福もない。そんな世界では縋るものも、救ってくれるものもないだろうが、彼女に話してみるのも悪くないかも知れない。
彼はクレープを握っていた手を膝の上に置き、一息ついた。
「……斎藤拓真」
「えっ?」
「俺の名前だよ。拓真って呼んでいいから」
話を、それも人生相談をする相手なのに名前も知らないのはおかしいだろうと思い、拓真は驚く彼女に自己紹介をしてみる。
「それで、君の名前は?」
「唯です。織原唯っていいます。よろしくお願いしますね、拓真さん」
「ハハッ。こちらこそ、よろしく。唯」
すんなりと名前を教えてくれた彼女――唯に笑いかけながら、拓真はどこから話そうかと考えて、空を仰ぐ。
やがて考えのまとまった拓真は、父親の事から話そうと思い、口を開いた。
「そうだな。実は、俺――」
そうして彼は、言葉を紡いでいく。迷うことなく、疑うことなく。
「はい。……私になんでも言ってくださいね。拓真さん」
口を開いた時、彼女が口元に歪んだ弧を描いたとも知らずに……――。
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