血の海
血塗れの世界が、自分を出迎える。
……なんて現実、一体誰が想像できたと思う?
少なくとも、少年――斎藤拓真はは想像などしていなかったし、予想なんて出来るわけがなかった。何故なら想定していなかったのだから。
――あの日、あの瞬間までは。
「……ただいまー」
時刻は午後十時を過ぎた頃。アルバイト先である、老夫婦が営む小さな飲食店から帰宅した拓真を迎えたのは、灯りの点いていない真っ暗な廊下だった。
閉店間際の飛び込み客の相手を終えて、クタクタになった体を引きずるように動かしながらも、拓真は脱ぎ捨てた靴を揃え、玄関の隅に並べる。散らかしておくと彼の父親が煩く怒鳴りつけるからだ。
住み慣れた家のおかげか、視界が暗くても壁の位置や距離感はつかむことができる。動き慣れた感覚で暗い廊下を進みながら、拓真は二階の自室へと続く階段へと進み、階段の一段目を見下ろして足場を確認した。
――と、ここで気がつく。今の自分には物が見えている現状に。
一瞬、目が暗闇に慣れたのかと思ったが、どうやら理由はそれだけではないらしい。目の前で指を動かしてみれば何をしているのかはっきりと分かるし、視界も先程の真っ暗というよりは寧ろ薄暗いといった感じだ。
不思議に思い辺りを見渡してみれば、そこには一つの光源があった。
廊下の先――リビングに通じるドアの隙間から差し込む、一筋の光だ。あの光がこの空間を僅かに照らし、視界に広がる闇を薄暗いものにしているのだと、ようやく気付く。
(……でも、一体誰だ? こんな時間に起きているのは……)
仕事が早い父親と、その父親の生活に合わせるせいか朝が早い母親は、すでに寝ているものだと思っていた。普段がそうだから、それが当り前だと思っていた。
だが今日は、どうやら違うようだ。
どちらかが起きているのか。あるいは、どちらも起きているのかは彼には分からない。だからこそ、少し気になる。
拓真は階段に乗せかけていた片足を下ろし、リビングへと向かう。ドアの隙間から差し込む一筋の光に導かれるように。なんの疑いもなく、彼は前へ進んだ。
誰が待っているのか。何が起こっているのか。
そんなことを頭の隅でぼんやり考えながら、拓真は足を進める。
だが、ドアの前にさしかかった瞬間。その足は止まることとなった。何かを踏んだのだ。
冷たくて、足が濡れて、気持ち悪くて。それが何かは分からないが、とにかく嫌なものを踏んだことは確かだ。その何かを確かめようと、拓真は渋々下に目線を向け、差し込む光に照らされた足元を見た。
「――っ!?」
息を呑んだ。そこには得体の知れない赤い液体が、履いていた白い靴下を赤く染めていたのだから。
(これは絵の具、じゃないよな? まさか、血、なのか……?)
突然の出来事に混乱する頭を抑え、なんとか冷静さを保ちながら、彼は事実を確かめようと赤い液体の先を見つめ、ドアの隙間からリビングの中を覗くこととなる。
そして再度、息が詰まる思いをした。
「……かあ、さん……?」
毛先の巻かれた黒い髪に、左目の泣きボクロ。リビングの中に、彼の母親はいた。淡い紫色のシャツを着て、クリーム色のスキニーパンツを穿いて、お気に入りだと言っていた小さな白い花柄模様があしらわれたオレンジ色のスリッパを履いて。
――リビングの床に、身なりの所々を赤い液体で染めて、倒れていた。
(これは、母さんの、血……?)
最悪の事態が脳裏をよぎった瞬間。拓真は慌てて鞄をその場に投げ捨てドアを引き、母親に駆け寄った。床に作られた小さな血溜まりを構うことなく踏みつけ、足が濡れることを気にする間もなく、彼はフローリングの床に倒れていた母親の傍らに駆け寄ると、その上半身を抱え上げる。
「母さん、しっかりしろ……母さんっ!」
一心不乱に名前を呼び、体を大きく揺すったところで気がつく。微かに寄せられた眉の変化を。体を揺らすことやめ、ソッと片手を自身の母親の鼻元に当てると、小さな風を手のひらに感じた。
母さんは、生きている。
その事実が分かった瞬間、拓真の中で体の力が一気に抜けるのが分かった。大切に思ってきた母親が生きている事実に安心したのだ。服には所々だが楕円状の血飛沫がついている。しかし身なりはどうであれ、見たところ母親本人に目立った外傷はない。
拓真はその事実を理解し、無事で良かったと安堵の息を漏らした。
(……けど、だとすればこの血は一体……)
安心したのもつかの間。芽生える疑問点の答えを求め、顔を上げた時。自身の血の気が引いていくのを確かに感じた。
そこには床を埋める大きな血溜まりがあった。血溜まりの中央には体のいたる所を刺され、無数の穴を作った血の気の引いた肉塊があった。肉塊に生える黒い髪は、血溜まりに浸っていた。
そして銀縁の眼鏡が――無残な父親の死体の傍らに、置かれていた。
「……ぁ……っ」
うまく声が出てくれない。発しようとしているのに、言葉にならない。
衝撃的過ぎる光景を前に、彼は胸の奥から溢れだしそうになるそれを懸命に堪え、警察に、救急に連絡しようと、スマートフォンに手を伸ばす。青いカバーがつけられた自身のスマートフォンはリビング前のドアに投げ捨てた鞄の中にある。それを取り出せばいい。
そう思い、拓真は体を立ち上げたつもりだった。立って、鞄に歩み寄って、スマートフォンを手にするつもりだった。
だがしかし、体は動いてはくれなかった。頭ではやるべきことを理解しているも、突然の出来事に体がついてきていないのだ。
(なんで、動かないんだよ……!)
気を失った母親の上半身を抱きかかえ、ただ父親の死体を見続けることしかできない自身の体。……だがそれは、ある時突然動き出す。
「――フフッ」
背後から聞こえた笑い声に驚き、拓真の体はビクリと跳ね上がる。
声の主は女の子だった。女の子特有の高くも可愛らしい澄んだ声が背後から――リビングの床に膝をつく彼の頭上に降ってくる。その声はどこか嬉しそうで、この悲惨な情景とは不釣り合いなことが不気味に思え、振り向くことが出来なかった。
「……これで、いいんですよね?」
しかし、何故だろう。この女の子の声には聞き覚えがあった。
いつかと問われれば思い出せないが、それでも拓真の耳はこの声を覚えている。
(一体、どこで……?)
疑問と好奇心が拓真の心を押し、後ろを振り返れと誘うように囁く。心の声に後押しされる形で、彼は母親の体を倒れていたフローリングの床に戻すと、ゆっくり立ち上がる。
そして恐る恐る、振り返った。
「拓真さんの願い、これで叶いましたよね?」
女の子は彼の――拓真という名前を呼ぶと、嬉しそうにそう言った。
振り返った先にいたのは声の通り、一人の女の子だった。体格と声色から察するに、歳は拓真自身と近いのだろうか。考えたところで、それ以上のことは分からなかった。
何故なら彼女の姿は、この灯りの点いたリビングではなく、明かりのない廊下にあったのだから。
この位置から見える明かりに照らされた彼女の姿は、すらっと伸びた白い脚と、穿かれたデニムのショートパンツ。右手に握られた、赤い血が付着しながらも刃が銀色に光るナイフ。
そして、
――血に塗れた、淡いピンク色のチュニック。
顔も見えない、誰かも分からない女の子とこの惨状を前に混乱する拓真に対し、彼女の口元はにっこりと笑みを作り、弧を描いた。
優しく、まるで彼を宥めるかのように。
「……もう、大丈夫ですよ」
彼女は、そう言った。だが、言葉をかけられた拓真自身に、その言葉の意味が分からない。
目の前に立つ女の子に、その言葉の真意を確かめようとした時だった。
ぐらりと視界が歪み始め、次第に気が遠のいていく。ふらつく体でどうにか床に膝をつき、倒れこもうとする体のバランスをとる。
気持ちが悪い。頭が回る。それでもまだ、真意を聞いてはいない。
拓真は最後の力を振り絞って彼女を見上げ、口を開いた。
「……あっ……」
だが口を開いたのを最後に彼は意識を手放した。




