願い
(やっべ。結構遅くなったな……)
翔太と里香、二人のからかいの間の手から逃げ出した拓真と唯は、流れからとはいえ来た道を戻ってしまった。二人の魔の手に二度もかかるわけにはいかないと思った二人は、近くのファミレスに入り、早めの夕食をとることにした。
今日の夕飯はいらないことを母親に伝えようと自宅に電話してみるも、聞こえたのは留守を告げる固定された女性の声。あの人も出かけているのかと思った拓真は、仕方なく留守番電話にメッセージを残すだけにした。
ファミレスの中年男性店員に促され、俺達は希望した四人がけのテーブルについた。もちろん二人は互いに向かい合うように座り、拓真の隣には先程貰った巨大なイルカのぬいぐるみだ。同様に巨大な猫のぬいぐるみを隣に置いて座る唯と共に、周囲の興味の視線を浴びつつも、自分達は笑い合って夕食をとった。
そんな彼女と地下鉄の西口で別れたのは、午後八時ごろだった。
『今日はありがとうございました!』
そう言ってにこやかに微笑む唯に『どうしたしまして。こちらこそ、ありがとな』と返し、そこで別れた。階段を下りながらも、何度も振り返って手を振る唯の姿を、見えなくなるまで見届けた拓真は、それを終えると足早にマンションに戻った。
もう時間も遅い為、さすがに母親も出かけ先から帰ってきていると思ったからだ。
「母さん。ただいまー」
そう思いながらマンションの扉の鍵を開け、ドアノブを引いた俺の予想は外れることとなった。
「……あれ?」
家の中は俺の想像とは裏腹に、真っ暗だった。灯りはついていない。玄関が薄暗く照らされているのは、自身の背後――開いた扉から入る月明かりのおかげだ。
そんな玄関を見てみれば、足元には母さんが愛用しているグレーのヒールのパンプスが揃えて置かれている。どうやら彼女は帰ってきているようだ。しかし、灯りも点けないのはどうしてだろう。
疑問に思いつつもまずは玄関に体を入れ、扉を閉めて施錠する。その後で真っ暗な中、手探りで玄関のすぐ近くにあるスイッチに触れて廊下の電灯をつける。その明かりを頼りに靴を脱ぎ、拓真は家の中へと入っていった。
(人が居るはずなのに真っ暗な家、か……。思い出しちまうな、あの日のことを)
思い出すのを拒んでも、つい思い出してしまうのはあの日――父親が無残な死体となって見つかった日のことだ。
あの日も確か、夜遅くに帰宅した自分を迎えたのはこんな風に真っ暗な世界だった。
だがあの日はリビングから差し込む僅かな光が俺を導いてくれたが、今日はその光すらなかった。あの日と今日は違うんだと思いながらも拓真はリビングに向けて足を進め、電気をつけた。――ここにも、母さんの姿はなかった。
となると後は、襖の閉まった和室だけ。拓真は手に持っていた巨大なイルカのぬいぐるみと、肩に掛けていたショルダーバッグを黒いソファーの上に置くと、和室へと近づき、襖の前に立った。
「母さん、ただいま」
一応声はかけてみるものの、応答はない。沈黙だけがしばし続く。
時刻はまだ午後九時前。寝るには少し早い時間の為、まだ起きていることは確かだ。それなのに返事がないのは少しおかしい。もしかして、体調でも崩したのではないかと心配になった拓真は、しばらく悩んだ末に襖に手をかける。
「……母さん。開けるよ?」
一言断りを入れてから、彼は襖を横に引いた。
――そして、始まる。
最高に幸せだった一日を壊す、最悪の一夜が……。
「……か、母さん……?」
目の前の光景に、血の気が引いていくのが分かる。いや、現実に血の気が引いているのは自分じゃない。……目の前で倒れている、母親の方だ。
灯りのついていない和室にしかれた布団の上に倒れ込み、手首から真っ赤な鮮血を流す母親の側には剃刀が置かれており、自殺を図ったのだということは一目瞭然だ。
だが、その理由はなんだというのだろう。
父親が死んだ今、彼女を苦しめているものはなくなったはずだ。現状は幸せそのものだし、現実から逃げる必要などどこにもない。今の生活だって母親の両親が――不動産業を経営している祖父母が支えてくれている。問題は何もないはずだ。それなのに、どうして……。
(――って、今はそんなこと考えている場合じゃねぇ!!)
母親の手首から流れる鮮血は、今でも真っ白なシーツを赤く染めていく。
拓真は急いで風呂場前の脱衣所へと向かい、戸棚から真っ白で清潔なタオルを一枚取り出し、それを手に和室へと戻る。
こんな時、どうしていいかなんて正しい処置の仕方なんて分からない。だがひとまず、流れる血を止血しなきゃいけないことぐらいは分かる。拓真はタオルを剃刀で切られた傷口に押し当て、流れる血が止まるのを待った。
止まれ、止まれ、と。何度も心の中で祈りながら、彼はタオルを赤く染める血液を見つめ続けた。
血が止まったのは、それからしばらくしてからのことだった。
それは短い時間ではあったものの、彼にとってはとてつもなく長い時間のように感じられ、徐々にタオルを染めていく血の動きが止まった時は、一気に体の力が抜けていった。どうやら拓真が思っていたよりか、傷口は浅かったようだ。
拓真は安堵の息を漏らすと、タオルを母親の手首に縛る。傷口が浅いと思われるにしても、これから救急車を呼んで、彼女を近くの病院に運んでもらわなければならない。
傷口を止血し終えた拓真は力の抜けた重い体で立ちあがり、スマートフォンの入ったショルダーバッグをソファーまで取りに行こうとした時だ。
「……んっ」
母親の眉間に皺がより、眉が顰められる。気を失っていたが目を覚ましたのだ。
次第に上がっていく瞼を見つめながら、拓真は自身の母親の無事に再度安堵し、声をかけようと上半身を起こそうとするその体に触れようとした時だった。
「――っ!? 触らないでっ!!」
パシンと、拓真の伸ばした手が叩かれた音が、静かなこの部屋に響いた。
その瞬間、目の見開くと同時に彼の頭の中は真っ白になり、考えがつかなくなる。訳が分からなかった。
「……母、さん?」
呼びかけても、以前のように微笑んで応対してくれる母親の姿はなかった。
彼女はまるで、獣でも見るかのような怯えた瞳でこちらを見つめ、窓の外へと這いつくばるように後ずさり、拓真との距離を取った。
今の彼女は普通じゃない。見開いた目で怯え、体をガクガクと震わせながら、何かをブツブツと呟いていた。言っている言葉がなんなのかは、拓真の耳には上手く入ってこなかった。
そんな母親の様子が心配になった拓真は再度手を伸ばし、母さんに近づこうとした。
だが、
「いやっ! こないでっ!」
母親は声を荒らげて拓真を拒み、近づくことは出来なかった。彼はただその場で、気の狂った自身の母親を見つめることしかできなかった。
一体どうしてしまったのか。湧き上がる疑問に思い当たるような答えはなく、拓真は戸惑うしかない。
とにかく、相手の気持ちを落ち着かせなければ。そう思い、冷静になって話をしようとした時だった。
「……生きて、いけないのよ……」
ブツブツと呟いてばかりいた母親の言葉が、正確に耳に入る。生きていけないとは、どういう意味なのだろう。怯える彼女の発言を聞き逃さないよう、耳を傾けてみる。
が。そんなことをするまでもなく、彼女は声を荒らげてこう言った。
「貴方が生きている限り、私は生きてはいけない。貴方がいる限り、私は怯え続けなければいけない。罵倒され、暴力をふるわれて、いつかは殺されてしまう……そんな拷問みたいな人生、もう耐えられない! 死んでやる!!」
「――っ!?」
その言葉で気がついた。
母親はまだ、悪夢にうなされているんだと。父親の死が信じられず、まだ暴力を振るわれるんじゃないかと怯えているのだ。きっとそうだ。だから自らが死ぬことで、それから逃れようとしている。そんな必要は、もうないというのに。
今にももう一度自殺を図ってしまいそうな母親を落ち着かせようと、拓真は説得を試みる。
「母さん落ち着いて! 大丈夫。あの男は――父親はもう死んだんだ! 怯える必要なんてないし、母さんが死ぬ必要もないんだ! これからは俺と母さん、二人で一緒に――」
と、そこまで言いかけた時だった。
「――それが嫌だって言っているのよ!」
予想外の言葉が、母親の口から発せられた。それも、今までで一番大きな声で、拓真自身を拒絶した。
(母さんが俺を、拒絶した……?)
突然のことに思考が停止する拓真にはもう、何も考えられない。ただ、目の前で自身を畏怖の対象として見る女性の姿を見つめ返すことしか出来ない。
そんな拓真に母親は、衝撃の一言を放った。
「だって、貴方はあの人と同じ……父さんと同じ顔をしているじゃない!!」
「――っ!?」
(俺とあの男が、同じ……?)
大切に想ってきた母親にあの男と――父親と同じ顔だと言われた彼の頭に蘇ったのは、中学生時代の記憶だった。
『あら、拓真くん。こんにちは。しばらく見えないうちに大きくなって……ますますお父さんに似てきたわね。フフッ』
思い出すのは、よく近所のおばちゃん達に言われた言葉。
登校中に出会ったおばちゃん達は気さくに声をかけて、笑顔でこう言う。
『もう少し髪を短くして、眼鏡をかけたら、若い頃のお父さんそっくりよー。ウフフッ』
あの人達はその言葉を、何かの褒め言葉と思ったのだろうか。――そう言われる度、拓真は嫌で、嫌で、嫌で、たまらなかったというのに。
自分は社会では善人面して、家庭では家族を罵倒し暴力を振るうような人間とは違う。
暴力に苦しむ母親を、ずっと、ずっと守ってきた。庇ってきた。自分はあの男とは違って、母親を大切に思っている。大切にしてきた。
……それなのに。この人にとって自分は、あの男と同じ存在だったというのだろうか。
畏怖の対象で、ずっと怯えてきたというのだろうか。今までの微笑みは、嘘だったのだろうか。
今までずっとあの男から守ってきたのに、憎いあの男と自分は同じ存在だっていうのか……?
(……なんだよ。それ)
目の前で怯える母親。
真っ白になった頭。
煮え滾る負の感情。
その全てが合わさった時、拓真の中でどうしようもない怒りがこみ上げてきた。自分ではどうしようもないほど大きく、どす黒い感情が、暴れ出そうとしている。
この感情の止め方なんて、知らない。――知りたくもなかった
「……なんだよ。今まで守ってきたのに、大切に思ってきたのに。母さんの目には、俺はあの男と同じに映っていたのかよ……」
「そうよ! 貴方はあの人と同じ! あの人と同じ顔をしてあの人の遺伝子を継いで……そしていつか私に暴力を振るうのよ! きっとそうよ!!」
今のこの人に何を言っても、きっと信じてもらえないんだろう。自分がどれ程母親としての貴女を大切に思っていたのか。陰でどれ程身をていして守ってきたのか。この人は知らない。
……もう説明する気もない。だから、この人にこの言葉を贈ろう。
「そっか。――じゃあ、死ねよ」
「……えっ?」
驚く女を前に、拓真の口から乾いた笑みが漏れる。
無性に笑いたくなった。だから彼は笑って、言葉を続けた。
「俺の存在が怖いなら、俺と一緒に居るのが嫌なら、とっとと死んでこの世から消えろ。どうせ、そのつもりで手首切ったんだろ?」
「……た、拓真?」
湧き上がる負の感情が止まらない。……否、止めることなどしない。出してしまえばいいんだ。全て、全て――。
「そんなに俺のことが嫌なら死ねよ。死ねよ。てめぇなんか、とっとと死んじまえ!!」
感情が暴走する。もう、誰にも止められない。このざわついた心も、言葉を発するこの口も。止めるものは何もない。全て、露わとなるだけだ。
実の母親に拒絶されて、何かが吹っ切れたんだろうな。
冷めた目で相手を見れば、相手はひどく怯えた顔をして後ずさる。後ろはベランダに続く窓だけだというのに、恐怖から逃げるように。その恐怖も、死ねばなくなるというのに……。
ふと視線を下に向ければ、布団の上にはこの人が自殺未遂に使った一本の剃刀が、当り前のようにその場に落ちている。これを使って手伝ってあげれば、この人は楽に逝けるだろうか。
そう思い、ゆっくりと剃刀に手を伸ばしかけた時だった。
――優しくも冷たい夜風が、拓真の頬を撫でた。
(え? なんで……?)
家を出る際に窓はすべて閉めたし、帰宅をした時も窓は開いていなかった。それなのに何故室内に風が吹くのだろう。驚きながらも顔を上げて窓の方を見れば、窓は大きく開いていた。レースのカーテンを夜風で揺らし、室内の気温を徐々に外気と同化させていく。
冷めていく空気を肌に感じながらも、拓真の目線は開いた窓へ――正確には、母親の背後へと向けられる。
闇夜と外の電灯の明かりを背に立つその人物の存在に、目を奪われたからだ。
その人物。それは――。
「――唯……?」
透き通るシャンパンゴールドと大切なレースの付いたリボンを風に靡かせながら、彼女はそこに立っていた。
いつからそこにいたのか――いや、そんなことよりも、どうしてその場所に居るのか。彼には分からなかった。
淡いピンクのチュニックとデニムのジーンズだけという、この季節には少々寒すぎる格好で現れた唯は、すらりと伸びた白い脚を動かし、ベランダから部屋の中へと入る。
彼女の表情に、いつもの笑顔はなかった。見たことがない無表情な面持ちと冷たい目つきで現れた唯は、ゆっくりと母さんに近づき、そして、
「ひ、ひぃ⁉」
右手に持っていた銀色に鋭く光るナイフを、怯える女の首に押し当てた。
「……ゆ、唯?」
名前を呼んでも、返事はない。唯は表情を変えることなく、その冷たい眼差しで拓真の母親を睨み、逃げ出そうとする彼女の片腕を捻り上げて背中に抑えつける。唯がどうしたいのか、何をしているのか。状況を呑みこめない拓真には分からない。
想像はついた。だけど、そんなことはありえないと、頭が否定する。あの唯が、そんなことをするわけがないと。第一唯には、そんなことをする理由がないと。
そんな時だった。唯と目が合ったのは。
彼女は――笑った。笑って、そして……。
「――それが拓真さんの、願いとあれば」
そう言って女の首を掻っ切った。