ワッフル
(物事って、上手くいかないな……)
最後に三人で帰ったのはいつだったのか、もう覚えてはいない。
金曜日の今日も、拓真は一人学校から自宅のマンションへと帰る為に繁華街の中を、人の波に流されながらトボトボと歩いていた。
あのラブレターの一件から三日経った今も、彼の悩みが解決することはなかった。考える問題は今、山積みとなっている。
一つは友人関係。翔太と里香のことだ。教室を飛び出したあの日、二人は別々の時間に教室に戻り、鞄を持って早々に帰って行った。二人のことを教室で待っていた拓真に一言「ごめん」と、それだけ告げて。
その日以降、二人は学校に登校はするものの、互いに距離を置いているせいか、ぎこちない関係が続いた。
あの日以来、ラブレターの話は一切出てこないし、翔太も里香も以前のように笑うことはなくなったし、会話の数も減った。翔太にいたっては、この状況が耐えきれないのか秋元の元に行って話をすることが多くなった。あくまで自然を装い、ぎこちない笑顔を浮かべて翔太は場を離れ、そんな翔太の姿を里香は悲しそうな顔で見つめた。
話しかける秋元も睡魔が襲ってくる為、長い時間話しをすることが出来ない。時間が経てば翔太は帰ってくる。それが分かっていても里香の表情が変わることはなかった。そんなぎこちない三人の関係が今日も続き、拓真は頭を抱える。
もう一つの悩みは担任の鬼頭のことだ。あの日――声が出なくなった火曜日以降、鬼頭が彼の前で喋ることはなくなった。病院での検査の結果の上で異常はなかったらしいが、教壇に立つ鬼頭が声を発することはなかった。
何度か声を出そうと口を動かしてはみるも、その言葉が自分生徒達の耳に届くことはない。その日以降、朝礼は副担任の如月先生が行い、歴史の授業もプリント自習となった。
クラスメイトの話によれば、自宅や職員室では声が出ていたらしく、生活に支障はないそうだ。つまり、何故か拓真達のクラスでは声が出なくなる状態らしい。周りのクラスメイトはストレスが原因では、と疑う生徒もいたが実際のところは拓真にも分からない。何故ならあの日以来、鬼頭は彼を避けるようになったからだ。
そうなれば拓真の頭をよぎるのは、月曜日の放課後に鬼頭に言った『二度と俺の前で喋るな』という言葉。まさかあの言葉のせいで鬼頭は言葉を発しなくなったのかと考えだすと、自分のせいではないことを祈るばかりだ。
次の一つは母親の問題。母親が家に帰ってきて数日経つが、姿を見ることも、顔を合わせることも、会話をすることも殆どなくなってしまった。
母親は大抵和室に籠るか出かけるかしていて、互いに言葉を交わすことはなくなっている。それでも朝昼晩の三色の食事の準備はしてあるのだから、これはただ単に時間が合わないだけだと思いたい。自分も学校やアルバイトで出かけたりしているわけだから、しょうがないことだ。
だけどもその反面。心の隅では、大事に想う母親に距離を置かれ、避けられているのではないかと思い、これが悩みとなっている。
最後の一つは唯のことだ。
秋元に言われた、唯が自分のことを見ていたという話が気にかかり、何故かという疑問が湧き上がる。理由を知りたいと思うも、今は他に悩みがあり、それどころではない。
分かってはいるが、気になり始めるとその疑問は頭から離れず、彼女に会わなければ答えは得られないと言い聞かせても、つい考えてしまう。なんという悪循環だ。
(……ハァ。もう何も考えたくねぇよ……)
考えることに疲れた拓真は、グチャグチャになった頭で足を止め、フラフラと街を彷徨い、騒音から逃げるように道を一本横に逸れる。
喧騒を背に歩き、人の減ってきた道の角を曲がろうとした時だった。
「――おっと!」
「キャッ!?」
出会い頭に誰かとぶつかり、拓真は後ろに倒れそうになる女の子の腕を掴んだ。
「ごめん! ……大丈夫?」
「は、はい。大丈夫、です……」
倒れ込もうとしていた女の子の体を抱き寄せ、謝りながらも、彼女が自分の足できちんと立てるように支えた時だった。
(――って、あれ?)
見覚えのあるシャンパンゴールドの金髪に、白のレースが付いた黒のリボン。そして綺麗に結ばれたツインテール。加えて上から、白のジャケットにピンクのチュニック。デニムのショートパンツに黒のタイツという、あの日と同じ姿の人物が誰か分かった時、俺は思わず声を上げてしまった。
「もしかして……唯?」
「あ、あれ? 拓真さん?!」
互いに互いの顔を覗きこみながら、二人は声を上げた。
目の前に立つ唯はエメラルドの瞳を丸くさせて驚きながらも、彼がこの前出会った人間だと知ると、にこりと微笑んだ。
「よかった、また拓真さんに会えて。この前のクレープのお礼、まだちゃんとしていなかったから、会いたいなって思っていたんです」
「いや、別にお礼なんていいのに……」
確かにあの日。あの時は拓真がアルバイトに行く予定があり、ちゃんとしたお礼を聞くことなく別れたが、別にあのクレープは彼の自己満足で奢っただけだ。気にする必要はないし、唯の今の言葉と聞いて笑顔を見られただけで充分だと拓真は思った。
だがどうやら、唯の気持ちは違うようだ。
「あの、拓真さん。あの時のクレープのお礼をさせてください!」
「えっ、お礼?」
「はい! 私に出来ることならなんでも言ってください! 私なんでもしますから‼」
「う、うーん……」
(お礼がしたい、と言われてもな……)
突然の話に困った拓真はどう返していいか分からず、とりあえず視線を泳がせる。
と、その時目に入った“ソレ”に、彼は思わず声を漏らしてしまった。
「……あっ」
「え? なんですか? ――あっ」
拓真の目線に釣られ、唯の目も“ソレ”に向けられ、そして声を漏らす。
目に痛い濃いピンク色の看板に、怪しい店名――何とは言わない。俗にいう“ホテル”だ。
そう言えばこの路地は、そういった店が集まる場所なのだと思い出し、拓真は話す場所を誤ったと苦笑いを浮かべる。
適当に足を運んだとはいえ、こんな所で女の子と話をするのはどうかと思う。彼は唯の手を引いて、彼女と共に早々にこの場を離れようとした時だった。
とっさに、慌てたように唯が声を上げる。
「あ、あの、拓真さん! えっと、ですね……」
「ん?」
「そ、その……お礼ならなんでもすると言いましたが、その、出来ることと出来ないことがあると言いますか、あのですね……」
顔を真っ赤にしてしどろもどろに言葉を紡ぐ彼女の姿に、拓真は唯が何を誤解し、何を考えたのか容易に察しがついて再び苦笑した。
そういうつもりでホテルを見た時に声を漏らしたわけではないし、手を引いたわけでもない。第一、そんなつもりは毛頭ない。
もし彼女が考えているようなことを、一回会っただけの見ず知らずの女の子とやろうとする男がいたら、そいつは通報されても文句は言えないレベルではないかと拓真は思う。
……そういう男には、なりたくないものだな。
なんてことを思いながら拓真は唯の手を引き、ホテルに背を向けて元来た道を戻り始める。
「分かっているよ。だからとりあえず、話す場所、変えない?」
「は、はい。そう、ですね」
離れていくホテルを尻目に、唯は安堵した様子で握っていた俺の手を握り返し、後をついてきてくれた。
純粋でいい子な唯だが、知らない男に付いて行くなと教えたくなったのは自分だけだろうか。
拓真は唯の将来に多少の不安を覚えながらも、それでも今は自分を信じて付いてきてくれたのだと思い込み、彼女の手を引いて繁華街を離れた。
唯と共に足を運んだのは、二人が最初に出会った大葉自然公園。
金曜日の昼間ということもあり、まばらな数の人とすれ違いながらも二人は初めて出会ったベンチへと向かう。と、その途中甘い匂いを感じ、二人の足は止まることとなる。
カラフルなパステルカラーの水玉模様が描かれた白の車。甘い匂いはその車から漂い、車の側に置かれた看板には『焼きたてワッフル』の文字が大きく書かれていた。どうやらこの車は焼きたてのワッフルと、ドリンクの移動販売の車なのだろう。
以前のクレープとは違う移動販売の車に物珍しさから目を向けながらも、拓真はチラリと唯に視線を向ける。
(やっぱり、な……)
隣に立つ唯の目は、キラキラと輝いていた。
この前一緒にクレープを食べていた時も思ったが、どうやら唯は甘い物に目がないらしい。
苺のクレープを食べていた時の顔は幸せそのものだったし、食べながらも目の前を歩いて行った女子高校生が持っていたチョコバナナのクレープに、キラキラとした眼差しを向けていたのを彼は覚えている。
だから今回もそうかなと思い目を向けてみたら案の定、彼女は目を輝かせて熱い視線を焼きたてのワッフルに向けていた。
食べたいのか? なんて、聞かなくても分かる。拓真は視線を唯から小腹のすいた自分の腹に向け、決めた。
「唯」
「へ? あ、はい! なんですか、拓真さん」
「ワッフル、食べようか」
そう言ってワッフルの移動販売の車を指で示せば、唯の顔色がパァと明るくなり、嬉しそうな笑顔で拓真を見上げた。
「はい! 喜んで!」
声を弾ませ、足早に車に近づく唯に手を引かれ、拓真は彼女の後を追った。
五十代半ばのおばちゃん店員が顔を覗かせる窓口の前に立つと、二人はカウンターに置かれたメニューを見つめる。そこで離れてしまった手に寂しさを感じながらも、拓真はメニューに目を向けた。
「えっと、私はプレーン一つとチョコレートを一つ! 拓真さんは何にしますか?」
「俺はプレーン二つとドリンクのモカかな? 唯はドリンクいいのか?」
「あっ、そうですね。じゃあ……ココアを一つ追加で」
「はーい。ワッフルのプレーン三つとチョコレート一つ。ドリンクのモカとココアで、計六点ね」
気さくな言葉使いで話すおばちゃんが繰り返したオーダーを確認しながら、拓真は鞄の中から黒の長財布を取り出し、言われた合計金額を支払おうとした時だった。
隣に立っていた唯が慌てた様子で自分のショルダーバッグからピンクゴールドの二つ折り財布を取り出した。
「唯?」
「拓真さんは出さなくていいです。ここは、私が払いますから!」
「……へ?」
ここは自分が払う。ということは、つまり唯の奢りっていう意味だと考えてもいいのだろうか。
彼女の言葉を一テンポ遅れて理解した拓真は深く息を吐いて、財布からお金を取り出そうとする唯に待ったをかけた。
「ストップ。ここは俺が出すから、唯は出さなくてもいいよ」
「だ、ダメですよ! この前もクレープを御馳走になったのに、今回も奢ってもらうなんてことは……ここは、私が払います!」
「だーめ。俺、女の子に奢られる趣味はないから」
「で、でも! クレープのお礼もまだしてないのに、奢ってもらうわけには……!!」
両者一歩も譲らない、押し問答が続いた時だった。この様子を傍らで見守っていたおばちゃんが車内からズイッと身を乗り出し、こう言った。
「そうよお譲ちゃん。ここは素直に彼氏に奢ってもらいなさいよ!」
「で、でも……」
「……彼氏?」
唯の頭の中は、拓真に奢られず自分で支払うということで頭がいっぱいなのだろうが、彼が彼氏だと言われた内容にはまったく触れず、彼女はおばちゃんの言葉に戸惑う。
「アンタまだ若いから分かんないだろうけど、男の顔を立てるのも女の役目なのよ」
「そ、そうなんですか……?」
「そうなの! それと彼氏が奢ってあげるって言ってくれた時には、素直に笑顔で『ありがとう』って言うもんなのよ。その方が男の方も嬉しいもんなの。分かった?」
「は、はいっ!」
おばちゃんに肩を叩かれ一歩前に飛び出した唯は、おずおずとした様子で拓真の顔を見上げ、
「じゃあ……ありがとうございます。御馳走になりますね」
と、照れくさそうに笑ってみせた。微かに頬を赤めて照れる唯の姿に、自分の心臓がドクンと跳ね上がる。……この表情は、反則だ。
「おっ! お兄ちゃん。今、彼女に惚れ直したね」
「えっ? ち、違いますよ! というか、俺と唯はそういう関係じゃ――」
「顔を赤めておいて、何否定しているんだか。あーあ、若いっていいねー」
ケラケラと笑うおばちゃんは「私も昔はねー」と自分の若い頃の話を始め、彼の訂正に耳を傾けなかった。多分、恥ずかしさから誤魔化しているものだと思っているんだろう。
訂正する場を失ってしまえば、もうどうしようもない。拓真は仕方ないと溜息をつき、ドリンクの準備をし始めるおばちゃんの背中を見つめながら、焼き上がるワッフルの甘い匂いを鼻に感じた。
会計を終え、互いに二つのワッフルと一つのドリンクを手に持った拓真と唯は、未だに自分達のことを恋人同士だと思い込んでいるおばちゃんに見送られ、その場を後にして近くのベンチに腰を下ろした。
「なんか、さっきのおばちゃん、変わっていたな」
「そうですね。気さくというか、面白いというか」
「そうだな」
他愛のない話題を振りながら、拓真はとりあえず一口モカを飲んで心を落ち着かせる。さっきの高鳴った動機がまだ治まっていないからだ。
だがそんな拓真に対して唯はというと、幸せそうな顔でワッフルを頬張り、嬉しそうに食べている。さっきのおばちゃんの恋人同士発言も、自分が顔を赤めたという事実も、まったく気にしていないと言った素振りを見せる唯の姿に、拓真は自分だけ意識しているのが馬鹿らしくなり、乾いた笑みを浮かべて再度モカを一口飲んだ。
「……ワッフル、美味しいか?」
「はい! とっても美味しいです!」
「そっ。なら良かった」
唯の満足げな笑みに心満たされつつも、拓真も同じようにワッフルを食べてみて、その美味しさに納得する。
「――あっ。ところで……」
「ん?」
ワッフルを頬張っていた唯が、ふいに食べることをやめて、拓真の方を向いて声をかける。その眼差しはどこか真剣で、彼も食べることをやめて唯を見つめ返す。一体、なんだというのだろうと思いながら、拓真は唯の表情をうかがう。
「あの、しつこいかもしれませんが、クレープとワッフルのお礼の件なんですけど……」
「あぁ、そのことか」
唯は本当に律義な子なんだなと思いつつ、拓真はどう答えようか考える。
お礼――といっても、思いつくものは何もない。
唯自身、拓真に何かしたいという気持ちが大きくあるのは知っている。自分だって二回も奢られればさすがに相手に何かしたいと思うし、その気持ちは分かる。
だが、自身がお礼される側となれば話は別だ。気持ちは嬉しいが、特に何かをしてほしいとは思わない。しかも今回は自分の小腹満たしに付き合わせているわけで、お礼をしてもらう理由はないと思う。
だから唯のお礼がしたいという気持ちは嬉しいが、何がしてほしいかと言われれば、何もしてほしくはない。ただ単にお礼を言ってもらえれば、それでいいのだ。
けど唯は、それだけじゃ納得しないのだろう。
拓真は考えを巡らせ、唯と自分、両者が納得できる最善の道を探そうとした。
『漫画だとさ「みんなが幸せになれる方法が必ずある」って言う奴がいるけど、現実どうなんだろうね』
不意に、秋元の言葉が拓真の脳裏をよぎり、考える。
(……みんなが幸せになれる道って、あるのか? もしかしたらそんなものはないんじゃないのか?)
彼は言っていた。現実はどうなのか、と。
みんなが幸せになれる方法は、漫画の中だけの話なのか。それとも現実でも、みんなが幸せになれる方法があるのか。それは今考えても、拓真には分からない。
だから彼は悩んで、こうして今も答えを求め続けているのだろう。
「――ま、さん。……拓真さん?」
「――っ!?」
唯の言葉で我に返った拓真は、こちらを不安そうに見つめる彼女に「なんでもない」と言葉を返した。
それでも唯の不安そうな顔が変わることはなく、だから彼は、ある言葉をかけることにした。
「……そうだな。じゃあ、聞いてもらおうかな?」
「えっ?」
「相談にのってくれるか? クレープとワッフルのお礼に、さ」
「……はい。分かりました」
その時の拓真は恐らく、すごく情けない顔をしていたと思える。
答えの出ない悩みに悩んで、何かに縋りたくなるような思いになって、気弱な彼は唯に縋った。相手が見ず知らずの人間だと言うことは分かっている。
しかし、彼女に話せば何かが解決するんじゃないかと、そんな淡い期待が胸の中で生まれ、拓真は唯に話すことを決意した。
……本当に、弱り切った心で、情けない顔をして。
だが唯は何も言わず、話を聞いてくれると言った。優しく微笑んでくれた。そんな唯の優しさに拓真は背中を押され、言葉を紡ぐことにした。
互いに手に持ったワッフルを食べ終えた後で。モカとココアで一息ついた後、拓真は言葉を紡ぎ始めた。
「実は、さ――」
それを話の切り出しとして、ゆっくりと話し始めた。