手紙
里香が戻ってきたのはそれからすぐのことであり、朝礼開始を告げるチャイムが教室に鳴り響いた時だった。教室のドアから急いだ様子で俺の前の席に里香が座ると同時に、教室前方のドアから出席簿とチョークの入った白いケースを持った鬼頭が姿を現す。
鬼頭は生徒が席に着いた教室を教壇から見渡し――そして拓真と目を合わせた。
(あっ、やっべ……)
心の中で焦るも、もう遅い。鬼頭は冷たく鋭い視線で彼を睨みつけると、眉を寄せ拓真の方へと近づいてきた。
怒っている理由は分かっている、昨日の件だ。昨日拓真が吐き捨てた言葉が、今鬼頭を怒らせているのだ。
ここは素直に謝って事を穏便に済ませるのが得策なんだろうが、昨日の鬼頭の姿があの男と被ってしまったこともあり、どうしても謝罪の言葉が思い浮かばない。
こうなれば、説教を聞き流し最後に一言謝って済ませるようにしようと、頭の中で策を練った時だった。
近づいてきていた鬼頭が、拓真と翔太の間の通路に立ち止まり、着席している彼を見下す。睨む視線は更に鋭くなり、受ける方としては痛い。
鬼頭は不機嫌そうな顔で両腕を胸の辺りで組むと、舌打ちをし、そして、
「――っ!」
拓真を怒鳴りつける……ことはなかった。
(……あれ?)
鬼頭の声が聞こえない。声が出ていなかったのだ。
拍子抜けした拓真が唖然とした顔で鬼頭を見上げれば、鬼頭は目を見開いていた。
鬼頭自身も驚いたのだろう、自分の声が出なかった現実に。目を見開いたまま鬼頭は自分の右手をゆっくりと喉に当て、声を出そうと再度口を開く。
だが、聞こえるのはひゅーという息の音だけで、声は出ていない。口をパクパクと何度動かしても、声が聞こえることはなかった。
一体何があったのか。それは誰にも分からない。目の前の鬼頭はただただ口を動かし続け、発声しようと必死だが、鬼頭の声が誰かの耳に入ることはなかった。
「……あの。先生、どうしたんですか?」
「~~っ!!」
一部始終を見て不思議に思い、首を傾げていた里香が声をかけた時だった。
鬼頭は顔を真っ赤にして怒りを露わにするとそのまま背を向け、教壇へと戻る。そして荒々しくチョークを手に取ると黒板に『一時限目 歴史 自習』の文字を雑な字で音を立てて書き、出席簿とチョークを入れたケースを手に、教室を飛び出していった。
突然のことに驚く生徒達は呆気にとられていたものの、しばらくすると皆小声で話し始めて教室はざわつき始める。
「矢頭どうしたんだろうな?」
「さぁ? なんか声が出ないみたいだったけど、風邪かな?」
「矢頭が風邪って珍しいよねー」
ざわざわと騒がしくなる教室に身を置きながらも、拓真は一気に気の抜けた体を椅子に預け、深く息を吐いた。怒られると思っていたが、どうやらその心配はなくなったようだった。
(だけど一体、鬼頭に何があったんだ……?)
彼は鬼頭が去っていった教室前方のドアを見つめながら、ふとあることを思い出す。
『……この話はもう終わりだ。二度と俺の前で喋るな。いいな』
それは昨日、拓真が去り際に吐き捨てた言葉だった。
まさか、自分が二度と喋るなと言ったから、喋れないように声が出なくなってしまったのでは……。
(――って、んなわけないか)
考えた本人が言うのもなんだが、そんな馬鹿な話、あるわけがない。
喋るなと願っただけで声が出なくなるなんてそんな話、漫画やアニメの世界だけの話。現実にはありえない。大方普段から怒鳴り過ぎで喉を痛めて、声が出なくなっただけなのだろう。鬼頭ならあり得る話だ。
理由は定かではないが、今はそう思っていればいいだろう。
拓真は説教を免れたことに安堵の息を漏らし、笑った。
「拓真、今笑った。もしかして、何か先生に怒られるようなことしたの?」
「ん? あー……まぁ、な。けど、鬼頭には怒られなかったから別にいいだろ」
不安そうにこちらを見つめる里香に苦笑して見せ、彼は自習となった一時限目をどう過ごそうかと考えながら、教室内に目を向けた。
と、その時だった。
「あっ! 隼人、はよー!」
音を立てて開いた教室後方のドアから、いつものように白いタオルを頭に巻いた秋元が姿を現す。
秋元は時間的に遅刻していること知ってか知らずか、焦るそぶりを全く見せず、相変わらずの眠たそうな顔で登校し、声をかけてきた翔太に軽く手を振った。
秋元は大きな欠伸を漏らすとざわつく教室を気にも留めず、一番後ろの自分の席へと歩いて向かう。そして、
(……ん?)
不意に視線が翔太から拓真自身に向けられ、数秒間目が合う。
秋元は「あっ」と何かに気付いたような顔したが、すぐにいつもの眠気漂う表情に戻って、席に着くと同時にそのまま机の上に突っ伏して眠ってしまった。
秋元と視線が合ったのは自分の気のせいだろうか?
そのことを疑問に思いながらも、拓真はまぁいいかと視線を翔太と里香の二人に戻し、疑問はそのまま保留となった。
「――斎藤。ちょっといい?」
秋元に声をかけられたのは、二時限目が終わった直後の休み時間のことだった。
ジュースを買いに一階の自動販売機へと向かった翔太と里香の二人を、自分の席で一人待っていたところを、秋元が眠そうな顔で拓真に声をかけた。
(声かけられるなんて、珍しいな……)
翔太と秋元が話しているところは何度か見かけるが、拓真自身と秋元が話すことは殆どない。ましてや、話しかけることなんて二年と数カ月の間に数えるぐらいしかない出来事だろう。
秋元は空いている拓真の前の席――里香の席に腰を下ろすと、体をひねりこちらに向き直った。
「珍しいな。秋元が俺に話しかけてくるなんて」
「そうかも。まぁ、俺普段からあんまりクラスの奴らと話さないから、新鮮かもね」
それにいつも寝てばっかりだし。
そう言葉を続けた秋元は今も眠たいのか、大きな欠伸を一つ見せた。だったら寝ていた方がよかったんじゃないか、というのが拓真の率直な意見だった。
「そういえば翔太と東雲さんは? いつも一緒なのに今はいないね」
「あぁ。二人ならジュース買いに行っているんだよ。一階に」
「ふーん。……ま、ならちょうどいいか」
「ちょうどいい?」
耳に入った言葉に引っ掛かり尋ねれば、秋元は「うん」と頷いた。
「そっ、斎藤に聞きたいことがあるんだよね」
「俺に聞きたいこと?」
あまり接点のない秋元が聞きたいこととは一体なんなのだろう。
予想のつかない言葉に少しだけ身構えると、秋元は苦笑しながら「そんなに身構えなくてもいいって」と言うも、その直後に僅かに――他人に悟られない程度に僅かに細められた目つきによって、拓真自身の構えが緩むことはなかった。
そして、秋元はゆっくりと口を開く。
「あのさ。――昨日一緒にいたあの子、知り合い?」
「へ?」
あの子とは、誰のことを言っているのだろう。それに加え、一体何を自分から聞き出そうとしているのだろう。
訳が分からない拓真の心中を察したのか、秋元は「あぁ、ごめん。ごめん」と謝りながら補足説明を始めた。
「いや、実はさ。昨日バイトで休憩兼買い出しがてら外に出た時、自然公園の中通ったんだけどさ。その時斎藤のこと見かけたんだよね。――女の子と二人でいるところをさ」
「……あっ」
昨日、自然公園、女の子。と言われれば、思い浮かぶのは彼女しかいない。
――唯のことだ。
昨日の放課後。偶然自然公園で出会った、同い年ぐらいの金髪ツインテールの美少女。それが唯だ。会話をしたのはクレープを食べ終わるまでの間だし、その後自分はアルバイトがあってすぐに別れてしまったが、優しそうな女の子だったということを、彼はよく覚えている。
拓真が唯のこと――昨日一緒にいた女の子のことを思い出したのだと察した秋元は口を開き、
「で。その子と斎藤は知り合いなわけ?」
と、再度尋ねてきた。拓真は何故質問されているのか理解できないものの、とりあえず答えようと口を開いて言葉を発する。
「いや、知り合いじゃない。昨日偶然、たまたま出会っただけの女の子だけど。それがどうかしたのか?」
「以前街で目が合ったとか、そういうこともないんだ」
「いや。それもないけど……」
「……そっか」
拓真を問いただすことをやめると、秋元は僅かに俯き、見たことがないような真面目な表情で何かを考えだす。問われるだけ問われた身としては、何故そんなことを聞いてきたのか、その理由を聞かせてもらいたい。
そう思い、考え中の秋元に声をかけようとした時だ。
「あれ? 隼人じゃん。拓真と話しているなんて珍しいなー」
「……翔太、てめぇ……」
タイミングの悪い翔太が二本の缶ジュースを手に、横から会話に割り込む。
少しだけ憎悪を込めて睨んだところで、能天気の翔太に上手く伝わるわけもなく、翔太は「ん?」と首を傾げるだけに終わった。そんな態度をとられては更に睨む気も失せ、拓真は大人しく深い溜息をつくだけに留まった。
「――あ、じゃあちょうど良かった。自販機の当たり出た分、隼人にやるよ。はい!」
「おー。ありがとう、翔太」
右手に持っていた炭酸の缶ジュースを引き、左手に持っていたスポーツドリンクの缶を秋元に差しだす翔太。
拓真は自分の鞄から黒の長財布を取り出すと必要な百二十円の小銭を取り出し、翔太より少し遅れて戻ってきた里香に目を向けた。
「ただいまー。遅れてごめんね、拓真。二階で後輩の女の子に捕まっちゃって……はい、コーヒー」
「ありがとな、里香」
笑顔で手渡す里香に微笑み返し、コーヒーの缶と小銭を交換する。
その際、ふと里香のスカートのポケットからはみ出している淡い黄色の手紙が気になって、拓真は缶の蓋を開けると同時に率直に聞いてみた。
「なぁ、里香。そのポケットの手紙って、もしかして……」
「えっ? あ、うん。ラブレターだよ」
「ラ、ラブレター!?」
「……翔太。反応し過ぎ」
何の躊躇いもなくこの手紙がラブレターだとサラリと言ってのけた里香と、ラブレターの存在に過敏に反応する翔太。そして翔太の煩い声に片耳を塞ぐ秋元。三人三様の反応に苦笑しながら、拓真は缶コーヒーに口をつけた。
美人で優しい里香がラブレターを貰うことは、別に珍しいことじゃない。
むしろ、またかと笑って流したくなる話だ。どうせ里香は丁重にお断りをするんだと分かっているし、先が見える話に特別驚いたりはしない。……しかし、里香に好意を抱く翔太としては、これは一大事なのだろうが。
「それで? 誰から貰ったんだよ」
「後輩の女の子からだよ」
「じょ、女子から?!」
「……翔太。煩い」
女の子の里香が同性からラブレターを貰った。その事実に驚きを隠しきれない翔太は秋元に腕を叩かれながらも、里香をジッと見つめた。
慌てふためく翔太に、里香は困ったように笑って、そして……。
(……里香?)
一瞬悲しそうに目を伏せ、そしてポケットから取り出した黄色い封筒の手紙を翔太に差し出した。
「――はい、翔太」
「えっ……?」
「これ、翔太宛てだよ? 柏木先輩に渡して下さいって、後輩の子から頼まれたの。だから、ね」
「あ、ありが、とう……?」
里香から手渡された手紙を戸惑いながら受け取る翔太。目の前で行われた二人のやりとりを見つめながら、拓真は今、二人の関係に亀裂が入ったのを確かに感じた。
……誰も望まず、想像もしていなかった形で。
先程の賑やかな空気とは打って変わり、落ち着いた――否、静まり返った雰囲気がこの場を包む。
「可愛い女の子だったよ。茶髪で、目がくりっとしていて。睫毛も長かったな。あの子、きっとモテるよ」
「へ、へぇ……」
「……返事、ちゃんとしてあげなきゃダメだよ? この子、勇気を持って告白してきたんだから」
「――っ!」
里香の言葉に、翔太は言葉を詰まらせた。
「ちょっと翔太、聞いているの?」
「……お、俺……」
「ん?」
ラブレターを握りしめ、翔太は俯いていた。その顔を上げた時、翔太は――、
「俺……ちょっと手紙読んでくるわっ! いやー、ラブレターとかもう何年ぶりに貰っただろう。テンション上がるーっ!」
痛々しいほどのぎこちない笑みを見せた。
無理に気分を高めて、らしくない無理矢理な笑顔を浮かべて、翔太は自分を偽る。未開封の缶ジュースを自分の机の上に置き、翔太は顔も知らない相手からのラブレターを手に教室を飛び出していった。
あんな風に笑うのも無理はない。ラブレターを貰ったことに大した影響力はないが、問題はそれを代わりに手渡した相手だ。
翔太が好意を寄せている相手――里香が翔太に渡したという事実が、彼の心を抉ったのだ。
想い続けている相手から、自分に好意を寄せている他者からのラブレターを渡される。
しかも、ちゃんと返事を書いてやれ、相手は勇気を出したんだぞと後押しされてしまえば、いくら能天気な翔太でも、その行動がどういう意味を示しているのか察しがついたのだろう。
――里香にとって自分は、なんとも思われていないただの友達なんだ、と。
だから翔太は悲しくて、辛くて、この場を飛び出したんだ。
(だけど本当は……違うよな?)
見上げればそこには今にも泣き出しそうな顔で、翔太が去った方向を見つめる里香の姿があった。両手でココアの入った缶を握り、
「これで、いいんだよね……?」
とポツリと呟く彼女の姿に、胸が締め付けられるのが分かった。
おそらく人が良い里香のことだ。後輩の「手紙を渡してほしい」という言葉に押され、断り切れなかったんだろう。
そして頼まれた以上、後輩の女の子の気持ちを潰すような真似を心優しい里香に出来るわけがない。その二つの思いに、彼女は負けてしまったんだ。そして、自分の好意を胸の奥に仕舞いこんでしまった。
俯き、肩を震わせる幼馴染を前に、拓真はかける言葉が見つからなかった。こういう時は、なんと言葉をかければいい? どうすればいい?
考えている間にも時間は過ぎ、里香は徐々に目尻に溜まった涙を制服の袖で拭い、泣いていることを隠して拓真に振り返った。
「ごめん。なんか、コンタクトずれたみたい。……ちょっとトイレ行ってくるね」
里香はそれだけ言い残すと、振り返ることなく教室を出て行こうとした。
(このままじゃ、ダメだ……!)
二人の間に入った亀裂は、確実に何かを壊そうとしている。それは決して壊してはいけない何かだ。守らなければいけないものだ。二人の誤解を解かなければいけない。
そう思った瞬間、拓真は一歩踏み出して里香を呼び止めようとした。だが、その直後。言葉が詰まり、踏み出そうとしていた足が止まる。
――本当に二人の誤解を解いていいのか、と、心の中の誰かが囁く。
二人の誤解を解く方法はただ一つ。二人の気持ちを互いに伝えること。だがそうすれば二人は一緒になってしまい、今までの関係が壊れてしまう。自分が望んでいた“三人で”の関係が終わってしまうのだと、心は囁く。
さっきも思ったはずだ。その時自分は、ちゃんと笑っていられるのか、と。
その答えはまだ――出ていない。
拓真はピタリと止まってしまった体のまま、ただただ二人が去って行った教室後方のドアを見つめるしか出来なかった。
三時限目開始のチャイムの音を、どこか遠くに感じながら。