幕間
月隠の夜も明けようとするさなか、訪れた人の面立ちを見て、大后は御簾の内側からおや、と目を細めた。
「これはまた、めずらしい人がやってきたこと」
多少の皮肉をこめてそう言いやると、
淡い装束を身にまとったその人は、ほんの僅かに苦笑したようだった。
「見舞いに来るのが、そんなにおかしいですか」
そう応えたのは——御代を治める今上帝その人であった。
このところ公務が忙しく、屋敷を訪れることもなかったのは本当のことだった。
容体が思わしくないという噂を聞きつけたのだろうか、と内心思いながら、大后は御帳台のなかで彼を見上げた。
お忍びで来たのだろう。
気配を消し、姿は見せないものの、側には護衛の者が控えているはずだった。
大后が見守るなか、
帝は膝を折り、御簾の側近くでささやいた。
「玉かずらゆかりの姫君を、斎宮にするというのは本当ですか」
それが用件なのだと分かる口調だった。
朱雀帝——兄の寵愛を受けた白珠の更衣に、おそらく今上帝も、どこかで心惹かれていたのだろう。
大后は、それを知っていた。
だから隠したのだ。
このままではいけないと分かっていた。
息がどこまで続くか分からない——が、これも最後の機会だと思い、大后はゆっくりと語り始めた。
「斎宮にとは天の思し召しです。それを覆すことはできません。かの姫君は幼い頃、玉かずらとともに、社の蛇神が取り憑いてしまいました。そのため陰陽師は、姫君を迎え入れれば、天子に災いありとまで言ったのです」
「しかし……私があの姫君を求めていたことを、母上もすでにご存知だったはず」
「そなたの望み通りに姫君を入内させたら、朱雀帝の妃たちが黙ってはいないでしょう。今のあなたの正室——弘徽殿の女御や他の更衣達も、目くじらをたてるはずです」
その様を想像したのか、
帝はしばらく何も言わなかった。
大后は、白珠の更衣の姫君を守るのと同時に、今上帝の懸想を断ち切る必要があった。
結局、姫君を遠ざけたことにより、その思慕はかえって募ってしまったのだが——
陰陽師の言う災いが何であるにしろ、朔姫を今上帝の側近くに置くのは避けたかった。
女御や更衣のなかには、朱雀帝が早くに崩御したのは、並々ならぬ寵愛を一身に受けた、白珠の更衣のせいだと口さがなく腐す者も少なくなかったのだ。
長い沈黙の後、
心を決めたのか、帝は口を開いた。
「では、黙って事の成り行きを見ている代わりに、ひとつ約束してくれませんか」
大后が頷く気配を察したのか、帝はふいに強い口調で言った。
「そろそろ『月読』と呼ばれる者たちを、、宮中で暗躍させるのはやめてくれませんか。朱雀帝は、確かにお身体が弱かったため、母君の後ろ盾は頼もしかったのかもしれませんが、私の代では必要ないでしょう」
大后は、ゆっくりと微笑んだ。
「いいでしょう。でもひとつだけ、条件があります」
息が辛くなるのを押し隠して、
大后は、それでも気高く匂いたつ声で言った。
「梧桐の宰相という方がいるでしょう。その方を、次の除目で重用なさい。彼は頭がきれる。ゆくゆくは、そなたの右腕として、政を補佐してもらうのです」
思わぬ推薦に、帝は少し驚いたようだった。
「それはかまいませんが……それならば、一の皇女の降嫁を呑んでもらわないと」
一の皇女とは、今上帝が弘徽殿の女御に産まわした姫の名だった。
「そなたは……まだあきらめていなかったのですか」
「あれほど優美で、才覚のある者はいないでしょう。姫にも良い後ろ盾になる。大体、梧桐の宰相は、誰も妻を娶らないという誓いでもたてているのですか」
その言葉に、大后は御簾の内側で笑ったようだった。
「それはまた今度、聞いておきましょう」
***
彼らがそんな話を交わしている頃——
口の端にのぼった梧桐の宰相は、朔の不在を知って、月影神社に馳せ参じたところだった。




