月見の宴
月見の宴は、先月開かれる予定が雨で中止になり、楽しみにしている人も多かったのだろう。
南殿に玉座と御座所がもうけられ、主上が見守るなか、すでにたくさんの人が袖をつらねていた。
箏の琴や和琴の音が響き、その調べにのって、漢詩や月にまつわる和歌が詠まれていく。
真雪は、まわってきた盃を受け流すと、南殿の前から人気の少ない方へ、ひとり歩みだした。
月がくまなく清涼な光を降りそそいでいる。
それを愛でる月見の宴なのに、一刻も早く欠けてほしいと願っているのは自分だけだろうと、真雪はおかしくなった。
宮中の遊びに興味がもてないのは、何も今に始まったことではない。
それなのに、笑いさざめく人々の輪に入っていけないことが、ことさら自分の欠陥のように思えてくる。
ここで奏でられる楽の音色は、きっと朔姫のいる場所まで届いているだろう。
そんな想像が浮かんでくるにつけても、ぼうっとしてしまい、集まった人々と話す気にもなれない。
その様子を見ていた人がいたのか、真雪のもとに近づく人がいた。
真雪が気配に気づくと、薄色の直衣をまとう、その人は微笑んだ。
「誰かと思えば、あなたは弓の名手で有名な方ですね。こういう場所には滅多に来ないので、よほど人嫌いなのかと思っていました」
皮肉にも聞こえない明るさでそう言われ、真雪は——どこかで見覚えのあるように思ったが、とっさに分からなかった。
その困惑を見てとったのか、その人はもう一度言った。
「今年初めの賭弓で、惜しくも私は負け方になったので、覚えているんです。
私は右馬頭の景清と申します。あの日の弓は、本当に見事でした。
ひそかに負け方の仲間内で、弓の佐と呼ばわしたくらいです」
その命名に、真雪は苦笑した。
そして、なぜこの人物に見覚えがあったのかも思いだした。
以前、照臣の屋敷で開かれた花の宴で、チラリと見かけたのだ。その時も真雪は終わりがけ寄っただけで、すでに殆どの人が退出していたのだが。
気兼ねしなくていい相手だと知り、真雪はふと打ち解けてみる気になった。
「出不精がたたってしまい、人の見分けもつかなくなってしまった。ところで、梧桐の宰相という方はいらっしゃるのかな」
ちょうど照臣の噂話を聞いていたのもあって、真雪は口にした。
ほんのたわむれに口にしたつもりだが、景清は打てば響く速さで言った。
「今、上座で扇を持っている、濃き紫の直衣を着ている方がそうです。あの方は不思議な妖艶さがあって、女君だったらと思う人も多いそうですよ」
照臣の話からどこか偏屈な人物を想像していたが、景清の方を見ると、確かにここから見ても物腰がやわらかく、優美な印象だった。
檜扇をかざしている動作のひとつひとつに品があり、奥ゆかしいとはこういう人のことかと思い知らされる気がする。
主上が掌中の球と育てている皇女をご降嫁したいと思うのも、納得できる気がした。
話し足りないのか、景清は続けて言った。
「これは誰にも言っていないことなのですが、明け方、左兵衛府の辺りから出て来られるのを偶然見つけたのです。
誰かと逢い引きするには不自然な場所ですし、それに皇女すらお断りになった方がと思いますが、あれは確かに梧桐の宰相でした」
真雪は、思いがけないことを聞いた気持ちがした。
左兵衛府ーーといえば、今朔姫が隠れている辺りだ。
それに照臣によれば、梧桐の宰相は、誰かに並々ならぬ愛情をかけているという。
ふたつの話を比べあわせながら、真雪はつとめて何でもなさそうに言った。
「それは、いつ頃の話」
「ほんの数日前。お見かけした時は、本当に意外な気がして、女たちにも見た者がいたようでした」
朔姫が御所に移ったことを知っていて、その世話をしているのなら、『月読』の息がかかった者だろうか。
真雪は気取られぬようにもう一度梧桐を見たが、これまで独身でいたのがもったいない程の容姿で、隠密などとはかけ離れて見える。
主上からの信任も厚いというのだから、それは何かの間違いなのかもしれない。
ーーしかし。
胸騒ぎがして、真雪は疑いを消すことができなかった。あまり見ているのも失礼にあたるだろうと目線をそらしたが、疑惑がふくらむ程、上座の様子が気になって仕方がない。
もしも梧桐が朔姫のもとに通っているのなら、とても自分に勝ち目はないだろう。
正式に誰かのものになる前に、ひと目姿だけでも見ておきたい。
ーーそこまで考えて、真雪は自分を蔑みたくなった。
いつからこんなに身勝手になったのだろう。
朝霧の言うように、今は身を清めているさなかかもしれないのに。
南殿からは横笛の音が細く聴こえてくる。
景清は、秋の除目の話をしているようだったが、真雪は今し方の話に心を惑わされ、聞き流してしまうばかりだった。




