表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朔姫  作者: 星 雪花
3/56

大炊君の屋敷


細い日差しがまぶたにあたるのを感じて、朔は知らず、身をよじらせた。


ーー早く起きないと、美袮に叱られてしまう。日が昇る前にちゃんと起きないと、立派なお姫さまになれませんよって。



その文句が、頭から離れない。

寝坊する度にそう言われるのだから、無意識に覚えてしまうのも無理はなかった。


朔がやっとのことで少しずつ目を開けると、しかしそこは見慣れた部屋ではなかった。



綺羅を張った几帳は日差しを透かして黄金(きん)に光っている。

夜具にくるまったまま、朔は数秒間、自分がどこにいるのか分からず困惑した。

ぼんやりしていると、頭の片隅に昨日の出来事が徐々に浮かんでくる。


誰かと一緒に牛車に乗り、夜道を揺られていたことは覚えていた。

だが、緊張の糸が切れてしまったためか途中で眠ってしまい、その先は何も思いだすことができない。


ーー確か私は連れだされたんだ。そう、確か、アヤメという人に。




「お目覚めですか」


急に声がして、

朔は思わずその身を震わせた。


ふりむくと、薄紫の藤がさねの小袿に袴姿の女性が、簀子(すのこ)榑縁(くれえん)の端に立っていた。

昨夜は鼻元まで顔を覆っていたため印象がまるで違うが、声の感じで同じ人だと分かる。


アヤメは、几帳の前でそっと片膝をついた。

音のしない、静かな挙措だった。



「よくお休みになられたようですね」


「ここはどこ」



見れば、榑縁の先には庭園が広がっている。

調度品も、朔に合うものが既に整えられ、兼ねてから迎え入れる準備がされていたことが暗にうかがえた。


不審気に問うと、アヤメは微笑んだ。



「ここは、大炊(おおい)君さまのお屋敷です」


「大炊君、さま……?」



聞きなれない名に眉をひそめると、アヤメは微笑みを深くしたが、ここで詳しく話す気はないようだった。



「朝餉をすぐに持って参ります」



そう言って素早く退出する後ろ姿を、朔はただ声もなく見送った。


今更、側近くに美袮のいないことが不安に思えてくる。

そんなことではだめだ、と思おうとしても、自分の状況がまるで分からないのだから、仕方ないとも言えた。




朔には、幼い頃の記憶がまったくない。


気づけば、

朔は、乳母の美袮と数人の侍女と共に、あの屋敷でひっそりと暮らしていた。

周りにあるのは雑木林と竹林、ススキの生い茂る野原くらいだったが、静かで気持ちの良い住み慣れた場所だった。


ずっと、あの場所で暮らすのだと思っていた。


いったい、何が変わったというのだろう。

私は全然何も変わらないのに。

数え年で十五になっていても、朔は何も知らない少女のままなのだ。


唯一、

美袮に聞いて朔が知っていたのは、

自分の父と母は、もういないという事実だけだった。



ーーあなたの母上が高貴な人だったので、あなたはお(ひい)さまと言われるのですよ。



美袮にそう言われても、朔は別段うれしいと思わなかった。

朔はただ、見慣れた場所で平穏に暮らせれば、それで良かったのだ。それを奪ったのが「お姫さま」という自分の身分なら、強要されたくないくらいだった。




ーー十五になれば、「月読」が迎えに来ます。



美袮にいきなりそう告げられた時、

朔は、世界に対してあまりにも無防備な自分を感じた。


今まで、何も知らずに過ごしていた自分が、やけに不憫な存在のように思え、その次に胸に湧いたのは、諦念に似た虚しさだけだった。




ーー本当は、あの場所にとどまっていたかった。望んで出てきたわけではなかったのに。






朝餉の粥を携えたアヤメが現れると、朔は幾分、逡巡しながらも尋ねた。



「なぜ私をここに連れてきたの」



アヤメは朝餉の折敷(おしき)を並べ終えると、朔を正面に、しっかり見つめて言った。



「それが、かねてからの約束だからです」


「誰と誰の約束?」


「白珠の更衣さまと、大炊君さまの」




ーー白珠の更衣さま。



朔は、

一瞬、意識が遠ざかるような錯覚を感じ、まわりの温度がスッと下がる気がした。

その名を直に聞いたのは久しぶりのことで、前がいつだったかも判然としなかった。




「お姫さまが望まれるなら、いつか大炊君さまにも会えるでしょう」


「でも、このお屋敷にいるのでしょう」


「大炊君さまは神出鬼没でいらっしゃるのですよ。我々でさえ、その居所をつかめないこともあるほど」



朔は少なからず、驚きを隠せなかった。



ーー十五になったら「月読」が迎えにくる。



その約束を交わした当人に会えない事態など、想像しなかったのだ。



「私はここで、何をすればいいの」


「まずはお身体を休められることです。環境が変わって、お疲れでしょうから」



そのまま下がろうとするアヤメを、朔は呼びとめた。



「アヤメは、母さまのことを知っているの」



アヤメはにこりと口の端を持ち上げたまま、その質問には答えなかった。



「朝餉を召し上がった頃、また伺います」



アヤメが退出すると、

目の前には整えられた御膳だけが残った。




ーー私、ここで何をしているんだろう。




『白珠の更衣さま』




それが母の通り名であることを、朔は知っていた。



ーーこれが本当に、ここの主人と母さまの約束なら、いずれこの場には来なければいけなかったのだろう。



問題は、それが何故なのか分からないことだった。



ーーどうしてそんな約束があるのだろう。



繰り返し考えても、答えは出なかった。



どちらにしろ、選択肢は自分のなかに残されていないのだ。

そう思うと、不当な怒りが初めて首をもたげた。



ーーここの主人に会う機がないのなら、長居する理由もない。



もとの場所に戻れるかは大分不明だが、アヤメに聞き入れてはもらえないだろう。


それならば、みずから抜け出すしかない。



お腹が空いては、気持ちもくじけてしまう。


朔は、うるし塗りの椀を取り、そのひと匙をそっと口に運んだ。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ