女童
小萩もその気配を感じたのか、今では様子を窺って身を固くしている。
明け方、あれだけほの暗かったのが、嘘のように明るい。
これでは御簾を上げれば、すぐに入れ替わりを悟られてしまうだろう。
——が、牛車が停まった後、
ありがたいことに、アヤメはこちらを覗こうとしなかった。
「私は少し、ここを離れます。使いの者が来るまでここにいて下さい」
慌ただしくそう告げた後、
アヤメは本当に離れたようだった。
窓を覗くと、
どこかの屋敷のなかのようだった。
築地塀に隔てられてはいるが、大通りの喧騒が聞こえてくる。
今更になって、大胆なことをしている実感が湧いてくるのだから不思議だった。
小萩の方も同じ気持ちらしく、不安のためか顔を青くしている。
意気込んではいても、朔より年下の少女に過ぎないのだ。
付き合わせてしまったことを少しだけ悔いていると、
簾の外から高い声がした。
「おひいさまは、いらっしゃいますか」
聞きなれない、澄んだ声音だった。
小萩は、朔を窺うように一瞬目配せした。
朔は頷いた。
こういう時は、侍女が答えるべきところなのだろう。
朔は、一拍置いた後に言った。
「あなたは誰ですか」
「この屋敷に仕える女童です。おひいさまをお連れするように言われましたので」
朔はもう一度小萩の方を見ると、ほんの少しだけ、簾を引き上げた。
そこにいるのは、薄紅色の袙を着た少女ひとりだった。
朔を姫君の侍女だと見て取ったのか、朔を認めると、女童は安堵したようだった。
「狭い曹司ですが、どうぞおいでください」
「アヤメ……狩衣を着た従者は、どこへ行ったのですか」
その問いかけに、
女童は心持ち首を傾げた。
多分何も知らされていないのだろう。
だが、今ここにアヤメの姿がないことは幸いだった。
朔は、奥にいる小萩に耳打ちした。
「アヤメはいないみたい。立つことはできそう?」
ずっと座っていたせいで、朔も足がすっかり痺れていたのだ。
小萩は、慣れない袿を体に重く感じているだろう。
でも今は姫君なのだから、動作は寧ろ遅い方がよかった。
朔が踏み台を使って下に降りると、裾を引きずりながら、なんとか小萩も降りることができた。
「どうぞ、こちらへ」
女童に先導されるまま渡殿をつたっていくと、
ほどなく庭に面した部屋に通された。
大炊君の屋敷ほど広くないが、隅には屏風が置かれ、風通しよく御簾は巻き上げられている。
大炊君の屋敷はどこか閉塞感があったのに比べ、この曹司は、狭くても外を見渡せる清々しさがあった。
「ここはどなたのお屋敷なのですか」
アヤメに何も聞かされていないため、勝手の分からない朔は女童に尋ねた。
「昔、宮仕えをされていた方のお屋敷です。その方はおひいさまに会いたがっています。長旅でお疲れだと思いますが、会ってもらえませんか」
朔は、俯いたまま不安げにしている小萩をそっと見る。
小萩も、いつもと違う状況に戸惑っているのだろう。
始めたのは、朔だ。
朔は、思い切って口にした。
「姫君は、慣れない旅でとてもお疲れです。私でよければ、その方とお会いします。それではいけませんか」
女童は軽く頷いた。
「それではそう伝えてみますので、ここでお待ち下さい」
女童が行ってしまうと、
先に大きくため息をついたのは小萩の方だった。
「私、もう朔のふり限界かも。この袿が重くて仕方なくて。お姫さまも、けっこう大変ね。私は動きまわって働いている方が、性に合ってるみたい」
何も話せないのもストレスになるのだろう。
小萩は、一気にそう言って天井をあおぐ。
そうしていると、無理をしているのがはたから見ても分かる態度だった。
朔は言った。
「ここの主人の人の話を聞いてみる。たぶん、アヤメはすぐには戻ってこないような気がするの。ここが安全だから、アヤメもこの場をはなれたんだと思う。話が終わったら、着物を取り替えるね」
もう少し『小萩』のままでいたかったが、どのみちアヤメが帰ってこれば、この変装も何の意味もない。
少しのあいだ欺ければ、何とかなると思っていた考えが甘かったのだ。
でもここに、小萩がいてくれてよかった。
そういう思いで見返すと、小萩は少し申し訳なさそうだった。
「もっとこのままでいられたらと思うけど、慣れないことはやっぱりするものじゃないって分かった。いずれお互いボロがでてきちゃうし。
ここの主人っていう人、もしよければ私が会ってみるけど、ひとりで大丈夫?」
小萩も心配しているのだろう。
朔は首を振った。
「宮仕えをしていた人なら、もしかしたら小さい頃の私を知っている人かもしれない。そんな予感がするの。だから侍女のふりをしていた方が、色んな話を聞けるような気がして」
そんな話のやりとりをしていると、
足音がして、先ほどの女童が簀子縁を通してやって来た。
「お方さまが会われると言っています。ついてきてくれますか」
女童は、朔に対して言った。
朔は小萩に目配せすると、頷いて女童の後に続いていった。




