朔
山たかみ 峰のあらしにちる花の
月にあまぎる あけがたの空
『新古今和歌集』
塗籠の戸がそっと開けられた時、朔はおびえて身を竦ませた。
ーー来るべきものが、ただやって来ただけだ。
朔は知らず両目を一度つむり、深く息をして呼吸を整えた。
人払いは、もうすませてある。
どんなに心細くても、供人を連れて行くことはできないのだ。
美袮に何度も言い含められ、それを承知していたはずなのに、今更その現実が身に沁みた。
『お姫さまのために、そうするのですよ』
それは、一年前から美袮の口癖だった。
しかし、朔には言い訳がましい言葉に思えてならなかった。
厄介払いできるという意味のように。
几帳の隙間で息を殺していると、音もなく長身の人物が姿を現した。
鼻元まで紫紺の覆面をしており、その表情を読み取ることはできない。
朔が何も言葉を発せられないでいると、相手は敏捷な動きで片膝をつき、朔と視線を同じくして言った。
「お迎えにあがりました」
その声からして、
相手は年若い女性のようだった。
そのことに少なからず、朔はホッとする。
美袮の言い方では、迎えが男性か女性か分からなかったのだ。
いくらそれが定めなのだとしても、見ず知らずの男性に連れて行かれるのは気が進まない。
「初めてお目にかかります。アヤメと申します。以後、お見知りおきを」
灯盞の火影がゆらめく。
低頭したまま名乗る相手に対し、朔は、聞き及んでいた名前を口にした。
何度も何度も、聞かされていた言葉を。
「あなたが、『月読』なの?」
アヤメは、わずかに微笑んだようだった。
その気配が分かる口調で言った。
「私は、組織の末端に過ぎません。今まで、よくご辛抱されました。お姫さまのことは、我々が命に代えてもお守り致します」
ーー命に代えても、ね。
それが本心なのだとしても、朔は別段それを望みはしなかった。
ーー私がそうまでして護られるのは、私を手に入れようとする誰かの思惑が、そこにあるからだ。
それは全然、朔の意志ではない。
そもそも守られる、というのが意にそぐわなかった。
せっかくここを出ていけるなら、もっと他の、違う場所へ行きたいーー
そこまで考えて、
朔は、自分に行きたい場所がないことに気がついた。
それなら、この者につられて行くのも、何ら変わりはないことなのかもしれない。
「外に車が用意してあります。月のない晩ですから、お足元にどうぞご留意下さい」
朔は、アヤメに手をとられ立ち上がった。
表に出ると、
月のない分、星のまたたきが冴える晩だった。
ーーここを出て行くことすらも、私の意向ではない。
そう思うと、得体の知れない空虚さが胸を覆った。
ここで過ごした記憶をたぐりよせようとしても、思いだせるのは最近のことばかりだった。
美袮が繰り返し、自分に聞かせた言葉。
朔は目をつむる。
目の前が、名前のない闇に覆われると、
やがて牛車はゆっくりと動き始めた。