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3 カンヴァス

 真夜中、工房あとりえの狭い寝台に横たわっていると、光の届かない部屋の隅から絵の具職人の視線を感じるような気がしました。

 ふとした時に目に入る、床のしみや柱の傷に、一つ一つ友とのやり取りを思い出します。

 そうした思い出に叱られるような気持ちで、ますますお酒が増えました。


 もちろん、画家には分かっているのでした。

 いるかもしれない友の姿など、ただの画家の願望です。他でもない自分が、彼の死をみとったのですから。

 だから、暗闇の中に立つ絵の具職人は、何も言わないのだと思いました。友が何を思って死んでいったのか、今の画家にはまるきり分からないのですから。


 「絵の具のための絵」とは、一体何でしょう。

 「絵のための絵の具」とは、一体どういうことでしょう。

 娘の肌を望まぬ白で塗ったあの日から、画家は自分の絵のために絵を描いたことなどなかったような気がしてきました。


 たとえ、どんなに高値で売れた絵も。どんなに傑作と呼ばれた絵も。

 小手先の、うそっこの、うすっぺらい皮一枚の、価値のない絵のように思えたのでした。

 そうして、そんなつまらない絵ですら描けない今の自分を悔しく、情けなく感じました。




 朝が過ぎ昼になり、目が覚めると、また何も出来ない一日を過ごさねばならないのかと、画家は絶望しながら寝台を出ます。

 そうして、画布かんばすの前に座ることさえ出来ず酒を飲み、天井が回って床に転がったところで夜が来て、寝台に戻るのです。

 張り直されないままゆるんだ画布かんばすですら、自分をあざ笑っているように思いました。

 酒瓶を抱えてを眠りにつく時だけが、ひとときの救いでした。




 ある昼間、工房あとりえ中の酒を飲みきってしまったことに気付いた画家は、仕方なく市へと出かけました。

 馴染みの酒屋に金を投げ渡し、抱えられるだけの酒瓶を抱えて工房あとりえへと戻ろうとしたとき、道の向こうから歩いてくる一団を見付けました。


 それは、ぐうぜん実家を訪ねていた、かつての富豪の娘でした。

 今や領主さまの息子は成長して領主さまとなり、娘はその奥方となっていました。奥方は、かっぷくの良い身体を揺すりながら、家臣を引き連れて画家の横をすぎていきました。


 画家が描いた娘とはまるきり変わってしまった奥方を見て、画家は驚きました。

 あんなにこだわった肌の白さも、あのとき感じたうつくしさと同じ色だとは思えませんでした。

 画家は行き過ぎる奥方の背中を最後までながめてから工房あとりえに戻り、久々に画布かんばすの前に座りました。

 そうして久しぶりに画布かんばすを張り直し、どしりと太った奥方の姿を笑いながら描き散らしてみました。


 画家は、奥方の姿を笑ったわけではありませんでした。

 あれほど主題もちぃふをよく見て、筆をこらしてうつくしく描いたはずのあの時の絵が、今も変わらぬ奥方のただひとつの美点を、全く描けていなかったことに気付いて笑ったのでした。

 それは、奥方のまなざしでした。

 ふくらんだほほに囲まれたつぶらな瞳は、以前のとおりの賢しげな光をたたえていたのでした。


 画家は、愛嬌のある奥方の顔をしばらく見つめると、今度は自分自身の顔を描き始めました。

 動きの鈍い筆先を叱りつけながら手を動かし、黄色くにごった小ずるい目と、つかれてゆるんだ口をした、どこかにやけたひげまみれの男の絵を描きました。

 そうして、見下ろした自分のひげの中に、白いものがちらほらと混じっているのを見つけました。

 画家は、くすりと笑って、絵の中の自分にも白いひげを足しました。

 友の持ち帰った、あの白を使って。




 絵が完成した夜、久々に夢を見ました。

 絵を描くことに一生懸命になっていたので、お酒を飲んでいなかったからでしょう。

 夢に出てきたのは、かつてと変わらぬ友の姿でした。

 画家の背中ごしに、画布かんばすをながめていた友が口を開きます。


「おい、あんた。ずいぶん情けない姿だな」

「仕方ないよ、それが今の僕だ」


 頭をかきながら、画家は答えます。


「似ているだろ。久しぶりに描いた絵にしては上出来だ」

「そうだな」


 うなずいた友の穏やかな声を聞いて、画家は、のど元でうなりたくなりました。

 これは絵の具職人の言葉ではないと分かっていたからです。

 友がどんなに優しくても、夢は夢です。画家が望むとおりに進むだけの、ただの夢です。


「夢に向かって言うのは嫌だったんだけど、僕は本当は謝った方が良いんだろうね」

「何をだ」

「君の持ちかえってくれた絵の具に、ふさわしい絵を描けなかったことをさ」


 絵の具職人はしばらく黙り込みましたが、少ししてから画布かんばすを見たまま答えました。


「俺は、この絵の具にふさわしい絵を描けなんて、言った覚えはないな」

「もちろん覚えてるさ。でも、僕が勝手に悪いと思ってるんだ」

「そうか」


 そうして、またしばらく黙り込んでから、たずねました。


「悔しいか」

「悔しいよ」


 絵の具職人はもうそれ以上しゃべりませんでしたので、画家は一人で口を開きました。


「僕は、君のくれる絵の具に応えられるだけの絵描きだったつもりだった。でも、本当は全然そんな人間じゃなかった。この絵の通りの、薄汚い、どうしようもない、平凡以下の凡才だった」


 絵の具職人は答えませんでした。

 だから、画家は一人で先を話しました。


「分かってるつもりで、何にも分かっちゃいなかった。出来てるつもりで、何にも出来てやしなかった。だから、多分、今も知ったつもりで、ほんとは何にも知っちゃいないんだと思う。……けど」


 絵の具職人は黙って画家を見ていました。

 画家もまた、絵の具職人をまっすぐに見ました。

 友の目のかがやきはなつかしく、やっぱり昔のままの温かさに見えました。


「君の絵の具を使わせてほしい」


 絵の具職人は黙って画家を見ていました。

 そうして一つうなずくと、画布かんばすをまじまじと眺めました。


「絵の具を作った。あんたにやった。それは俺の意思だ。そこに許しはいらない」


 夢の中で絵の具職人がそう答えることが、画家には分かっていました。

 そして、これがもしも現実だったとしても絵の具職人はそう答えるだろうと、画家にもとっくの昔に分かっていたのです。

 かつての友がかすかに笑ったような気がしましたが、それもやっぱり自分がそう思っただけなのでしょう。それでも良いと思ったので、画家もまた、ひっそりと笑いました。

 夢の中では、許すのも許されるのも、自分しかいませんから。




 差し込む朝日で目が覚めた画家は、立ち上がってすぐ、埃の積もった画帳すけっちぶっくを床から拾い上げました。

 片手に画帳すけっちぶっくを抱えたまま、空いた片手でせわしく顔を洗いました。

 それから、机に転がっていた黒炭を一つ拾って、工房あとりえを飛び出しました。


 画家の知らない世界が、工房あとりえの外にどこまでも広がっていました。

 そうして、その大きな世界を少しだけきりとるのが、画家の画布かんばすなのでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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