2 結晶
画家は工房で絵の具職人を待ちました。
一週、二週、三週。安息日が三回めぐります。
絵の具職人はまだ戻りません。
旅立つ前に、絵の具職人が用意しておいた顔料は、とうに尽きました。
一月、二月、三月。月が三回満ち欠けしました。
絵の具職人は、まだ戻りません。
富豪からは何度も督促の手紙が届き、娘の絵はまだかとたずねます。
一年、二年、三年。新しい年を祝う祭りが、三度とりおこなわれました。
それでも、絵の具職人は戻ってきませんでした。
画家は、絵の具職人の帰りを待つのを止めました。
これだけ待っても便り一つないのは、きっと旅の途中で望みのものが手に入らずに諦めてしまったからだろうと思ったのです。
だから、富豪から言われていたとおり、娘の絵を完成させることにしました。
どうしても肌の光が違っているように思えましたが、他にやりようはありませんでした。
三年の間に上達した絵の具作りの技を使って、自分で作った白をもって、娘の肌を塗りました。
渡された絵を見て、富豪は大満足、娘は大はしゃぎしました。
それほど、絵の中の娘は健康で、賢そうな目元をしたうるわしい娘だったのです。
娘の絵は、すぐに領主さまの息子へと届けられました。絵を見た息子は、早々に娘との結婚を取り決めました。
そうして、これをきっかけにして、画家の名声が街中に広がり始めました。
客から客へ、口づたいに画家の評判は広まり、次々に絵が売れるようになりました。
生活に困らなくなった画家の元へは、見習い画家も弟子入りし、絵の仕事を仲介する画商も出入りするようになりました。
人が増え手狭になった古い工房を出て、画家は、街の中心へ新しい工房を構えました。
絵の具職人が旅立ってから五年が過ぎました。
工房の中央で絵を描いていた画家の元に、顔料を求めに出ていた弟子の一人が帰ってきました。
「市を歩いていたところ、道端であなたを探している者がおりました」
「依頼人かい?」
「いえ、とてもあなたに絵を依頼する金があるようには見えませんでした」
「では、どんな者だろう」
「汚らしい旅人です。タカリのようなものでしょう。この国にない新しい白を、あなたに渡したいと言っていました」
「なるほど」
名をあげた画家の元に、自分の買い付けた顔料を試せと売り込みにくるやからは多いのです。
画家はいつものことだと考えて、弟子の話は忘れてしまいました。
一週間が過ぎ、再び市から戻ってきた弟子が、画家に伝えました。
「市で、あなたを探している者を見かけました」
「依頼人かな?」
「いえ、汚らしい旅人です。よその国から新しい白の顔料を持ってきたのだと」
「なるほど」
いつものことです。画家はすぐにそんな話は忘れてしまいました。
一月が過ぎ、市に行っていた弟子が戻ってきて、画家に言いました。
「市では、あなたを探している者がいました」
「新しい依頼かい?」
「いえ、そういう風体ではありません。旅の果てに『自分の白』を見付けたと言いました。あなたもまた白を探しているはずだと話しておりましたが……笑い話にもなりません。あなたは自分で思い通りの色を出す方法を知っているのに」
「なるほど。待てよ」
弟子の言う通り、画家は、もう新しい白の顔料など探していませんでした。
でも、そう言ってこの街へ戻ってくる男がいるはずだということにようやく気付いたのです。
冷や汗を流してしばらく迷い、しかし結局は無視できずに、弟子に言いつけました。
「その男を工房に案内しなさい。それはもしかしたら……知っている男かもしれない」
画家の言葉を受けて、弟子たちは市へと急ぎました。
そうして、今にも倒れそうなほどくたびれきった旅人を、工房へと案内してきたのです。
画家の目の前に連れてこられた男は、ボロ布をまとったひげもじゃで、かつての絵の具職人のおもかげなどどこにもありませんでした。
それでも、ひとたび彼と目が合った途端、画家はそれが自分の友人であることに気付きました。彼の目の優しい光だけは、ちっとも変わっていなかったからです。
「君……戻ってきたんだね」
「ああ、俺の白がようやく見付かったから」
「白か……。いや、そんなことより、君はずいぶんやつれているじゃないか。少し休みたまえ」
「いいや、時間がない。これを受け取ってくれ」
ふるえる手で差し出されたのは、赤みがかって透きとおる、画家のこぶしと同じ大きさの結晶でした。
画家はうす汚れた結晶をおそるおそるつかむと、絵の具職人に尋ねました。
「これは」
「海を渡った東の国で採れる石さ。これを砕いて粉にして、油に混ぜると、それはつやのある白になる」
そうして絵の具職人は、油に溶くときの注意を早口で言い残すと、安心したようにほっと息をつきました。
「ようやくあんたに渡すことができた。これで、俺は思い残すこともない」
力を失って床に倒れかけた身体に、画家はかけよって、弟子の手からうばいとるように支えました。
嬉しそうにほほえむ友の顔を見ていると、自分はもう白を探していないのだなどと、娘の絵はもうとっくの昔に完成してしまったなどということは、とても言い出せませんでした。
「必ずこの白を使って、すばらしい絵を描くよ。僕と君の名が永久に残るようなすばらしい絵を!」
絵の具職人は首を振り、そうして少しだけ画家の手にふれました。
「絵の具は、絵のためにある。絵の具のために絵を描くな」
最後の力をふりしぼってそう言い残すと、絵の具職人はぱちりと目を閉じ、そのまま静かに息を引き取りました。
その日から画家は、一日中、画布の前に座るようになりました。
友人の命に見あう絵を描かねばならないと、うんうんうなって頭をひねりました。
もらった結晶から作った白は、それは伸びやかな美しい白です。この白を活かすためにどんな絵を描こうかと、色々な主題を描きかけては、これではないと画布を塗りつぶしました。
弟子たちも画商も、素晴らしい絵の具と久々の大作の予感に、大喜びで画家を応援しました。
ですが、画家の絵は、少しも進みませんでした。
段々と、画家は、画布の前に座ることが辛くなってきました。
調色板の上で輝くような白は、画家に何かをうったえかけているように思えてきました。
東国までいちずに結晶を求めた友を思うと、何もかも忘れ画伯気取りであった自分が、許せないように思いました。
これではないと分かっていながら富豪の娘の肌を塗ったことが、友と絵に対する何よりの不誠実のように思えました。
夜に眠れなくなりました。
目を閉じても夢は訪れず、さりとて暗闇を見つめていると、その向こうに友の姿があるような気がするのでした。
辛さを忘れるために、夜ごとにお酒を飲むようになりました。お酒を飲むと最初は何もかもうまくいくように思えて、心地が良いのです。
ですが、翌日の昼過ぎに目が覚めた時には、身体は気持ち悪く、頭はぼんやりとしてはたらかず、そして何より沈もうとする太陽を見ると、自分がとても悪いことをしているように思うのでした。
二日酔いの気持ち悪さを、悪いことをしている自分をごまかすために、更にお酒を飲みました。
こうして、毎日、絵も描かず酒びたりになった画家には、依頼が来なくなりました。
たくさんいた弟子たちも、一人去り、二人去り、最後には誰も残りませんでした。
お金が底をついた画家は、広々とした工房を去り、元の下町の工房へと戻りました。