メイド
――何時からだったろうか。あの家を思い出さなくなったのは。
仕事漬けの毎日を送り、疲れを趣味に没頭する事で誤魔化し、それでも身体が訴える痛みを致し方なしという諦めだけで無視して動かしていた。
倒れた回数は未だ零ではあるが、それでも忙しいコンビニでは何時倒れてもおかしくない仕事量が待っている。
誰かが耐えられなくて仕事に来なかった時は休むこと無く働き通した。その際は本当に幻覚や幻聴に襲われたものだが、限界ラインで休みに入れたお陰で無事に今日を生きている。
そんな毎日の中にある休日というのは極めて貴重であり、俺にとっての希望そのものだ。
この日の為に働いていると言っても過言ではない程に、今日という大事な日を待ち焦がれていた。
だというのに、一体全体俺は何をしているというのか。
自分で自分のやっている事の意味が解らないと憂鬱な溜息を一つ吐き出す。零れた吐息は窓ガラスに当たり、白い壁へと姿を変えていた。
外の風景は何時もの田舎ではない。近代的な建物が多く見え、待ち行く人間の殆どが田舎とは無縁の眩しい服装へと変貌していた。お年寄り一人とってもお洒落な服装をしており、若人の顔には笑みがある。
そんな現代の日本の中心地。東京へと辿り着いた俺は約束の場所の最寄り駅で降り、実に数年振りに祖父の元へと歩を進めていた。
先日に書いた手紙は正しく今後を決める重要なものである。
やはりどれだけメイドだけを追い払ったとはいえ、それで本丸が落ちるとは思えない。
あの手この手でもって会長職に据えるのではないかと危惧し、決着をつけるべしと送ったのだ。
その返事がまさか送って一日も掛からずに来るとは想定していなかったが、何事も速いというのは大事だと思い約束の場所には向かうと手紙を持ってきた見知らぬメイドに告げておいた。
その際にメイドの目が光っていた事が少々気にはなったが、まぁ害は与えぬだろうとそのまま無視しておいた。
さてはて、とどこかお上りさんめいた感覚を抱きながら目的のビルを目指す。
しかし目指すとはいっても、その目指すべきビルは既に目前に見えていた。
「いや、でか過ぎだろこれ……」
実際には少々距離があるのだろうが、その建物の高さ故にとても近く感じてしまう。
軽く調べた限りでは階層数が八十階。その全てが祖父の会社の物であり、内部には一つのコロニーに近い構造をしている。
此処に居れば大抵の商品は揃うと断言出来る程に内部には店があるのだ。一般の人物も買い物に来る事が出来、社員に対しては割引といった優遇もされているのだとか。
ただし一般に開放されているのは十階まで。そこから上は社員のみしか入れず、つまり会社とデパートを合体させたような形状をしているのだ。
此処がミクラン本社。名前はそのままミクランタワー。少々語呂がよろしくないように感じるものの、下手な名前よりかはよっぽどマシである。
「待ち合わせは確か入口だった筈だが……」
ひとまず十五分程歩き、タワーの入り口に立つ。
タワーの横に接続されたような立体駐車場もまた巨大だなと思いつつ、平日の昼間を指定したのは愚かだったかと少しばかり後悔する。
スーパーのような入口にはコルクボードが置かれ、今日のタイムセールが載っていた。
その時間帯は朝と昼と夕であり、今はその昼のタイムセールが行われているらしい。視界の殆どを埋め尽くす主婦の姿に眩暈にも似た感覚を覚え、コルクボード付近に設置されたベンチに腰を降ろした。
一先ず暇潰しとしてタイムセールの商品を眺める。
生鮮食品、工具、キャンプ道具、紳士服、婦人服。共通しているのが服しかなく、確かに色々な物が揃っているのだなぁと強制的に理解させられた。
壁に貼り付けられた地図も見れば、その複雑さに覚えるのを早速放棄する。
本当に行きたい場所だけを覚えるようにしなければ、はっきり言って確実に迷うだろう。
田舎のスーパーとは大違いだ。流石は都会と思いつつ、視線を真正面に戻す。
「――――お久し振りです、拓也様」
「うぉッ……いきなりビックリさせるなよ」
顔を戻した先には、私服姿の椿の姿があった。
ただし私服といっても着物だ。椿の花をあしらった白の着物はポニーテルからロングにした彼女の髪にマッチしている。彼女専用に用意されたと言われたら納得する程だ。
メイド服ではないのはやはり周囲の目を気にしてか。その判断は賢明だと思うが、彼女本人があまりに綺麗過ぎるが故に男性の視線をかなり受けていた。
それでも気にした風を見せないのは、やはり慣れているからだろう。
そういった事にまったく縁の無い自分には解らぬ世界だと立ち上がり、ようと声をあげた。
「爺さんは何処だ」
「最上階です。……砕けた言葉を使うのですね」
「流石にあんな連続で来られるとな。嫌でも使わせてもらうぞ」
「構いません。寧ろ嬉しいくらいです」
小さく微笑む彼女は嫌になるほど美しい。芸能界に出れば間違いなくヒットするだろうし、そうでなくとも美しさを活用した仕事においては彼女の右に出る者が居るとは思えない。
そのまま彼女と隣同士で進む。周囲からの男達の嫉妬の視線が気になるものの、案内されたエレベーターに近付くにつれて人気はどんどん無くなっていく。
同時に商品の数々も見えなくなっていき、いわゆるバックスペースに来たのだと理解する頃には目の前に大の大人が四人程横に並んで入れる規模のエレベーターに到着した。
そして到着したと同時に、そのエレベーターは開かれる。
来る時間を計っていたのかと思う程に正確な動作に、最早俺は何も言えない。
「で、これから何処に?爺さんからは昼飯を食べながら語らいたいと言ってたが」
「今から向かう先は最上階の会長室です。入室方法は会長が定めた者のみに絞られ、四重のセキュリティーを通らなければなりません」
「厳重だな。セキュリティーって言うと、毛髪や指紋か?」
「毛髪や指紋もそうですが、肉声や本人のみしか知り得ない質問、高度な審議装置による判断も行われます」
「審議装置って何だよ、もしも俺が黒だったら警察にでも連行されるのか?」
「拘束が殆どですが、抵抗する場合は射殺も許可されています。死体は入念な処理の果てに行方不明者リストとして載ることでしょう」
――恐ろしい世界だ。
会長が誰にも殺される訳にはいかないのは解る。護衛として戦闘する以上、やはり殺してしまう事もあるだろう。
それでも、その殺人を彼女は当たり前のように口にした。その上で処理という単語まで出た。
事ここに至って漸く理解したのだ。彼女達はメイドという身分ではあるが、そのメイドとしての仕事の内容の殆どは会長を護衛する事にあるのだと。
清掃などは片手間で終わらせなければならないことなのだろう。料理も当然そうであり、故にそれらを完璧に熟しつつも本分である護衛としての役目に従事する。
そこに罪悪感を覚えるだとか、良心の呵責の苛むなんて事も無く、ただただ作業のように処理するのだろう。
そう思えば、彼女達の存在が途端に恐ろしく感じてしまう。
隣に居るのは必要であれば容赦の欠片も無く虐殺すら行う存在なのだ。俺程度を一瞬で殺すような、そういう別世界の住人なのだ。
此処に居てはいけないと、何かが強く俺に呼び掛ける。
それに同意はすれど、最早帰る事は難しい。俺が望んで頼み、俺が望んで来たのだから、それを蹴るような真似は流石の祖父も激怒するだろう。
俺だって確りとした形で全てを終わらせたい。こんなメイド達が直ぐ傍に居るような生活など送りたくないのだから、今は腹を括って前を見据えるしかないのだ。
『――お帰りなさいませ、御主人様』
覚悟を胸に、エレベーターのドアが開く。
その先に居たのは左右に並ぶ多数のメイドの列。一糸乱れぬ動作で腰を曲げた所作はやはり美しく、そして見える範囲の全てのメイド達も普通のラインを容易く上回る美人揃いだった。
そんな彼女達を見て、つい自分と比較してしまう。
彼女達のスペックは極めて高い。そして、自分はそのスペックに見合うような男ではない。
美男美女でなければこの場合成立しないだろう。そういった意味では俺の姿は悪い意味で浮いていた。
苦笑し、彼女達の間を椿を伴いながら歩く。
その度に左右のメイド達から見られているような感覚を覚えたが、今は無視しておいた。
どうせ一回しか会わないのだ。どんな風に思われていても二度と会わないのであれば問題は無い。
寧ろこの場合はご愁傷様だ。何せ隣で歩いている椿が静かな怒気を発しているのだから。
「……少しくらいは見逃してやれよ」
「……貴方様がそう仰られるのでしたら」
直ぐに怒りを露散してくれたのは、やはり俺がまだ会長職に就くと考えているからなのか。
これで断り続けて帰宅途中に殺されるなんて展開は御免だ。祖父にもそう言っておいた方が良いかと思い、椿は一つの扉を開いた。
その先にはまた別の廊下。最初と同じく青いカーペットが敷かれ、暖色の光が包むこの道は正直俺の好みには合っている。
赤いのは情熱的なイメージがある所為で好きではないし、紫やピンクは正直奇抜だ。地味系の色が好きというのは、真に正しく一人が好きな人間だからなのだろう。
最初の扉を含め、計四つの扉を潜る。
道中のセキュリティは全て停止しており、それはつまりそれだけ俺の事を信頼していると祖父は言っているのだ。隣の彼女は彼女で全てのセキュリティが止まった事は今まで一度も無いと言っている。
その言葉の雰囲気が嬉しそうなのは、まぁそういうことなのだろう。
最後の木製の扉が開かれ、中の風景に少し目を見開く。
直感的に感じたのは宇宙。あるいは深海か。
まだまだ昼であるというのに部屋は何処か薄暗く感じ、しかし周囲を見渡す程度は問題はない。
中にあるのは一つの黒いデスクだけ。たったそれだけだというのに、どうしてこの空間にはその黒いデスクでさえ邪魔者のように感じた。
「よう、お久」
「久し振り、爺ちゃん」
そしてその黒いデスクに、問題の発生源である祖父がにこやかに笑い掛けていた。