美麗叫喚
その部屋は巨大だった。
大理石で埋められた床。黒のデスクは寂しげに一つだけ置かれ、壁は全面強化ガラスに覆われている。
ガラスから見えるのは一つの巨大な都市。東京の一角に聳え立つタワーの最上階から見えるその都市は、あまりにも小さくなっていた。
デスクには一人の男が座っている。
品の良い紺のスーツを着込み、白の顎髭をゆっくりと擦る様は部屋の主として相応しい格を感じさせていた。
須藤・高虎。今年で七十五となった男はしかし、その目に歳不相応な凶暴極まりない輝きを放っている。
「これで五人目……」
呟く言葉に応える者はいない。独り言は空に溶けて消えていき、無音の世界が再度広がる。
どこまでもどこまでも静かな空間は宇宙か、或いは深海を想起させているのをこの部屋の主はよく理解していた。
自分一人だけのスペース。そこをどう利用するかなどは自身の勝手であり、しかして最近はその部屋からの離脱を考え続けている。
理由はただ一つにして自身の願いそのもの。
須藤・拓也の会長職引き継ぎだ。これが順当に進んでいれば今此処に座っている人間も彼に変わり、老人は元々の家でサポートをしながら隠居生活が送れていた。
そうならなかったのは、彼がその引き継ぎを反対したからだ。
地位も名誉も要らぬ。そのような重圧に苦しむだろう場所には立ちたくないと、メイド達の必死の言葉すら切って捨てている。
確かに、会長職というのは決して楽ではない。金があっても楽しむ時間が無い場合が多々あり、予定を潰される事もあった。
社員や幹部達の未来も守らねばならぬと痛む胸を抑える場面とて、あるにはあったのだ。
しかし、その果には確かな達成感もまたあった。
前人未到を目指し、他社に早々容易く並ばせぬという程の結果を世に示したのである。
世界的な大企業になるまでには多数の戦いがあった。一代で築き上げるには危険な行動も数えきれない程しているし、社員の中の一部がスパイであった例など最早忘れるくらいだ。
それでも此処まで来れた。夢を見て、その夢を世界に流出する事に成功した。喜びは仲間と共に分かち合い、正式に世の中で認められた際には二日酔いになるほど酒を飲み続けていたのだ。
故にこの会長職は高虎にとっての唯一無二。ただ一つの例外を除いた、誰にも渡してはならぬ椅子である。
その意味をまだ拓也は知らない。高虎もそれをわざわざ説明する気も無い。
余計な部分まで説明して、それが更なる重荷になるようでは駄目だ。拓也を苦しませる事を高虎は一切容認しない。
「――高虎様、凛が帰還致しました」
「……入りたまえ」
無音の空間に、扉が開く音と靴音が響く。
入って来た侍女服姿の二名に高虎は柔和な笑みを浮かべるも、二人の悲し気な表情を察して顔を伏せる。
想定以上に拓也の意識は硬かった。どれだけ願っても、どれだけ懇願しても、誘惑をちらつかせても彼の声には一片の強がりが存在していない。
あるがままの自然体で今回の話を蹴ったのだ。自分は絶対にそのような席には座らないという言葉に、高虎の胸中も悲しみが支配していた。
「お帰り、凛。やはり……駄目じゃったか」
「申し訳御座いません!!」
メイド服が汚れる事も気にせず、凛は高虎の座るデスクの前に跪く。
それは断罪を待つ虜囚のように、あるいは神に懺悔する愚者のように。高虎がどれだけ慈愛の篭った眼差しを送っていたとしても、彼女の頭には自死の言葉以外他になかった。
その様を見ていた椿もまた、自身の胸中に暗い影が落ちている事実を再度認識する。
初めて会った時から――否、二度目の出会いの時から彼女の胸中には喜びがあったのだ。
「椿も、やはり彼が覚えていないのは悲しいかい?」
「……はい」
言葉少なく、しかしてそこには確かな感情の色がある。
悲しみを多分に乗せた言の葉は高虎に届き、そうだろうなという呟きを引っ張り出していた。
どうして彼があそこまで悲観的になってしまったのか。
どうして彼は可能性を信じないのか。
何がどうして、今という現状を受け入れてしまうようになったのか。
その原因は高虎にはあまりにも想像出来ていた。それしかないだろうと、確信する程に。
急激に変わりゆく顔。菩薩のような穏やかな顔は阿修羅が如き憤怒の顔へと変わっていく。
雰囲気には明らかな重圧が加わり、そのあまりの恐ろしさによって実際に重りを乗せているかのような錯覚を彼女達に抱かせた。
「おのれ恭子……ッ。おのれ健一……ッ。やはり拓也は此方が引き取るべきじゃった。手厚く庇護し、真に会長となれる器にするべきじゃったのだ。あの女の笑顔がある限り拓也は大丈夫じゃと思った己が恨めしい」
子供の精神形成はやはり環境だ。
最初から全てを否定される生活を送れば性格は内向的で悲観主義に走るようになり、立ち上がるという行為を殆ど行わない。誰かの言う事こそが正しいと思い込み、自分の行動なぞ全て間違いだと認識するようになるのだ。
僕はこう思った。でも彼の方が良いから彼の言葉を信じよう。
僕はこんな物を作った。でも彼の方が出来が良い。
高校の時点でついに見捨てられた彼は、その悲観主義っぷりが更に成長してしまっている。周りに合わせるのが得意になっているものの、自発的に何かを発言するという真似が出来なくなっているのだ。
社会人になってからも同じ事。
自らの功績を他者に奪われても怒られないように仕様が無いと諦め、結果的に功績が殆ど無いから上司に怒られる。そしてなんて自分は仕事の出来ない奴なんだろうと自罰的になっていき、それが延々とループし続けるのだ。
クビになるのは必然。それを納得した時点で周囲も彼のことを無能と断じるだろう。
そして辞めて一人となれば、今度はその孤独感を素晴らしいと認識するようになる。後はその一人を維持するようにし、比較的責任を負う必要が無い職につけば完成だ。
これで彼は社会人を目指すだけの理由を喪失するし、生活がギリギリだからそちらに意識を割く事が出来る。加えて趣味の一つでもあればそちらに集中出来るため、引きこもりの素質も育つのだ。
これは決して狙って出来たものではない。
親が期待をしなくなり、放任主義が間違った方向に進んだ結果だ。ある意味偶然が生んだような形であり、しかして彼のような所謂フリーターに属する人間は日本には数多く存在する。
そうなった原因の数々は家庭環境や社会の理不尽さ故であるものの、本人達が未来を見る事を諦めてしまったからだ。
未だ未来があると思って足掻く人間は定職に就く確率は比較的高く、それを支えようとする人間もまた多い。だが、その足掻きすら諦めによって放棄してしまえば、最早後に残るのは負の感情を抱えたままの肉塊一つ。
誰だって好きで生きている訳ではないのだと愚痴を垂れ流しながら、そんな日々を彼は送るのである。
それが高虎には納得出来なかった。
拓也の幼き日の輝きを知っているからこそ、高虎は他の誰にも譲らずに座り続けるのだ。――――親戚の子供達には無かった、一般家庭独特の無謀な夢を叶えてあげたいと思ったから。
「椿よ、メイド達はどうなっておる。拓也は忘れてしまったじゃろうが、それでも過去に遊んだ仲じゃ。それなりに悲しんでいるのか?」
「三十人中十一名が錯乱しております。現在は業務に支障が出ない限界ラインで回している状況です。それに他の者もかなり不安がっているようでして……」
「予想通りか……。飛び出そうとする者はおるか」
「三人程無許可で会いに行こうとしていました。直ぐに止めましたが、やはり限界は近いかと」
三十人のメイドという存在。現在の彼女達の心情を思い、高虎はそっと息を吐く。
解っていた。解り切っていた。拓也の世話をする者から裏切者が出ないようにする為に、敢えて彼と面識のある者を選んで徹底的に育てたのだ。
それに、幼き日を忘れた拓也は知らなくともメイドの全員が覚えている。
彼がいたからこそ彼女達は救われた。殆ど偶然の産物であれ、あの場に彼がいなければメイド全員が地獄の底に突き落とされていただろう。
恩がある。それも大きな、人生全てをかけて払わねばならぬ恩が。
しかしそれを返すべき相手は、まったくそんなものなど要らぬと宣言している。返したいというのに反せない事実は、彼女達にとってまた別の地獄に突き落とされたようだった。
そんな中で、凛だけが突如として立ち上がる。何の許可も無しに突然立ち上がる様子に高虎は意識を傾け、椿は眉を顰めた。
「その、ご報告が遅れましたが……拓也様より高虎様へのお手紙を預かっております」
「何?」
懐から出現したのは一枚の茶封筒。祖父へと書かれたそれを凜はデスクの上に置き、静かに下がった。
高虎は急いで茶封筒を開き中を確認する。
内部にあるのは三つ折りにされた手紙一枚。他に何かが入ってはおらず、ではそこに本題が書かれているのだろう。
手が若干の震えに襲われる。もしもこれが絶縁状であったならばと考え、そうではない事を祈りながら手紙を開いた。
久方振りに長い文を書いたのだろう。文字は大小とバランスが整っているとは言えないものの、それでも可能な限り丁寧にしようという思いは伝わって来る。
最初に書かれている部分も絶縁状の宣言ではなく、ただの挨拶だ。
そしてその下には今回の経緯に関する確認と、拓也本人の素直な感情が書かれている。メールや電話で言わなかったのは、これが本気だと思わせる為か。――あるいは、祖父である高虎に逃げる隙を与えないためという可能性も有り得た。
会長という部分をバラしたとしても、彼には高虎が普通の老人にしか見えていないのだろう。
親戚一同は一斉に態度を変えたというのに、どこまでも砕けた言葉は高虎の心は暖かくなった。
会長の引き継ぎだけは拒む。しかし、家族としては今後とも良好に付き合いたい。その妥協案を作る為にも、どうか一度会えないかというのが手紙に書かれた本題である。
高虎としてもその言葉には応だ。随分会っていなかった分、直接的に話したい事も多くある。
何よりももう隠す必要が無い。であれば、見せるべき姿は見せねばならないだろう。
椿に紙を用意してもらうよう告げ、高虎は胸元の万年筆を取り出す。
それを凜が見て、内心で首を傾げた。
明らかにその万年筆は歪だった。経年劣化という訳ではなく、初期段階からバランスが崩れているのだと一目で解る。
「ん?……ああ、これかね」
そんな凜の視線の先に気付き、はっはっはと高虎は小さく笑った。
失礼しましたと凛は頭を下げるが、高虎としてはよくぞ気付いたという思いしかない。
「これはとても安価な万年筆だ。恐らく三千円もしないじゃろう」
「……もしや拓也様からの贈り物ですか?」
「そうじゃ。しかし、ただの贈り物ではない。――これは拓也が自分の手で作ったのじゃ」
高虎は昔を思い返す。
事業が上手くいき、友人である幹部全員で祝いの宴を終えた夜のことを。心地の良い酔いを楽しみながら本当の家へと帰り、眠ろうとした際の敷きっぱなしの布団の横に、綺麗にラッピングされた状態でその万年筆は置かれていたのだ。
誕生日ではないし、ましてやクリスマスや正月といった特別な日でもない。
しかし、それはきっと初めて拓也が完成させた品だったのだろう。万年筆に直で貼り付けられたメッセージカードにはやったぜ!という文字だけがあった。
「あいつは昔から何かを作る事が好きじゃった。今でもそれを趣味としている程に、拓也は作る事がただ好きじゃった」
幼き日。自身の妻の静止の声を無視して拓也を肩車した日の事を思い出す。
高虎は笑顔だった。妻の幸子も心配そうな思いを持ちつつも笑顔だった。そして拓也もまた、何も知らない無邪気な笑顔を浮かべ続けていた。
あの時の拓也の言葉を、高虎は今でも一言一句覚えている。それが高虎という男を燃え上がらせた原因なのだから――――彼を会長にさせるという、当初の目的を更に強固にさせた要因なのだから。
『爺ちゃん!爺ちゃん!』
『何だい、拓也』
『俺さ、大きくなったら作りたいものがあるんだ!』
忘れるものか、あの言葉を。
例え記憶喪失になろうとも、その言葉だけは魂に刻み込んででも思い出す。
『ほう、一体何を作りたいんだい?』
――――爺ちゃんみたいな人が苦しまずに遊べるような機械!!
無邪気に無垢に、昔日の拓也は子供の特権を振りかざしていた。
されどそれは子供ながらの自分本位での望みではなく、誰かの為にという望み。何時か必ず、それを成しえてみせるという若者の鮮烈な輝きだった。