猛撃
話を断ってから、実に二週間という月日が過ぎた。
その間は電話も手紙も何一つ無く、至って平和な日々が続いたと言えよう。
仕事も基本的には問題無し。昨日は給料日なので大分懐は潤っているものの、それを全て使い尽くすような真似は断じて許されるものではない。
預金用として残されている三桁の資金が表示される口座に更にプラスして金を入れる。給料用と分けているのは単に使い過ぎを避ける為だ。
公共料金。国保。家賃。食費や携帯代。そういった諸々だけを給料用の口座に残し、趣味の分の資金も考える。こういった金の計算は面白いもので、限界を定めてどう使っていくかをシミュレートするのが密かな楽しみとなっているのだ。
こんな事を考えるのは俺くらいなものだろう。中々ニッチなものであるが故に、しかし達成してみると存外嬉しかったりするものだ。
家に帰宅し、今日も今日とて寝るまでの時間をネットサーフィンに費やす。
趣味の時間は休日だけと定めているものの、それでも何の作業もしないという事は無い。回路図を作成することはあるだろうし、CADで設計をする事もある。
プログラムを書くことだってあるのだから、意外にやるにはやる。それでも本業に支障が無いようにするので進みは遅い方だ。
最近のネットサーフィンの内容は、主にミクランである。
俺が断った結果としてそう簡単に何かが変わるとは思えないが、動向は気にしてしまう。
今のところ目立った発言は無いし、事業が変わる様子も無いのが救いと言えば救いだ。このまま何事無く無事に過ぎてくれれば良いと思いつつも、全てが全てそうはならないだろうとも半ば確信していた。
いや、これは一種の嫌な予感なのかもしれない。
俺はあの日、親戚や両親に任せる旨を告げたばかりだ。祖父も諦めの口調であったし、それはきっと成してくれていることだろう。
ただ、俺はその親戚という存在に碌に会った事が無い。親戚一同と食事をするなんて行為は一度として無かったし、従妹のような存在と話した記憶も皆無だ。
これは祖父が嫌っていて態と会わなかったというのもあるだろう。そうでなければ祖父と遊んでいた俺が一度も会わないというのも考えられない。
遺産云々で頻繁来ていたのだから、祖父はその日と重ならないようにしていたと思うのが普通だ。
――――――♪
「呼び鈴?……まさか」
思考の波に割って入るように突如として呼び鈴の音が部屋を満たした。
以前であれば宅急便か何かだと思っていただろうが、今は違う。最早誰が来るかも予想出来ない中で、俺の頭の中は警鐘で一杯だった。
外の人間には聞こえないように静かに玄関に近付く。多少の木の軋みは扉で遮られて聞こえない筈だ。
小さな窓穴を覗く。宅急便であれば俺の見知った格好であるから、間違える事は無い。
果たして、結果として見えたのは緑の帽子を被った宅急便屋だった。
脇にダンボールを抱えて此方が出て来る様子は常に見た光景であり、安堵の息を吐いてドアノブを回す。
サインを下さいという声に常備していたボールペンで苗字を書けば、流れるような動作で荷物を渡された。それに対して感謝の言葉を送って商品名を確認し――あれと内心で首を傾げる。
そこには何も書かれていなかった。通常であれば商品名や送り先の住所が書かれている筈なのに、その伝票はただ貼られただけの綺麗な物だったのだ。
それを認識し、まさかと顔を上げる。
宅急便屋は未だそこに居た。常ならばサインを貰って直ぐに去って行くだろうに、まったく去る気配を見せなかった。
「あんた……誰だ」
思わず出た言葉に、宅急便屋は顔を上げる。
そこにあったのは女の顔だった。先程までは確かに若い男性の声だったというのに、目の前に居たのは所謂男装の麗人じみた美女だったのだ。
此方に向かって優しく笑い掛ける様は男のような爽やかさを醸し出し、同時に女としての魅力も振り撒いている。その顔のままに渋谷や新宿あたりに出ればナンパは確実だというくらいには、目の前の女性は自分の住む世界とは違い過ぎた。
一体何故。そう思う前に意識を叩き起こして反射的に扉を閉めようとする。
しかしそれをする前に彼女によって腕を掴まれ、距離を縮められた。
「初めまして。私は貴方様に仕える予定の根岸・凛と申します。こういった手法を取ってしまった事は謝罪致しますが、どうしてもお話を聞いてもらいたく」
声には柔らかさがあったが、同時に硬さもあった。
何処か緊張したものも感じ、けれども俺にとっては気にすべき情報ではない。
相手は真正面からの接触は不可能だと騙しにきていたのだ。この二週間何もしてこなかったのは単に接触する方法を模索する為に監視していたからであり、今正に宅急便が来る回数が多い事を利用して接触してきた。
最初のメイドは随分と静かなものであったが、どうやら最初だけだったらしい。
こうした手段を取って来る辺り、やはり何が何でも説得させようとしているのだろう。
「帰ってくれ。次に来るなら警察に連絡するぞ」
「申し訳ございません。このような手は二度と取りません故、どうか今回だけは私の話を聞いてください」
「話の内容は解っている。だが無駄だ、俺は会長になる事を了承しない」
「無論その点は理解しております。しかし今回は別の話なのです」
別の話?
また騙そうとしているのではないかと彼女の顔を見るが、俺のような素人に嘘か本当かを見破る技術は無い。気にはなるが、しかし俺はもう関わりを持ちたくないのだ。
例えどのような話であっても耳に入れたくないとすら思うのだから、彼女の懇願は無視すべきである。
溜息一つ。思い切り吐き出せば、俺の腕を掴んでいた彼女の腕が一瞬跳ねた。
このまま無視を行うのは簡単だ。だが、こういった手法を取る連中であれば別の手段を使わないとは限らない。
最終的にはやって来るあらゆる全ての人間を疑わねばならず、それは俺の精神衛生上勘弁願いたい話だった。
致し方無く、そのまま彼女を部屋に入れる。
嬉しそうな雰囲気を背中で感じながらも茶の用意はしないとだけ告げた。
「布団は敷きっぱなしなんですね」
「まぁな。仕事ばかりの所為でそうなる事が多いし、本来なら誰も来ない筈だったから出しっぱなしだ。嫌になっただろ?」
「まさか。寧ろ私達が確りと仕事が出来そうだと嬉しく思いますよ」
それはどういう意味だと言おうとして、ああそうかと内心で納得する。
会長職になればこんな家は不釣り合いだ。即座の引っ越しが行われるのは想像に難しくなく、件の立場に相応しい場所に俺が移動する事になる。
その家はきっと大きいのだろう。何せ三十人のメイド居るくらいだ。大きくなければそこまでの人数は絶対に必要にはならない。
布団の上でやはり凛と名乗った女性は正座をし、俺は胡坐を掻く。
配達員の姿そのままなので中々違和感が強いが、敢えて何かを言う必要はあるまい。さっさと終わらせ、さっさと帰らせる。それだけだ。
「で、以前とは違う要件とは一体?」
「はい。ですがその前に一つご確認をさせてください。貴方様は高虎様の親戚とはお会いになられてはいませんか?」
「ない。そもそも俺の住所を知っている人間は両親以外には居ないし、その両親ももう殆ど忘れているだろうさ」
「そうでしたか。解りました、では話をさせていただきます」
メイドの説明は、およそかなりの割合で予想通りとなったお家騒ぎについてだ。
諦めた祖父は親戚の中でも選ばれた人数のみに絞って真実を話した。それを聞いた親戚達は最初こそ疑っていたそうだが、実際に祖父の本当の家に向かい会社にも案内したところで漸く信じたらしい。
その結果として自分、もしくは自分の子供達を売り込むようになり、現在はその選定を行っているそうだ。
欲望に忠実だと感じた親戚達であればそうなるだろうとは思っていただけに、実際にそうなった事は嬉しい。嬉しいのだが、しかし目の前の彼女の表情は優れてはいなかった。
「既に候補者は十四名になります。皆此度の会長選定に関してはかなりの気合を入れているようであり、テーブルマナーのような細々としたものを含め実に見事な成績を残しつつあります。――しかし、高虎様はその全ての者を落とすおつもりのようです」
「何故だ。話を聞く限りなら会長職をやろうとする意気は皆高い。十分な成績を残しているのならば、その内で最も高い者を選べば良いじゃないか」
「ですが、彼等は独り善がりなのです。誰も周りを見ておりません。このままでは例えあの中から就任したとしても賄賂を受け取ったり、社内の改善案を無視して自分だけの住み心地の良い空間を作ることでしょう」
話を聞けば聞く程、成程確かに欲望に忠実な者達だと感じるばかりだった。
賄賂を受け取るなど発覚すれば一発で会長職を弾かれるだろうし、下からの改善案をまるっきり考慮しないのであればやがてはブラック企業化は避けられない。
少なくとも、ミクランには特徴の一つとして超ホワイト企業というものがあるのだ。
そこが潰されるようであれば、まず以前よりも入社しようと考える人間は減るだろう。それが衰退への道を辿る可能性は十分に考えられた。
それに、と彼女は顔を伏せながら告げる。
「親戚の一部には私共にセクハラを行う者も居ます。酷い者であればいきなり肉体関係を築こうとするのです。俺が会長になればお前を愛人として囲ってやるなどと、我等を従順な人形としか見ていないのです」
「それは……」
最低最悪だった。
最初は何かしらの擁護でもしようと思ったのだが、ここまで酷いと最早擁護のよの字も出はしない。
極端過ぎるまでに、その親戚達は素直なのだ。祖父が嫌悪するのも理解出来ると思うだけに、多少なりとて罪悪感を抱いてしまった。
恐らく自分が素直に引き継ぐと言えば、彼女達は嫌な思いをせずに済んだのだろう。祖父も嫌な決断をすることも無く、何時もの安穏とした顔をしていた筈だ。
申し訳なさが浮上する。が、ここでじゃあやりますとなるのは駄目だ。
自分でこの状況を招き、このような惨状を作り上げた。であれば初志は貫徹すべきであり、曲げるつもりは毛頭無い。
それに言っては悪いが彼女達の事を俺は深く知らないのだ。故に見捨てたとしても多少の罪悪感を覚えるだけで、心を病む程にまではならない。
唯一心残りなのは祖父であるが、あの人は会長職として歴戦の企業戦士を相手取っているのだ。口八丁などお手の物であろう。
「どうか、どうかお願い致します!……あの御立場がお嫌いなのも承知しておりますし、我等の事を知らない以上同情も出来ないでしょうッ。ですが、私共は最早貴方様に頼る他に無いのです。高虎様もそう願っています」
土下座までする彼女の姿は必死だ。
必死で、俺に会長になってほしいと願っている。そこには紛れも無く祖父の想いも籠められていて、涙声もセットとなっている彼女の言葉に嘘は感じない。
自分の選択で彼女達の未来が変わる。今正にその分帰路に立っていると自覚し、俺は確かに迷っていた。
自分の選択で彼女達を救う事が出来る。しかしその場合は俺の人生が破滅する可能性もある。
逆に助けなければ、彼女達の人生が破滅する代わりに俺は平穏無事に過ごせる。その事実は俺にとって非常に魅力的で、されど何の未来も残っていない事を示していた。
誰もが納得出来るような都合の良い話など存在しない。それは最初から解っていたつもりだったが、それでも今一度突き付けられると心苦しく感じるものだ。
――――だが、そう。俺は今選択しなければならなかった。
「…………」
「私共で出来ることならば何でも致します!。ですので、高虎様の望みに応えてはくださいませんかッ!!」
再度の必死な声。
心臓が五月蠅く鼓動するのを聞きながら、俺もまた彼女に対して頭を下げた。
俺の動く気配を察知した彼女が頭をあげ、息を呑むような音を耳が捉える。
「済まない……俺にはその未来を掴む資格は無いんだ」
諦観に支配されている俺には、会長なんて真似は出来ない。
秤は常に自分本位で容易に傾きを変え、結果として自分の方向に傾いた。彼女達がどれだけ懇願しようとも、祖父がどれだけ言葉を募らせても――生来の気質だけはどうしたって変わってはくれないのだ。
自分本位の社会不適合者。その烙印を自分で押した身としては、今更社会に出て来たとしても潰れるだけだ。
そうなるくらいならば、可能な限り他者に迷惑を掛けずに勝手に死んでいこう。
それこそが恐らく、俺の人生の意味だと思うから。
部屋の中は重苦しい沈黙に支配された。最早どうしようもない程に、何もかもが壊れていく音を俺は幻聴として最後まで聞いていた。