プロローグ
森の中の道を、馬は駆ける。
ここが、レオスガリア東部に拡がるファドゥッガ大森林であることを、少女は知っていた。
だが、地理的にわかるのは、それだけである。
ボノアスラン王国で生まれ育った少女にとって、初めて訪れるレオスガリア王国についての知識は、教育で修得した乏しいものしかない。
この森がどこまで続くかも、いつまで逃げなければならないのかも、少女にはわからなかった。
馬が吐く息は荒く、今にも倒れ込むのではないかと思えた。
少女を抱えながら手綱を握る男の顔には、焦燥の色が浮かんでいる。
馬を駆けさせながら、男は何度も後方を振り返った。
その間隔が、段々と短くなっていることに、少女は気付いていた。
何者かが、背後から迫ってきていることにも。
男が、唇を噛む。
「……『死神』め」
緩やかに波打つ長い黒髪と、巨大な鎌が夕闇の中に見えるような気がした。
やがて、男は手綱を引いた。
少女を抱えたまま、馬から飛び降りる。
馬が、足を折った。
これ以上は、走れないだろう。
そして、これ以上は逃げられない。
「逃げろ」
男が剣を抜き、言った。
「奴は、ここで私が喰い止める。君は、逃げるんだ」
「そんな……!」
無謀なことを言う男の腰の辺りを、少女は触れた。
男が甲冑を装備していなければ、服を掴んでいた。
「無理です! あなただけでは……!」
「いいから、行くんだ!」
男に怒鳴られ、少女は身を竦ませた。
「……頼む。君に逃げきってもらわなくては、私の部下たちが報われない」
「……」
少女は、知っていた。
自分を逃がすために、男の部下たちが大勢死んでしまったことを。
このレオスガリア王国で、みな『死神』に殺されていった。
いや、おそらくボノアスラン王国にいた時も。
男は隊を率い自分のことを守り、そして部下たちを失ってきたのだろう。
「でも、わたしは……わたしは……!」
男の背中に、声を掛ける。
男は振り返り、膝を付いた。
少女の肩を掴む。
「……十歳だったな」
「……はい」
「ただ生きる。それが、とても辛いことになると思う。苦しいことになると思う。だが、生き延びてくれ」
男は、表情を歪ませた。
「きっと、道は開かれる。希望はある。だから……」
それは、気休めに過ぎないのだろう。
だが、男の精一杯の激励。
魔力の波動を感じた。
魔法使いとしての素養がある少女にも、感知できた。
それだけ、追っ手は迫ってきている。
男も、当然気付いているだろう。
立ち上がり、剣を構える。
「逃げろ」
「でも……!」
「大丈夫だ。私は死なない。あの女を退けて、君を追う。……だから、行け」
「……」
「自分が何者かは、わかるね?」
「……はい」
「忘れろ。そして、思い出すな。君なら、それができるはずだ。意味は、わかるね?」
「……はい」
「ならば、いい。行け」
「……」
少女は、一歩後退った。
男の背中が、歪んで見える。
だけど、まだ泣かない。
ここに留まれば、男は死ぬまで『死神』に挑むだろう。
そして、戦いの果てに殺される。
『死神』の目的は、自分にあるはずだ。
一人で逃げることで、男は助かるかもしれない。
「ごめんなさいっ……!」
声を上げ、少女は男に背を向けた。
逃げる。
生きるために。
男の声が聞こえた気がした。
振り返るな、と言われたような気がした。
間もなく夜になる。
闇が、どれだけ逃亡の助けになるか。
追ってくるのは『死神』である。
絶望的な逃亡。
それでも、自分のために『死神』と戦い、死んでいった者たちのために、立ち止まるわけにはいかない。
背後に、『死神』の気配。
巨大な鎌で命を刈る、『死神』と呼ばれる女。
男の咆哮。
爆音、そして光。
少女の影を、駆ける方向に伸ばす。
「わたしは……」
忘れなければならない。
自分が何者であるか。
なんのために生まれてきたか。
名前も、存在も、なにもかも。
思い出せば、意識すれば、きっとクロイツに居場所を知られてしまう。
そして、『死神』が現れる。
自分を、連れ戻すために。
自分のために戦ってくれた者たちの犠牲が、無駄になってしまう。
「『死神』……!」
だから、思い出すのはこれが最後。
「わたしは、ソフィア! 『死神』ソフィア……!」
森は続く。
絶叫は響く。
『死神』ソフィアだった少女は、ただひたすらに夜の中を駆けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
少女が駆け去ったことを確認し、彼は安堵の溜息をついた。
同時に、前方へ意識を集中させる。
あとは、可能な限り時間を稼ぐ。
構えた剣が、日が暮れた森の中でも輝いている。
剣身には、彼の姓名が刻印されていた。
フェレンツ。それが、労働者階級地区で生まれた彼の名だった。
ペトレ。それが、騎士の位と共に、女王に授けられた姓だった。
『死神』が現れるまでのわずかな時間、フェレンツは眼を閉じた。
(……サリヴァン、デニス、ヘニー、フィリップ……)
死んでいった友、生きているかどうかも定かではない仲間たちの名前を呟いていく。
(……力を、貸してくれ)
『死神』を、退ける力を。
少女を、守る力を。
少女が逃げる時間を稼ぐだけでもいい。
眼を開く。
飛行の魔法で宙を駆ける、長い黒髪の女の姿。
身を包むボディスーツの色も、黒。
女が手にする禍々しい形の大鎌は、妖しい気を発しているかのようだった。
夕闇に浮かぶその女を、フェレンツは不覚にも美しいと思ってしまった。
跳び退り、地面に手を付く。
魔法の構成は、すでに組み終えていた。
「ファイアー・ウォール!」
炎の壁が、アレンジによりフェレンツのかなり前方、飛行する女のすぐ眼前で吹き上がる。
女は、炎に包まれたはずだ。
だが、すぐに炎の壁を突き破り、優雅に地に降り立つ。
女の背後で、フェレンツが発動させた炎の壁が霧散していく。
残り火に背後から照らされ、女は微笑んでいた。
美しい、とまたフェレンツは思った。
美しく、優雅であり、妖しく、禍々しい。
そして、微笑みは背筋を凍らせるほど冷たい。
それが、『死神』と呼ばれ畏怖されている、ソフィアという女だった。
「……まさか、遠征軍の中に、あの子を紛れ込ませていたとはね。まんまと騙されたわ」
ソフィアの足下から、固いブーツで土を踏みにじる音がした。
「……そうか。私の策に掛かってくれたか」
「ええ。栄光のボノアスラン王国騎士団団長様」
ボノアスラン王国騎士団。
その騎士団団長にフェレンツが任命されたのは、四年前。
四年の間に、騎士団は三十二度の戦争に参加し、一度も敗れることがなかった。
騎士団の中心となるのが、団長であるフェレンツと、サリヴァン、デニス、ヘニー、フィリップという、四人の部隊長だった。
今回の遠征軍から、ヘニーとフィリップは外してある。
戦場では、フェレンツは騎士団の先頭に立つこともあった。
そのため、代わりに後方へ退くフィリップが、騎士団全体の指揮を執ることがある。
言ってみれば、指揮官が二人いるようなものだった。
それが、騎士団の強みの一つ。
フェレンツとサリヴァンの部隊が正面から敵とぶつかり、デニスは左から、ヘニーは右から攻撃する。
フィリップは後方から指揮を執る。
それが騎士団の基本的な戦い方だが、状況により五つの部隊は自在に動き回り、役割を変える。
これまでに、連携に齟齬が出たことは、一度もなかった。
事実上の指揮官であるフィリップが国内に残ったことで、ソフィアは少女がヘニーとフィリップの元にいると思ったのだろう。
「まんまと騙されて、頭にきちゃったから……わたしがあの二人になにをしたか、わかる?」
「……なにをしたというのだ?」
「知ってるかしら? ヘニー、彼はね、実はあなたに不満を抱いていた。大事な戦争の時に、何度か留守番役を命じられたからだって」
「……」
「フィリップ、彼は最後まで、わたしに抗った。彼が最後になんと言ったか、知りたい?」
「……黙れ」
「どんな無惨な姿になったか……」
「黙れと言っている……」
剣の先を、ソフィアの眉間の位置にまで上げる。
これが、『死神』の額を貫くと信じて。
「……私も、知っていることがあるぞ、『死神』ソフィア」
「……あら、なにかしら?」
「リーザイ王国王都ミジュア第九地区の崩壊。貴様は、あの日、そこにいた。未だに満身創痍なのだろう?」
「……確かにね」
軽く肩を竦め、あっさりとソフィアは認めた。
そして、くすりと笑う。
「でも、そんな状態であっても、あなた御自慢の騎士団を目茶苦茶にするくらいはできるわ。壊滅は無理だとしてもね」
「……」
「サリヴァン、彼はあなたたちを逃がすために、私に立ち向かった。左足を斬り落としたわよ。あの傷で、まだ生きているかしら?」
剣で、突き掛かった。
ソフィアが、大鎌で受ける。
剣と魔法を奮う。
ここで倒す。
それが、部下たちへの弔いになる。
だが、意気込みだけではソフィアには勝てなかった。
大鎌という扱い易いとは言えない武器を、誰よりも自由自在に操り、強力な魔法使いでもある。
『邪眼』という、先を視る能力も持っている。
数分と経たないうちに、フェレンツは甲冑ごと全身を斬り刻まれ、地に倒れ伏していた。
血塗れとなったフェレンツの体を踏み越え、ソフィアが少女を追おうとする。
ソフィアの足首を掴んだ。
もう少しだけ、付き合ってもらう。
少女には、一秒でも二秒でも、先に進んでもらわなくては。
呆れたような表情で、ソフィアがフェレンツを見下ろす。
「そんな元気が残っているなら、傷を治すことね」
「……無駄だ。……きっとあの子は……逃げ延びた。……あの子には……クロイツの眼からも逃れる技能がある。……他ならぬ貴様らが……教育したのだ……」
「……そうね。逃げられてしまったかもしれない。でも、いいの。クロイツには見つけられなくても、いつか誰かが見つけ出す。組織に、何人いると思っているの。彼らにも、それぞれ眼と耳があるのだから」
ソフィアが、大鎌を振り上げる。
「何年掛かってもいいわ。どうせあの子が必要になるのは、まだ先のことなのだから」
そのまま、フェレンツの体に刃を振り下ろすのかと思った。
だがソフィアは、大鎌を肩に担いだだけだった。
フェレンツの手を振り払い、少女の追跡を再開しようとする。
「……待て……私を殺していけ……」
「殺さない」
意外にも、ソフィアはそう言った。
眼は、悪戯っぽく光っている。
「あなたは、自分の立場を理解していないようね」
「……なんだと?」
「今日のことを、世界の人々はなんと呼ぶのかしら? 『ボノアスラン動乱』。もしかしたら、そう教科書に載るのかもね」
「……なにを……言っている……?」
「あなたはね、ボノアスラン王国の『英雄』なの。あなたとあなたの騎士団が、ボノアスラン王国を、リーザイ王国やレオスガリア王国と、互角かそれ以上に戦わせた。あなたがいなければ、最小のボノアスラン王国は、とっくに滅んでいたわ。リーザイ王国の属国だとしても、未だにボノアスラン王国は一国として残っている。これは、あなたの功績」
「……」
「今日、ボノアスラン王国は、リーザイ王国の属国から、レオスガリア王国の属国に変わる」
「なっ……!?」
ソフィアの台詞に、フェレンツは絶句した。
「議会が、乗っ取られるのよ。リーザイ派から、レオスガリア派にね。もちろん、国民は黙っていない。独立せよと、立ち上がる。すでに仕込みは万端よ。リーザイ王国やレオスガリア王国も軍を進めるかもね。血みどろ抗争が、これから何年も続くことになるわ、きっと」
「……貴様……! 私の国を、なんだと……!」
「そしてあなたは、このレオスガリアから祖国で起きている争いを、ただ眺めるだけしかできない」
「私、は……」
「あなたは、リーザイ派なのよ。少なくとも国民は、そう思っている」
「……」
ボノアスラン王国がリーザイ王国に服従するという決定に、フェレンツは従った。
国を残し、戦火を減らすには、それが最善と判断したのだ。
だから、リーザイ派と思われるのは仕方ない。
リーザイ派の自分を、レオスガリア派で染まったボノアスラン王国は、受け入れないだろう。
祖国の地を踏んだ途端に、暗殺されるかもしれない。
「なんであなたがレオスガリアに遠征中に事を起こしたか、理解できた? あなたはもう、ボノアスラン王国に戻れない。生き残るためには、このレオスガリアに亡命するしかないんじゃないかしら? ボノアスラン人でリーザイ派のあなたが、このレオスガリアで生きるの。祖国が争いでぼろぼろになる様を眺めながらね。どれだけ惨めな気持ちになるのかしら?」
「貴様……!」
「自決する方がよっぽど楽かもね。けど、いいのかしら? あの子は、この国のどこかで生きるの。きっと、あなたの助けを待っている」
「貴様ぁ……!」
地面を掻いた。
怨嗟の呻きにも、ソフィアは冷たく見下ろすだけである。
「剣を捧げ、忠誠を誓った国のために戦えない。崩壊する国を、遠くから眺めるしかできない。恥辱に生き、たった一人の少女のために、死ぬことも許されない。それが、あなたの残された人生」
「『死神』め……!」
剣を杖代わりに、立ち上がろうとした。
皹が入っていた剣身が折れ、フェレンツは再び倒れた。
「『コミュニティ』に逆らったことを、死ぬまで後悔することね」
ソフィアの嘲笑。
地に伏したまま、フェレンツはそれを聞いていた。