青春フィリア編Ⅰ
旅に出るということは、広い世界を知ることと、自分自身を知る機会でもある。一歩踏み出したら、後には戻れない。とことん知ろう!とことん知ってやろう!!
プロローグ
古き国々が倒れ、新しき国が凌ぎを削る興亡の時代。ここ、アングレール王国は幸運にも平和な時世が続いている。その国土は西方をエスナン皇国、北方をウータム国、東方をマクラス神国、南方は海を挟んでルーリ帝国に接している。アングレールの地形の特色は、北方に長く高い山脈がそびえ、それが天然の要害となり、他国からの侵入を拒む形になっている。その山脈からは、水量豊富な大河が幾筋か流れ、河口には適度な深さを持った良港を形成している。大河によって運ばれた大量の土砂は、積年を経て広大で肥沃な大地を作り、今では一大穀倉地帯となり国と民を豊かにしている。また、山脈を背にした湖水地帯には、王国第二の都市カリナンがある。ここは「美し過ぎる湖水地帯」と呼ばれ、アデム王の時代に避暑地として整備され、夏の都「副都カリナン」となった。王都はこのカリナンから南に下った世界的大都市ヴィエナに置かれている。この王国は、建国よりアグリス王の治世までは、国土と民のすべてが王のものであった。彼の時代、経済の発展により、近隣諸国に影響を及ぼす程になった。また、フィデラ二世の時代には、国土を幾つかの経済圏に分けた統治が始まったが、その経済圏の長となるべく「領主」には、特権というものが殆ど与えられなかった。更に「領主と言えども永代ではない」と決められた。これは、領主が私腹を肥やしたり、私軍を作り国を脅かす勢力にしない為の策だといわれている。そして、この王国には強大な軍事力がある。そのすべては国王直属であるが、軍を指揮する将軍たちは、一定の家系に属した者ではない。清廉潔白、知略と勇猛さを評価された者にだけ、その資格が与えられる。軍は、国境と港湾にその多くを置き、各都市には軍の下部組織が守備にあたっている。また国王は、軍とは別の組織である近衛隊により護られている。現国王イザナは、諸外国との交易を活発化したことにより、経済的な恩恵を多くの国民に与え、それにより国民からの絶大な支持を得ている。その上彼は、交易国以外の国々の内政状況も詳しく知るというのだ。よって「世界の隅々まで知り尽くす王」と讃えられている。このアングレール王国の子どもたちは、5歳になると王国民学校で10年間、総合的な教育を受けることが義務づけられている。そして、15歳を迎える子ども全員がその年の「立志式」に臨む。これは、個々の独立心を育むことを目的にした、一種の成人式と云えるものである。子どもたちはその後、職人になるために弟子入りしたり、様々な職業に就くための学校や学者になるための学校など、高等専門教育校へと進学したりするのである。
1 始まりのとき
副都カリナンの東南部は、なだらかな丘陵地帯になっている。その広大な一帯では羊の放牧が盛んに行われ、通称「羊の丘」として多くの市民に親しまれている。その上、街に近い急斜面の一帯では、良質な薬草が多く自生しているといい、稀に貴重な薬草が見つかることもあるという。今日もそこには、白いローブに黒ガウンの制服姿の少年が、薬草採取に来ていた。青さを取り戻して間もない草原に這いつくばるようにして、見落としてしまいそうな小さな葉を摘んでいる。爪の先にも満たない葉は丸く茎は短いので、丁寧に摘み採っては蓋付きのガラスビンに入れていた。そんな彼は、近づく馬にも気がつかない程に熱中していた。
「君はそこで何をしているのかな?」
突然、馬上の紳士から声を掛けられた少年は、立ち上がった拍子にビンを落としそうになるくらいに酷く驚いた。
「おやおや、驚かせてしまった。すまない」
「こっ、こちらこそ、気付かないで失礼致しました」
少年はうやうやしく挨拶をした。馬上の紳士は端正な顔立ちに、美しい栗色の波打つ髪を肩まで伸ばし、仕立ての良い上品な服装をしている。その物腰の柔らかさと上等な剣を帯びていることから、どこかの貴族か領主だろうと少年は思った。
「君は薬草を摘んでいるようだが、薬草専攻の学生かな?」
「わたしは、王立カリナン医術学校の学生です。医術を学んでいますが、薬草学も学んでいます」
少年は、紳士をしっかりと見据えて答えた。紳士は少年のガウンの襟に、金モールが付いているのに気付いた。
「ふむ。その金モールは資格が取れた証だね、優秀な学生だ。君の名は?よかったら教えてくれないか?」
「はい。わたしはエミル、エミル・エスナールと申します」
「エミル・・・・おめでとうエミル。採取の邪魔したな、では失礼する。ミッションを頑張ってくれたまえ」
馬上の紳士は馬を巡らせると、その鼻先をカリナンの街に向けた。
「あのう!大変失礼と存じますが、あなた様はどなたでしょうか?」
咄嗟のエミルの質問に、振り向いた紳士は名乗らなかった非礼を詫び、改めて名乗った。
「イザナ、だ」
「・・・・・」
エミルは深々とお辞儀をして、国王と同じ名前の紳士を見送った。今は4月だ、5月であるなら副都に王が居ても不思議ではない。国王は5月から9月までは、避暑地であるこのカリナンの離宮で執務する。それに合わせて侍従、近衛兵隊、高級官僚など様々な分野の役人たちが多く移動してくるが、今のところ移動があったとは耳にしていない。
「あのお方、ミッションのことをご存知だったけど・・・」
エミルは呟くとそれ以上は気にも留めず、また元のように草原に伏して薬草探しに熱中した。
「ミッション」それは年に一度だけ、王国全土から選ばれた優秀な学生たちだけに受けることを許された「国家試験」である。受験生たちは一組が二人以上のグループに分けられ、決められた試験内容を果たす為に、国の内外へと派遣されるものである。試験内容はグループ毎に違い、地方の役人級と言われるものから、中央の上級役人級の難しいものまで、アトランダムに与えられるといわれている。時に、難しいミッションを与えられたグループが、完結出来ずに戻って来ることもあるが、たとえ失敗しても学校の卒業試験に合格すれば、地方の高級役人の地位を得ることが出来るとされている。もちろん、ミッションを完遂すれば、国の中枢で働くことが出来るのだ。エミルの場合、医術師資格試験に合格しているので、医術学校の卒業資格は得ている。つまり彼は、試験に失敗しても地方役人にもなることが出来る上、医術師としても働けるのである。因みに、医術学校在学中の資格合格者は少なく、同校付属の上級医術専門学校で更に3年間学び、資格を得る学生が殆どである。資格取得者のエミルは、同学年の学生たちが専門授業を受けていても、彼は例外扱いで、薬草採取などを自由に認められているのだ。いつも時間を忘れるくらいに夢中になり、今日もまた、彼の名を呼ぶ声がするまでそれは続いた。
「エミル、どこにいるんだぁ!エミル」
同級生のブランドンが、空馬を引き連れて迎えに来てくれたのだ。エミルは立ち上がると手を振った。
「ここです!少し待っていて下さい」
エミルはまだ日は高いと思ったが、せっかく迎えに来てくれたので約束通り帰ることにした。そして、薬草を入れたビンを紙に包むと、鞄に放り込み急いで下って行った。
「ありがとうブランドン!お陰で今日は、珍しいものが見つかりました」
笑顔で報告するエミルに、ブランドンは苦笑している。
「いつものことだけど、今日も何回君の名を呼んだと思う?全く君は没頭すると周りが見えないし、聞こえないんだからなぁ。やっぱり早めに来て正解だったよ」
「すみません、本当にそうだと思います。感謝します」
ブランドンから手綱を渡されると、エミルはひょいと身軽に鞍に跨り、手にしていた鞄を襷掛けにして馬の腹を軽く蹴った。馬はなだらかな斜面を駆け下り、カリナンの街を目指して走り出した。エミルの乗馬の師でもあるブランドンも併走する。乗馬自慢のブランドンは、普段からどんな馬でも乗りこなせると豪語している。そんな彼は仲間たちと遠乗りした時のこと、岩場の急斜面に怯える馬を宥めながら、見事な手綱捌きで下りたこともある。港湾都市ナザレブにある彼の実家は、大きな薬問屋を営む商家である。小さな頃から家業を手伝ながら馬に接していたといい、そのために乗馬が得意になったという。二人は馬を走らせ、やがて街の城門が近づくと速度を落とした。この大きく立派な門は、旅先から帰って来た市民たちに安心感を与えてくれるという。
「エミルは今度も帰らないのか?」
明日から3学年生たちは、卒業試験と就職や進学の為の準備休みに入る。ブランドンからの質問に、エミルはいつも同じ答えをするしかなかった。
「はい。家に帰っても、誰もいないですから」
カリナン出身のエミルは、もう8年近く自宅には帰っていない。優しい母親の笑顔は覚えているが、最近は父親の顔が思い出せなくなっている。彼は5歳からの10年間、王国民学校の時代から寄宿舎生活をし、長期休暇で自宅に戻っても父はいつも仕事で忙しく、自宅に居ないことが殆どだった。高級役人だという父は、エミルが眠っている朝早くに仕事に出かけ、彼が眠ってしまった夜遅くに帰って来るという生活をしていたようだった。ある日、とても楽しいことがあり、どうしても父にそれを聞いて欲しくて眠いのを我慢して起きていたことがあった。しかし、いくら待っても父は帰って来なかったのだ。母に理由を尋ねるといつも答えは同じで、仕事が忙しくて戻らなかったと言った。エミルが5学年生になると、父の都合とやらで家族は王都ヴィエナへ移って行った。エミルは6学年生になってからは、休暇に入っても家族が暮らすヴィエナへ行くことはしなかった。だが、そんな彼は一回だけ、5学年のその年に行ったことがあった。父が手配してくれた馬車で、彼の家族が住むという新居へと向かった。新しい家は、役人の屋敷とは思えないくらい大きくて立派だった。エミルは、驚きと興奮と期待で家の大きな扉を開けた。しかし、エミルを待っていた人の中に彼の両親はいなかった。彼の家に仕えている執事や乳母をはじめ、使用人たちだけが迎えてくれたのだった。
「ただいま!母さまは?」
「お帰りなさいませ、エミルさま。旦那さまと奥さまは、大切なご用事がおありでこちらにはご不在でいらっしゃいます」
「いつお帰りなの?」
「申し訳ございませんが、しばらくの間はこちらにお戻りのご予定はございません。エミルさまがご滞在されている間は、我々がお相手するようにと賜っております」
執事が淡々と答えた。この時の衝撃は大きく、父は元より信頼していた母までが去ってしまった事実に、エミルは酷く落ち込んでしまったのだ。使用人たちはそんな彼を気遣い、気分転換になるからと、王都の流行り物や珍しい物を持って来てくれたり、何日にも渡って立派な馬車に乗せ、国の中心的な建物や、美しく立派な王宮の庭を案内したり、大きな劇場で芝居を見せてくれたりしたのだ。しかし、幼い彼が興味を持った賑やかな市場や遊戯施設には、危険だからと近づいてもくれなかったのだ。そこでエミルは、ヴィエナで両親と住むことが出来るなら、こちらの学校に移りたいと執事に希望を伝えた。
「申し訳ございませんが、それは絶対になりません」
思ってもみない返事だった。理由は聞かされずに、きっぱりと拒否されてしまったのだ。それは、エミルがここに居てはいけないと言われたことに等しいと感じた。それから彼は、両親と一緒に住めないことを含め、自分自身に答えを出さなくてはならないと思った。そして、どんなに辛く寂しくても家族の元には帰らないことを決め、カリナンの寄宿舎暮らしを続ける決心をしたのだった。しかし、そんな彼でも家族との繋がりをすべて絶ってしまった、という訳ではなかった。エミルは時節以外にも手紙を書き送り、実家からは代筆の手紙の他に、身の回り品や小遣いが送られて来る。エミルは今年、年が明けて直ぐの新年の挨拶状と、医術師と薬草師の試験に合格したことを、そして先月にはミッションを受ける者に選ばれた事を書いた。
エミルとブランドンは、いつものように寄宿舎の前で馬を降りて厩まで引いて来ると、ちょうど管理人のヨーヒムが顔を出した。
「お帰り!今日は何か見つけたかい?」
「ただいま。今日は珍しい薬草を見つけましたよ」
「おおっ、それは凄いな。ブランドン悪いが、またそこの藁を運んでくれるかな?」
「今日はわたしがやりますよ。いつも、ブランドンばかりに任せていてはいけませんから」
エミルは馬を繋ぐと、ブランドンに礼を言って先に戻らせた。そして、外に積んである藁束を担ぐと厩へと運び、何度か往復をして片付けてしまうと、今度はその足で寄宿舎とは別棟にある図書室へと向かった。彼は図鑑や辞書を机の上に運ぶと、もくもくと調べ事を始めたのだ。自分だけしかいない静寂な世界に浸る、そんなエミルの周りでは時間はいつもゆっくりと、そして静かに流れてしまうようである。日が傾きかけ部屋の空気が冷たさを増した頃、パタパタと足音が近づいてくるとドアが開いた。
「やっぱり、ここにいたんだね」
ランタンを手にしたザザビーに声を掛けられ、エミルは驚いて窓の外を見た。
「そうだよ、もう暗くなってきてる。ブランドンが多分ここだから呼んで来てって」
「あーっ、また熱中してしまいました!」
失敗を自覚したエミルが頭を抱えて嘆く間、ザザビーは書物を全部片付けてしまった。
「ありがとうございます、ザザビー。君は救世主ですよ」
「君専用の救世主、ってことだね」
ザザビーは笑った。沢山書き込みをした紙の束を整え、丁寧に鞄の中にしまい込むとエミルはザザビーの後について寄宿舎へと戻って行った。4月といえども夜は冷え、ハープーン山脈から降りてくる冷気が吐き出した息を白くさせる。
「まだまだ寒いですね」
「まったくだ。君はそんな格好でいるから、余計に寒いんじゃないのか?」
ザザビーは、私服に厚手のマントを羽織っていた。まだこの時期は、学生の制服では昼間は充分でも夜の冷気には耐えられない。
「やっぱり君は、坊ちゃん過ぎるのかな?学業以外には殆ど興味無いんだから」
「いいえ!少なくても坊ちゃんではありませんよ。もう何年も、家族からは放って置かれていますから」
エミルに反論され、ザザビーは言おうとした言葉を飲み込むと、替わりに思い出した一件を伝えた。
「あーはいはい。そういえばフェルトが、届いた荷物を部屋に入れておいたって言ってたよ。じゃあ、夕食の時間まで」
「ありがとう!また後で」
ザザビーの部屋の前で二人は別れた。この宿舎では、3学年生だけが個室を与えられている。一つ置いた隣がエミルの部屋だ。彼が部屋に入ると、縄が掛けられた木箱が真ん中に置かれていた。荷物は実家から送られて来た物だ。エミルはナイフで縄を切ると蓋を開けた。箱の中には、蝋引きの紙に包まれた衣類が数着と、何冊かの新刊の書物に、靴と鞄。それに、真新しい剣が詰め込まれていた。剣は、美しい彫刻が施された鞘に収まっている。彼は剣を手に取り引き抜くと、その切先がランタンの光を鋭く反射させた。
「何て美しいのだろう!バランスがとても良い・・・」
エミルは、昼間に出会った紳士を思い出した。
(まさか・・・、あんなにも素敵な紳士が、わたしの父であるはずがないのに)
剣を鞘に戻しながらエミルは思った。既に、父の顔をはっきりと思い出せない自分に苛立ちを覚えた。今のエミルにとっての両親は、この寄宿舎の管理人夫妻なのだ。ヨーヒムが父、彼の妻エリザが母の代わりである。彼らは本当の息子同様にエミルを愛し、褒めたり叱ったりして支えてくれている。エミルは木箱の蓋を戻すと、学生の証であるガウンとローブを脱ぎ、丁寧にブラシをかけてクロゼットにしまった。そして、ローブの下に着ていたドレスシャツの袖を折り返し、スボンの裾を直していると、夕食の時間を知らせる鐘が鳴り出した。この鐘が鳴り出して直ぐに食堂へ向かわなければ、空いている席を見つけるのが面倒になるのだ。椅子の背に掛けてあった上着を着て廊下に出ると、賑やかにお喋りをしながら歩く、学生たちのいつもの光景がある。エミルが食堂まで来た時、扉の前に居たシェノワが手招きをしたので行ってみると、シェノワの隣に立っていた下級生が、ペコリとお辞儀をして自己紹介をした。
「こんばんは!エミルさん。初めまして、ぼくはウイルです」
緊張気味のウイルは、エミルに話掛けることが出来て嬉しそうだ。
「こんばんは。初めまして、ウイル」
シェノワによると突然、エミルさんですか?とウイルが訊いてきたという。人違いだけど彼とは友だちだと言うと、是非紹介して欲しいとせがまれてここで待っていたという。
「ぼく、管理人をしているヨーヒム伯父さんの甥にあたります。伯父さんからも、エミルさんが大変優秀な学生さんだと聞いていました。なので、お話してみたくなって・・・急にすみませんでした」
急に照れたのか顔を真っ赤にして俯いたウイルに、話の続きは後からにしょうとエミルは二人を長テーブルの端に誘った。エミルの隣に座ったウイルは、明るい金髪に白磁のような肌のエミルを、うっとりした眼差しで見つめた。どうやら彫刻のような美しさと、気品あるエミルに魅了されてしまったようだ。温かいスープが入った皿が配られ、寮長の発声により食事が始まった。大きな籠には焼きたての小さなパンが山盛りになっている。学生たちはパンを欲しい分だけ取ると、各テーブルの間を行き来させてたちまち籠を空にしてしまった。スープの後には、鶏肉のソテーと温野菜が盛られた皿が配られた。すると、ウイルの皿に温野菜の一つが飛びこんできたのだ。彼の前に座っている3学年生のセバスがニヤリとして言った。
「ジロジロ見ていると嫌われるぞぉ」
「あっあっ、あのう、ぼくは別にそんな・・・」
ウイルは恥ずかしくなって口篭ってしまった。エミルはそんなウイルを見て、セバスに下級生をからかわないように言い、体には野菜がとても必要なものだと嗜めた。
「野菜は必要かも知れないけど、美味しくないのはなぜだろうな」
セバスは無類の野菜嫌いだった。この日もどういう訳か、彼には温野菜が多めに盛ってある皿が配られていた。セバスは全部食べきれないと思うと、周りの誰かの皿にこっそりと移してしまったりするのだ。今日は下級生が目の前に座り、エミルに熱い視線を送っているのを発見して悪戯心を起こしたようだ。
「なあエミル、どうしたら野菜が好きになれる?オレには、野菜を美味しく感じる薬が必要だと思うのだが」
情けなく言うセバスにエミルは微笑んだ。
「わたしたちは、食事した食べ物の一つ一つが体になりますよね。口に合わない物でも、すべては体のためなのだと考えたらいかがでしょうか」
「なるほどそうか、考え方を変えればいいのか!って言ってもこの蕪はダメだ、絶対に不味いから!」
大きな笑いが起こり、その日の夕食も楽しく終わった。
「エミルいいかい?すずなり草についてなんだけど・・・」
「やあエバンス、効能についてですか?あっ、フェルト、荷物を受け取って頂きありがとうございました。ラムザは骨折の治療についてでしたね」
食後のお茶の時間になると、毎日のようにエミルの居る場所が3学年生たちの議論と解説の場となり、次々と集まって来るので今日もたちまち人だかりが出来た。彼らは授業で分かり難かった内容や、薬草の用い方を主な議題にしたりしている。ある者は、教授方の講義よりもここでの議論が分かり易く興味深いと言った。どんなに沢山の質問を受けても丁寧に答え、驕る態度を取ることがないエミルは、ウイルをはじめとする下級生たちに尊敬の念を抱かれている。やがて、3学年生たちとの議論がひと段落すると、エミルが話しかけてきた。
「遅くなりましたがウイル、先ほどの話の続きをしましょう。わたしは小父さまに、こんなにも素敵なお身内がいらっしゃるなんて知りませんでした。わたしの場合、それこそ誰よりも毎日お世話になっています。ですから、勉強しか教えることは出来ませんが、何か質問があったら聞いて下さいね。あっそうそう、答えられる質問だけですよ」
真面目な顔で言われたので、ウイルはそれだけで感激してしまい、頷くだけで精一杯だった。
「ああ、良かったです。わたしはもう、8年近く自宅には帰っていないのです」
エミルは続けた。帰省しない自分を気に掛け、家族同様に扱ってくれた恩をどうしたら返すことが出来るのだろうかと、毎日考えていることを告白した。
「そんなの考えないで大丈夫です!伯父さんも伯母さんも、恩を返せなんて絶対に言いませんよ」
胸を張ってウイルは応えた。
「ありがとうウイル、君は優しいですね。いえ、ヴァイツェ家の皆さまがお優しいのですね」
ウイルは右手を差し出した。その表情は緊張したままだったが、彼の意思を表すかのように瞳には強い光が満ちていた。
「エミルさん、ぼくはあなたを目指したいと思います。あなたのように早く資格を取って、役立つ立派な人になりたいです。だから、宜しくお願いします!お友だちになって下さい」
エミルは彼の手を両手で包むと、もう既に友だちですと言った。その時のことをウイルは忘れずに記憶に留め、事ある毎に思い出し幸せな時間だったと語っている。
カリナンの街が萌黄色に縁取られているこの季節、家々の窓辺では色とりどりの花を咲かせている。学校の花壇にも沢山の花、というよりは薬の材料になる花が咲いている。3学年生は今日から休暇に入り、授業を受けているのは1、2学年生たちだけである。エミルは私服にエプロン姿で、昨日採取した薬草の葉を天日干しにする作業をしていた。
「やあエミル、相変わらず熱心で関心するよ。おお!これは珍しい、ナレウトじゃないか」
「おはようございます、ハッブル先生。昨日、運良く見つけることが出来ました」
「それは良かった。ところでエミル、この前の話、考えてくれたかね?」
老教授は懐から眼鏡を取り出し、鼻に乗せると薬草に顔を近づけ、まじまじと眺めた。「この前の話」とは教授陣が一同に会した時、エミルを講師として招きたいと提案があり、彼に教鞭を取らせようと意見が満場一致した。そこでハッブルが口利き役となり、彼にそれを正式に伝えたのだ。
「どうだろうエミル。わしたちと一緒に教えてみないか?君なら我々以上に、良い教育者になれると思うんだが」
「ありがとうございます。わたしのような若輩者で、社会経験の無い者にとっては、とても光栄なことだと思います。わたしも、人に教えてみたいとは思いますが・・・・」
「ふむ、では受けてくれるか?」
ハッブルは眼鏡を懐にしまい、白い髭を蓄えた顎をしゃっくた。
「いいえ、先生。本当に申し訳ありませんが、わたしが教えるようになるのは今でなく、もっと先だと感じているのです」
そしてエミルは自分が資格試験に合格したのは、帰省しない分の時間的余裕があったからだと感想を述べた。そして、勉強することしか知らない自分が、人々の命を預かる医術師の教授になったら、普通の人が当たり前に経験してきたことを自分自身は何もしてこなかった、そのことが隔たりになりはしないのだろうかと心配していることも話した。
「ううむ、そこまで考えておったとは。では、君は一旦社会へ出て、色々と経験を積みたいというのだな?」
「はい。お許しを頂ければ、そうしたいと思います」
「いや、許すも許さないも君の人生だからのう。残念だが、今回は諦めるように皆に言っておかなければならない。すまなかったな、大事な時間を取らせてしまって」
ハッブルは咳払いをすると、ゆっくりとした足取りで教授室へと戻って行った。エミルはハッブルを見送ると、再び薬草を干す作業に戻った。細かい目の笊に数種類の薬草を移し終えると、次に始めたのは陰干しにする作業だ。空気が乾燥しているこの時期は、沢山の薬草を干す絶好の季節だ。木立の間に細いロープを何本か渡し、切り取った葉や枝、根を大量に括りつけた。雑用と言えば雑用ではあるが、エミルはこの作業をとても楽しく感じている。
「今日も精が出るわね」
洗濯物が入った大きな籠を抱え、エリザが通りがかった。
「はい。楽しいですから飽きませんよ」
薬草は作る薬によって、干す加減が違うところが魅力なのかもしれない。
「あっ、忘れるところだったわ!エミルに手紙が来ていたの」
彼女は籠を地面に降ろすと、エプロンのポケットから手紙を出した。ちょっと皺になった薄茶色の封筒は、宛先だけで、差出人の名前は書いてはなかった。手紙を受け取ったエミルは礼を言うと、ズボンのポケットに押し込み、空になった笊を集めて薬草の貯蔵庫に向かった。貯蔵庫には、乾燥させた大量の薬草が保管されている。独特の匂いが充満する室には、種類別にきちんと棚に並べられ、粉末に加工されたものはビンに保管されている。笊を片付け、それらの点検を終えると、一番奥の鍵を取り付けてある扉を開き、更に奥に進んだ。そこは毒性のある植物を保管してある場所で、学校長と教授、そしてエミルだけが入ることを許されている。数と種類は確実に管理され、毒性の強いものから上から順に置いてある。エミルは最下段にあるシビレ草を少しだけ取り分けると、先ほどの封筒に挟んで再びポケットしまった。そして、その扉に鍵を掛けると貯蔵庫を出て、宿舎の自分の部屋に戻って行った。彼の部屋には、薬作りの為の道具類が揃っている。小さく四角に切った油紙の束や、大小のガラスビン、秤と分銅もきちんと整理されて置かれている。そして、机の上に積み重ねた本の傍らには、鹿角の切れ端が入った皮袋も置いてある。エミルはポケットから封筒と薬草を出すと、引き出しからナイフを取り出して薬草を細かく刻み乳鉢に入れ、そのナイフで封筒を開封して手紙を読み始めた。そしてエミルは思わず声を上げた。
「10日後ですか!急がないといけないですね」
彼を慌てさせた手紙の送り主は国だった。内容はミッションの件で、今日からちょうど10日後に当たる日に「エムスにある州庁舎に朝9時集合」と書かれていたのだ。ミッションは、当事者の都合とは無関係に始められる。エムスの町はカリナンから遠く西方にあり、駅馬車に乗っても一週間近くかかる。ミッションにおける全行程の旅費は国から支給されるが、個人的なものに関しては自前で用意しなくてはならない。持ち物に関しては個人の判断で選択するが、危険を伴うこともあるので武器の携帯は推奨されている。エミルは明日にでも出発できるようにと、荷物をまとめようと思った。しかし彼は、荷造りよりも大好きな薬作りを優先してしまった。
「エミル居るかい?」
外で管理人のヨーヒムが呼んでいる。買い物以外の外出を滅多にしないエミルは、普段は学校の敷地内のどこかにいるのだ。
「はい。今行きます!」
急いで外に出ると、ヨーヒムの横には、見たことのない男がいた。
「彼がエミル・エスナールです」
ヨーヒムはエミルを紹介すると、お辞儀をしてその場を離れていった。男は離れていくヨーヒムを目で追い、一旦目を伏せると、勿体ぶるような口調でここに来た理由を語った。
「ミッションの件で来ました。今年は我がカリナンからは、君を含めて3人の受験者がでました。喜ばしい限りですねぇ、わたしはその人たちの管理、と言うか世話係りを命じられたバグスタです。以後お見知り置きを」
バグスタと名乗った40歳前後のその男は、ひょろりとした骨ばった体格で神経質そうな顔をしている。黒い髪と髭とが、更にその印象を深めているようだ。
「初めまして、バグスタさん。お世話になります」
エミルが握手をしようと差し出した手に、バグスタの視線が痛い程に刺さり、彼はそのまま手を引っ込めなくてはならなかった。
「すみません、手が汚れていました」
「いや、いいのです。わたしは握手はしない主義ですから。では、これを」
小脇に抱えていた焼印が押された木の箱をエミルに差し出した。
「これは何でしょうか?」
何気なく質問してしまったエミルに、渋い顔をしたバグスタはとにかく箱を受け取るように催促した。
「手を出さないと、受け取ることはできませんねぇ。わたしは忙しい身ですよ!」
「申し訳ありません、ありがとうございます」
差し出されたエミルの手のひらに触れないように、バグスタは少し上からその箱を落とすようにして渡した。そして、後のことは箱の中を見れば分かると言い残し、踵を返すと自分の馬車に乗り込みそのまま帰ってしまったのだ。バグスタの行動に呆気に取られてエミルがその場に立ちつくしていると、遠くから心配そうに見守っていたヨーヒムが小走りでやって来た。
「エミル大丈夫か?あの男に何か嫌なことでも言われたのか?」
首を振ったエミルにヨーヒムは微笑みかけると、無言で彼を抱きしめた。もう、背の高さも殆ど変わらない。エミルはヨーヒムに抱擁され、まるで父に抱きしめられたような錯覚を覚えると同時に、懐かしい思いも交錯して自分がまだ心配される子どもなのだと感じた。
「小父さま、心配させてすみませんでした」
ちょっと照れながら言うエミルに、ヨーヒムは薬草の片付けを手伝うと言ってくれた。おかげで大量の薬草が短時間で片付けられ、すべてが貯蔵庫に収まった時にヨーヒムはエミルに言った。
「いつも言ってるけど、遠慮しないで甘えていいんだよ」
ヨーヒムは、いつも遠慮ばかりするエミルに言葉で伝えた。一方のエミルは正面切って言われると、どんな対応をすればいいのか分からないでいる。中途半端だと思いながらも、微笑みながら頷いた。そして、ヨーヒムに小さく手を振ると部屋に戻って行った。それはまるで、小さな子どもが照れ隠しをした時のようにも見えた。そんなエミルの後ろ姿にヨーヒムは独り言を呟いた。
「本当に良い子だよ、エミルは。どこの坊ちゃんか知らないけれど、親御さんも酷なことをするよな」
ヴァイツェ夫妻は、エミルは名のある家の男子で、事情があり親元から離れているとだけ聞かされていた。
2 試行錯誤するとき
すっかり旅支度が整った二日後の朝。学校長と教授陣に挨拶を済ませたエミルは、ヴァイツェ夫妻に会う為に管理棟に行き、ドアをノックすると部屋に飛び込んだ。夫妻は昼食に使う葉物野菜の選別をしていたところで、初めて見せたエミルのお茶目な一幕を見ることになった。
「小父さま、小母さま。しばらくお別れしなくてはなりませんので、ご挨拶に伺いました」
「ビックリしたよ、驚かせたかったのかい?でもね、小父さんはそんなことでは、君が出発することを認めないよ」
少しおどけてヨーヒムが言うと、エリザも同じくという顔で笑っている。実は、薬草の片付けをしている時に、試験の間はごく普通の少年でいることをエミルにアドバイスをしていたのだ。そんなエミルは、周りの友人たちの振る舞いを真似てそれを実行したのだ。
「小父さまの宿題は難しいです。無作法だと叱って下さい」
「ハハハハハ、分かっていればいいんだよ。でも、その辺りが難しいんだ」
「そうね、エミルは良い子過ぎるから」
エリザは作業の手を休めると、エミルを抱き寄せ、無事に帰ってきて欲しいと願った。
「はい、必ず無事で戻ることを誓います。だから小母さま、泣かないで」
ヨーヒムは二人をいっぺんに抱きしめるようにして、エミルが無事に帰って来たらパーティーをするのだと宣言した。
「君の好きな鹿肉のシチューとハニーパイでお祝いしよう!」
「はい。小母さまのお料理は絶品ですからね、頑張って行ってきます」
三人はがっしりと握手をした。
「約束よ、エミル」
涙ながらに手を振るエリザとヨーヒムに大きく手を振り、エミルは医術学校の門を出た。彼は平服に襷掛けにした大きな皮鞄、少し大きめのポーチと剣を腰につけて、上からフード付きの長いマントを羽織っている。旅好きの友だちが教えてくれた、流行の旅装だ。学校近くの花壇の前で、カリナン州が特別に手配してくれた馬車を待った。ミッションの挑戦者となるエミルは、どんな仲間たちと組むのか、どんな内容のミッションなのか全く知らないのである。やがて、二頭立ての少し古い馬車がやって来ると彼の前に停まった。御者がぶっきらぼうに受験者なら乗るようにと言うので、エミルは返事をして軽く会釈をしただけで馬車のドアに手を伸ばした。すると、彼が開けるより先にドアは内側から開いた。「やあ!」と元気の良い声がして手が差し伸べられたのだ。エミルは驚きながらも礼を言い、その手を取って乗り込むと、女の子じゃなかったと先客から言われて面食らった。馬車には既に二人の少年が乗っていたのだ。切り揃えた前髪に、几帳面そうな風貌の小柄な男子と、大柄で血色が良い元気そうな男子だ。エミルが座席に座ると、見計らったように御者が鞭を入れ、馬車は石畳に蹄の音を響かせて出発した。
「こんにちは、初めまして。わたしはエミル・エスナールです。期待させてしまったようですみませんでした」
「ハハハッ、まあいい。男三人旅でもいいかな」
体は大柄でも気風が良さそうな彼が、続けて自己紹介をした。名前をエルネスト・フォレスといい、武術学校の主席だという。
「で、コイツがぁ」
と、隣に座っている小柄の彼を紹介しようとすると、自分でするからとエルネストを押しのけて自己紹介した。
「ぼくは、シャイン・バッキオ。算術学校の主席です。君、エスナール君は医術学校の主席ですか?」
「はい、そのようです。わたしは最近、医術師と薬草師の資格を取りました」
「ええーっ!」
二人は驚いて声を上げた。
「そんなに驚かないで下さい。わたしはまだ医術師になりたてのごく普通の人間ですから」
「いやいやいや・・・」
彼らは人差し指を左右に激しく振った。
「君は、多分普通じゃないでしょう。ぼくらよりも年上の人ならあり得るけれど」
シャインが同意を求めるような視線をエルネストに送ると、エルネストも首を縦に振った。
「そうですか?変わっているのでしょうか・・・」
エミルが困った顔をすると、慌ててエルネストが言った。
「変じゃない!オレたちそんな秀才って言うのか、天才を知らないんだ。アンタ天才だ!」
「そうだ、君は天才だよ」
シャインも同調している。
「やめて下さい、お二人とも」
制止するエミルを他所に、二人はエミルについて勝手に想像を膨らませて盛り上がってしまった。
「あのですね、わたしは放蕩息子のような存在ですから、皆さんの想像するようなことはありませんよ」
放蕩息子を引き合いに出したエミルに、二人は直ぐに反応した。
「つまり、エスナール君は医術師の家系でも、貴族階級でもないってことですか?」
「はい、そうです」
「でも、なんだぁ?言葉使いが丁寧で上品ってのは、やっぱり上流階級の出身なんだろ?」
腕組みをしたエルネストは、少し疑っているようだ。
「わたしには、しばらく家には帰っていない事実があります。それに、父はただの高級役人です」
「高級役人だって?役人と言えども幅広いからなぁ、ふぅむ。オレのオヤジは軍人だ。今は、ナザレブで地方総監やってる。オレはオヤジより立派になって、軍の精鋭を指揮したいんだ」
夢を語るエルネストに、エミルは少し羨ましさを感じた。なぜなら、エミルはまだ将来の予想図を描くことが出来ていなかったのだ。
「ぼくはですね、母は裕福な商家の出身ですが、父はごく普通の平民出身なのです。父は努力して、今では州庁舎で算術師として働いています。因みに、ぼくの兄も算術師として予備校講師をしています。だから算術ファミリーとも言えますがね」
ちょっと自虐的に話すシャインに、エミルは父と同じ道を志すのかを訊いてみた。
「カエルの子はカエルって言いますよね?もちろん、ぼくも州か国の算術師を目指しています。フォレス君と同じようなものですね」
「違うぞ!オレはオヤジより上を目指すんだ。上だ!」
豪快にエルネストは笑った。そして、唯一将来を語らなかったエミルに尋ねた。
「天才!アンタはただの医術師でいいのか?それとも、王立とか州立病院とかの医術師か?」
「その、天才とか呼ぶのはやめて下さいよ。将来のことはまだ決めていませんが、わたしはエミルと呼んで頂きたいのです」
「うん。じゃ、オレはエルネスト!そのままでいい。小さいの、アンタはバッキオでいいのか?」
「いい筈ないじゃないですか!シャイン、とちゃんと名前で呼んで下さいよ」
そして三人は直ぐに「エミル」「エルネスト」「シャイン」と呼び合うようになった。同じ年齢同士ということもあり、打ち解けるまでの時間は掛からなかった。
「わたしは、あなた方が良い方々で、本当に良かったと思います」
「うむ。オレもそう思うよ、アンタたちとなら良い結果が出せるだろうけど、嫌なヤツが一緒だったらと思うと」
「ぼく、行くのやめます!って言うところだったよ」
三人は、あの高飛車な役人の顔を思い出していた。そして、何かに気づいたのかシャインが言った。
「もしかしてミッションって、もうスタートしているんですかね?」
「手紙ではエムスの街にて合流の後、始まるような書き方がされていましたが」
「ってことはだ、今はまだ前提なんだな?」
「ぼくは困りますよ」
シャインは何か焦りを感じているようだった。
「なぜですか?」
「だって、せっかく皆さんと知り合いになれたのに、向こうに着いた途端にまた違う人たちと組むなんて、引っ込み思案のぼくとしてはとても嫌なことですよ」
エルネストは気にしていないのか、シャインのことをどんなに箱入りなんだと笑い飛ばした。しかし、エミルはシャインに同意した。
「そうですね。手紙の文面からは、同じ出身地の挑戦者たちが、同じグループで挑むとは書いてはなかったと思います。ですから、その点に関しては気が重くなっても仕方ないですね」
三人は再びあの役人を思い出してしまった。
「あーやだやだ。あの野郎みたいなのと組むって言われたら、こちらから願い下げてやるぞ」
何だかんだと言っても、エルネストもあの手の人間は嫌いなようで、何かを追い払うような仕草をした。やはりあの役人はエミルに接した時と同じく、この二人にもあんな態度を取ったのだと容易に想像出来た。全員が口を閉ざしたので、馬車の中はすっかり澱んだ雰囲気になってしまった。何とかそれを変えたいと思ったエミルは、ミッションに関しての記述を思い出していた。受験者はクジ引きでグループを組むが、その限りではない年もあるとの一文が確かにあった筈なのだ。
「あのう、思い出したのですが、その限りではない年もあるとありました」
「その限りって何だ?」
「もしかして、そのままでもあり得ると?」
シャインが目を輝かせた。
「はい。そうだと解釈できます」
「わーっ、そうだといいなぁ」
少女のような仕草を見せたシャインに、ニタニタとエルネストが笑っている。するとシャインは、兄の他にも妹たちがいると言った。
「妹たちと言っても、妹は二人居るんですが、ぼくが主に面倒を見てきましたから」
照れくさそうに頭を掻いた。「兄弟」という存在が少し羨ましいエミルには、自分には兄弟がいるのかいないのか全く知らないことが不思議に思えた。
「実はオレにはさ、年の離れた姉様がいるんだよ。もう、とっくに嫁に行っちまったけどさ。でも、いいよな女の兄弟はよ?華があって」
シャインは妹たちを思ってか、頬を緩ませているのでエミルも何となく微笑んだ。王国民学校時代には、女子と同じ教室で一緒に勉強をしていた。しかし、現在の医術学校には女学生は一人もいない。そう思うと、女子が居た学校は、華やかで楽しい雰囲気があったのを思い出した。エミルの周囲の女性はというと、母親の他には割と歳の多い奉公人しかいなかった気がした。そして、同世代の女性との接点が余りにもないことに、改めて気付かされたのだった。
「変な質問かも知れませんが、エルネストの武術学校や、シャインの算術学校には、女子は在籍していますか?」
二人は一瞬きょとんとして、お互いの顔を見合わせると笑った。
「当然だよ」
「当然ですか?わたしの在籍する医術学校には、一人もいらっしゃらないですよ」
それを聞いた二人は哀れむようにエミルを見た。
「不公平だと思うかも知れないけれど、学問の違いがそうさせているのかもな」
「医術学校も共学を謳ってますよね?ということは、つまり女子の希望者が皆無ということですよ」
「・・・・何だか空しくなってきました」
その時のエミルは、同世代との世間的な経験値が圧倒的に低いことを、殊更に感じて空しく思えたのだ。しかし、同乗している二人には、それとは別な意味で気の毒に思ったようで、大丈夫!これからチャンスは沢山あるはずだ、と励ましてくれたのだった。
どのくらいの時間が経ったのだろうか、窓から見える景色はすっかりと変わっていた。お喋りに夢中で外を眺めることをしなかった三人は、街道の両側に広々とした畑が広がる景色を食い入るように眺めた。豊穣をもたらす大地、作物を作る多くの人々、整備された道を行く商人の隊列。カリナンからヴィエナへ向かった時には、交易商人たちのもっと大きな隊列をいくつも見たのを思い出したエミルだった。
「この国は本当に豊かなのですね」
「ああ、確かに豊かだ。だから狙われるんだ」
「狙われる?この国の富をですか?」
「うむ。一般の人々は豊かな生活にどっぷり浸かってるから、意識しないだろうけど、他国の権力者たちは豊かなこの国を奪おうと、いつも隙を窺っているんだ」
軍人が至る所で目を光らせているのは、この為だとエルネストは言った。
「そうですね、確かに豊かですよ。石高と言ってしまえばそうなんですが、各州の収益は右肩上がりの所は多いですよ。ぼくたちの学校の演習でも、ある州の収支を例に学びましたから」
ひと言で収支と言ってもそれが膨大なものであるのは、エミルやエルネストでも想像がつく。地道に計算をするシャインたち算術師に頭が下がる思いの二人だった。
「もうじきウーベンに着くはずだけど」
窓の外を窺うようにしてシャインが呟いた。
「ウーベン?ラッツではないのですか?」
「おおっ、さすがだエミル。下準備してきたな」
あの役人が持ってきた箱には、ミッションに関する規則が書かれた文章や、簡単な地図、予定表、王国発行の通行証、為替などが入れられていたので、エミルは馬車の予定する行程順路も確認しておいたのだ。
「最初に乗ったぼくに、御者さんが変更になったと言ってましたよ」
シャインの説明によると、ラッツよりもウーベン経由で行ったほうがエムスに早く着くからと、カリナンの役人に言われたので変更したというのだ。本当に早いかどうかは学生である彼らには分からないが、そのことで御者は、役人から多めに心づけをもらったようだとも話した。日暮れ近くになり、小さな街並みが見えてきた。こじんまりとしたウーベンの町だ。馬車が一軒の古ぼけた小さな宿屋「黄金の穂」の前に停まると、少年たちは恐る恐る初めての地に降り立った。御者は慣れた手つきで馬を馬車から離すと、厩へ引いて行きしばらく戻っては来なかった。
「仕方ないけど、ここしか泊まる宿はなさそうだな」
辺りを見回していたエルネストが呟いた。寂れた町のその宿には、他に宿泊客はなく閑散としていた。一行が到着してしばらくすると、食堂の大きなテーブルには心尽くしの料理が並べられた。「交易西方大街道」通称西街道が整備される前までは、このウーベンは栄え、流通の拠点のひとつだったと宿の主人が語った。しかし、今では新しい街道から外れてしまっているので、寂れるままになり敢えてこの町に立ち寄る旅客は少なくなったという。
「お客さんたち物好きだね。今じゃ新しい街道の方が早いから、皆そっちを行くのにねぇ」
宿の主人の言葉に学生たちは驚いた。
「ご主人!こちらの方が早いって聞いたんですけど?」
慌ててシャインが言う。
「いやぁ、西を目指すなら遠回りになるよ。君たちのカリナンからじゃ特にそうじゃないかな?エムスへ行くまでには一日、二日遅くなるだろうよ」
三人は言葉を失った。ごく普通に、州政府から送り出されたと思っていたのだ。しかし、現実は違った。なぜ自分たちは遠回りをさせられるのだろうか、それは故意にされたのか、このようなことはミッションにおいてあるべきことなのかと・・・。
「すみませんが地図があったら、後から見せて頂けますか?」
エミルを含め、少年たちは詳しい位置関係を確認したかった。空腹を満たし食器を片付けると、宿の主人が古い地図と新しい地図をテーブルに広げて見せてくれた。
「んーと、ここがカリナンで、今居るのがここで、目指すエムスはこっちだ」
主人が順を追って指し示してくれた。新しい地図では、確かに西方街道を離れて大きく迂回しているように見える。古い地図で見ると、本来寄るべき町のラッツはずっと先だった。因みに、彼らに配布されている地図にはルーベンの町は載っていない。
「疑いたくはないのですが、庁舎には古い地図しかなかったのでしょうか」
エミルが言う通り、古い地図しかなかったらルーベンへと指示するだろう。
「いや、あるはずだ。おかしいだろ?旅程ではラッツと書いてあるのをヤツらは知っていたんだぞ。それを、敢えてルーベンへ行くように仕向けたのは役人の策だろ!」
「でも、どうしてなんだろ。なぜ、ぼくたちを嵌めるようなことをしたんでしょう」
御者を含め、その場に居た全員が押し黙ってしまった。
「大切な試験を受けに行くっていうのに、これじゃ間に合わなくて失格じゃないか!」
エルネストは声を荒げて怒りを露にした。シャインはおろおろして落ち着かない様子であったが、丹念に地図を眺めていたエミルがあることに気が付いて口を開いた。
「皆、諦めてはいけません!シャイン、少し計算して頂けませんか?」
エミルは地図を数箇所指して、その道のりを計算するように頼んだ。シャインは腰に着けているポーチから、折りたたみ式の物差しに筆記具、計算具とクシャクシャになった紙を取り出した。
「間に合いそうか?」
心配の余りシャインの書き出す数字を覗き込む宿の主人に、シャインは短く返事をすると次々と計算していった。彼にとって簡単な計算かも知れないその作業は、しばらくすると終わった。
「大丈夫!間に合いそうだよ」
張りのあるシャインの声に全員の視線が注がれ、安堵の溜息が漏れた。
「御者さん!」
突然のエミルの呼びかけに、御者は驚いてビクっとした。
「すみませんが、これからの行程はわたしたちの言う通りに進めて頂きます」
「あいよ、何かの手違いがあったとしてもアンタらに罪はない。仰る通りに行きますぜ」
「では明日、ここを出てからの行程を説明するので聞いて下さい」
新旧の街道がうねり、大きく離れたり交差したりしている箇所を効率よくカットし、一般市民が使う生活道路を進むように、エミルの指先が地図を這った。
「ふぅん、なるほど。俺たち馬車屋はそんな道、滅多に通らないけどな」
「そうだと思います。わたしたちは、この事態に早く気付くことが出来て良かったです。余裕があるとは言えない行程ですからね。それにもし、このことで料金が不足であればわたしたちがなんとか工面します」
それを聞いた宿の主人は機嫌良く、いつもは作ることがない弁当を、彼らの為に特別に用意すると約束してくれた。
「明日からは時間と距離の戦いだな。こうなると、今晩は早めに休んだ方がいいぞ!」
「はい。ありがとうございます、ご主人」
彼らは各々の地図に行程上の町や村を書き込むと、ベッドが4台置いてある大きな部屋で寝ることになった。その部屋は使い込まれているが、清潔に整えられていた。
「あーっ、第一日目にして酷いことが起きましたね」
シャインは一番手前のベッドに腰を下ろした。
「全くだ、何の恨みがあるのか思い出すと腹が立つぞ。しかしエミル、アンタがあの道に気付いてくれなかったら、オレたち全員失格の憂き目に会う予定だったからな。恩に着るよ」
エルネストは二番目のベッドに大の字になった。
「油断は出来ないと思います。彼を信用するのには、まだ早いかとわたしは考えています。もし、明日の朝になって、馬車が無くなっていたらどうしますか?」
三番目のベッドに畳んだマントとバッグを置き、エミルは二人に向かって言った。
「それは困る。でもあの御者は、こちらの言った通りに行くって言ってはくれたけど、もしかすると嘘かも知れんな」
むっくりと起き上がったエルネストは、腰に着けた剣を確かめるように触った。それを見たシャインは慌てて、懇願するようにエルネストに言った。
「エルネスト、くれぐれも先走ったことはしないでおくれよ。そうでないと・・・」
「ああ、分かってる。オレたちはまだ学生の分際だ。みだりに武力に頼ってはいけないからな」
「その通りですね。わたしたちが問題を起こせば、学校を始め関係する所の方々に多大なご迷惑をおかけしてしまいます。それは絶対に避けなければなりません。例え相手に挑発されたとしても、それには乗らずに常に冷静に対処しなくてはなりませんね」
「まるで教師みたいだよ、エミル」
シャインの言葉にエミルは苦笑した。
「すみません。話し方が、硬すぎましたか」
三人はお互いに、小さく笑った。そんな時、酒の臭いをさせて御者がやって来た。
「すまんな、楽しんでいる所。俺もこの部屋で寝てくれって、主人が言うものでさ。君たちが嫌だったら部屋を変えてもらうけど?」
「いえ、むしろ歓迎です。ちょうどわたしたちは、あなたの悪口を言っていたところですから」
エミルの言葉に他の二人は驚いた。
「悪口だってハハハハッ。そんなの言われ慣れてるけど、大人に対してどんな悪口を言ったんだい?」
どこか冴えない顔のこの男は、白髪の混じった頭を左右に振った。「学生たちの悪口」とやらを聞いてみたくなったようだ。
「本当に言ってもよろしいですか?多分、ご気分を損ねますが」
「あっうー、まあいいだろ。腹は立つかも知れんが聞くぞ。何て言ってたんだ?」
エミルは、御者とのやり取りに驚いているであろう、エルネストとシャインを意識して、わざと大げさに、且つ大胆に言い放った。17歳であっても立志で誓いを立てた身で、自分たちは大人と同等に扱われるべきだ。ところが今回、こちらには何の相談もなく、国の催す試験の一つにおいて、一方的に変更され、不利益を被ることをされた。それは国としても許し難い不法行為なので、それ相当の償いをしないといけない。特にこの場合、実行した御者がその全ての責任を負わなくてはいけない、というものだった。勿論、そんなことは実際にはあり得ない話だ。ところが、その話を真に受けた御者は、視線を宙に彷徨わせると、挙動が不自然になった。彼は深くは考えずに、この件を安易に引き受けてしまったようだ。
「そうなのか?全てはおれの責任なのか?あのダンナ、学生が何か言ってきても聞くなと言ってた・・・。けどよ、不実で金を握らせたなら俺は許さねえ。畜生!俺も嵌められたんだッ」
悔しがる御者に、エミルは追い討ちをかけるように言った。
「あなたも早くお気がつき、宜しかったとわたしは思います。でないと、あなたは本当に悪人に成り下がってしまいますものね、御者さん」
「俺の仕事は御者だけど、名前があらぁ、ユーリって名前がな!」
御者は悪人呼ばわりされて、余計に腹が立ったようだ。
「すみません、ユーリさん。明日からは間に合うように飛ばしてもらう予定ですから、もうこのへんで休みませんか?」
「おうよ!坊ちゃんたち、早くおねんねしな。明日は突っ走ってやるぜ!」
「はい、お休みなさい・・・」
ユーリは靴を放り投げるようにして脱ぐと、いちばん奥のベッドに潜り込み、豪快な鼾と伴に眠りに落ちてしまった。エミルは彼の靴を揃えると、エルネストとシャインの方に向き直って両手を広げてみせた。エミルの謀は成功したようだ。エルネストは、大した役者だなと呆れたように笑った。その晩は、緊張が解けたことと疲れもあって少年たちも直ぐに眠ってしまった。
エミルは夢をみた。ヴィエナの屋敷に居るのは、まだ小さなエミルだった。いつも一緒にいた乳母が「お父さまが、お帰りになりましたよ」と玄関で言っている。エミルはすぐさま玄関へ向かって走った。そして、足にまとわり付く子犬のように父にすがった。「父さま!お帰りなさい。今日、わたしは悪い人を懲らしめてやりました」と報告すると、父の優しい手が彼の頭を撫でてくれた。エミルは嬉しかった。しかし、彼の身長からして見上げれば父の顔は見えるはずなのに、どうしても見えなかった。「ねえ父さま、少し立派になったと思われますか?」すると父は跪き彼を抱きしめてくれた。美しい茶色の髪がエミルの頬を撫でる。この時も、見えたであろう父の顔は分からなかった。「あのね父さま、あのね・・・」急に場面が変わり、大広間にポツンと一人佇むエミルだった。その中では、淋しさと悲しさで出来た目に見えない海が広がり、彼は溺れそうになってもがいた。
「エミル起きろ!エミル」
聞き覚えのある声がして目を覚ますと、シャインとエルネストが覗いていた。
「おはよう、どうかしましたか?」
夢見の悪さから、頭がすきりとしない。しかし、ベッドから起き上がるまでに、シャインとエルネストの矢継ぎ早の報告は、エミルの脳を瞬時に覚醒させた。少し前に部屋のドアが閉まる音がして、シャインが目を覚ました。エルネストがトイレに行ったのだと思ったが、隣のベッドからは鼾が聞こえたので、起き上がって奥を見るとエミルはまだ寝ていて、その向こう側の一番奥に寝ているはずの御者の姿がなかったのだ。シャインは直ぐにエルネストを起こして確認させたという。
「荷物も無かったぞ」
「直ぐに外を調べてみましょう」
エミルは今一度、奥のベッドがもぬけの殻になっているのを確認した。足早に部屋を出ると、馬の嘶きが宿の前から聞こえた。
「まさか!?」
意外にも一番足が早かったのはシャインだった。階段を飛び降りるように下ると、玄関のドアを体当たりするようにして外に飛び出して行った。
「おう!早いじゃないか坊ちゃんたち。まだ出発しないぞ!ちゃんと朝メシ食ってから・・・ってもしかしたら、俺が逃げ出すとでも思ったのかい?アハハハハ」
ユーリの言葉は図星だった。三人は曖昧に笑い、寝坊したから置いていかれると思った、とその場を取り繕って再び部屋に戻っていった。
「焦りましたね。でもまだ、昨日の薬が効いているようで安心しました」
小声でエミルが呟くと、薬草師殿の匙加減が良かったのだとエルネストが言った。
「ぼくはハッキリ言ってエミルは強引にやり過ぎたと思ったよ。あの話は冷静に聞けば、責任転嫁されたことに気がつく筈だけど・・・」
シャインは続けた。
「でも、彼はお酒を飲んでいたからその判断が出来なかったんですね。結果的には、あれは薬になったのでしょうけど」
「でもまあ、シャインよ。オレたちは、まだユーリさんを心底信用したらいけないな。大人ってヤツは、いつ裏切るか分からんからな。こちらも、そのつもりでいないとな」
シャインはコクリと頷いた。
「そうですね。エムスに着くまでは、そのままでいて欲しいです。それにわたしたちは、どんなに妨害されてもミッションを成功させなくてはいけないと思うのです」
「その通りだ!」
「頑張ろうよ!」
三人は頷き、手を取り誓い合った。そして彼らは身支度を整え、それが終わった頃に階下から、朝食の準備が出来たと声がかかった。宿屋の主人と女将さんはまだ暗いうちから起きて、朝食の準備と彼たちとの約束のサンドイッチを作ってくれていた。朝食メニューは麦粥と木苺に手作りの山羊のチーズ、そして絞りたてのミルクだった。少年たちは食事が終わると、宿の支払いを済ませて主人と女将さんに礼を述べた。
「君たちの試験の結果が良かったら、手紙で教え欲しいな」
「はい!ぼくが代表して必ず書きますから」
「頑張って来いよ!」
主人の励ましの言葉に、彼らは力強く返事をして宿を後にした。
「さあ、これからが本当の旅の始まりだぜ!」
御者台からユーリが声をかけてきた。まるで、はしゃぐ子どものように愉快そうな声だった。ユーリの掛け声で馬は速度を増し、昨日とはまったく違う速さで馬車は進んで行った。行程は、ユーリの頑張りもあって予想以上に軽快な速さで進むことが出来た。二日目の宿泊を予定していた町はとっくに通過して、その三つ先の町である「サーム」に日暮れ近くに着いた。
「どうする?坊ちゃんたち。この町で休むか、頑張ってもう一つ先にするのか」
町の一軒の宿屋の前で馬車を停め、ユーリが訊きに来た。
「そうですね、馬のことを考えれば休んだ方が良いかと」
エミルは馬の疲れが心配だったので馬車を降り、ここに泊まることを提案した。
「馬たちも、今日は酷く使われたと思っただろうから開放してやろうじゃないか」
馬の扱いに慣れたエルネストも同意した。しかし、馬とは関係のない生活をしているシャインは、よく分からない様子だった。
「ぼくは、どのくらいで馬が疲れるのか全く知らないんですよ。今日はもう、疲れてヘトヘトなんですね?」
「あたぼうよ。馬でも走り続ければ、人間と同じように疲れるんだよ」
エルネストは愛しむように馬の首を撫でている。それを見ていたシャインも、おっかなびっくりしながら馬を触ってみた。彼は生まれて初めて馬に接し、その温かさを知ったのだ。一方のユーリは、この宿に今から泊まれるのか訊いてくれたが、渋い顔をして彼らの待つ馬車へ戻って来た。
「坊ちゃんたち困ったぞ。泊まれるけどまた相部屋なんだと、どうする?」
「いいではありませんか、わたしは賛成ですが」
即答したエミルに二人も賛成した。
「でもよ、二人づつだってさ。それでもいいのか?」
少年たちは、ユーリさえよければと答えた。この時点で、御者と相部屋になるのはエミルの役目だと彼は信じてした。ところがシャインが、小さな子どものように好奇心が溢れ出てしまったようで、ユーリと同じ部屋がいいと立候補したのだ。
「シャインのヤツ、馬に目覚めたのか?」
エルネストの豪快な笑いに誘われて皆で笑った。小さな頃から動物たちと接することが無かったシャインは、17歳になって初めて馬に触ることが出来た。その喜びの大きさは計ることが出来ないが、経験しなかったことをこれからするという興奮が大きいのだろう。
(そうだ!わたしもそれをする為にここに居るのだ)
エミルは、自分自身についての再認識をしたのだった。
次の日の朝、シャインは興奮し過ぎて眠れなかったと言った。というのも、馬についての知識がない分、ユーリから聞き出そうとしてあれこれと質問したようだ。そのおかげでユーリは寝不足だとぼやき、途中で誰かに交代を頼むかも知れないと冗談を言った。
「さあ、坊ちゃんたち、今日はアマレの橋を渡っていくぞ!」
ユーリは機嫌よく手綱を握った。
「アマレの橋と言ってましたが、どこでしょうか」
鞄から地図を出すと、エミルは探し始めた。エルネストも一緒にそれを覗き込んでいる。するとシャインが、何も描かれていない地点を指した。
「あーそれはですね、この辺りですよ。宿に泊まっていた人が言うには、最近通れるようになったとかで、エムスまで最短で行けるそうですよ。なのでぼくの独断ですが、そこを渡ることにしたのです。よかったですよね?」
「勿論です。その橋は新しい橋なのですか?」
「詳しくは分かりませんが、前からあったようですよ。一般人が通行出来なかったとかで、領主がそれを解禁したらしいです。例え渡れなくても、少し上流に大きな橋があるから大丈夫だと、ユーリさんが言ってましたから」
「もし、そこを通ったとして、どのくらい短縮出来るのでしょうか?」
「ざっとだけど、半日弱くらいかな」
半日は貴重だった。最初に渡されたミッションの行程で五日間、あの忌まわしい行程では七日間、彼らが考えた行程は四日間だ。彼らは早めにエムスに着いて下準備をしたいと思っているのだ。
「ふむ、いいぞシャイン!良いことを聞いたな。山道じゃないから短縮間違いなしだ」
エルネストに褒められて満更でもないシャインだった。馬車はひたすら走り、午後になって馬車の揺れが眠気を誘ってくる時間、その橋の手前まで来た。ところが、それまで順調に走ってきた馬車が急にゆっくりとなり止まってしまった。そして、ユーリが御者代台から飛び降りると、少し離れた所で大声で誰かに罵声を浴びせたのだ。何かのトラブルが起こったのかと、少年たちは馬車を飛び降りてユーリの元へ走った。
「ほら、お客人も心配して降りてきちまった。なぜダメなのか言ってくれ」
「ダメなものはダメなんだよ!」
農夫と思われる男が、橋の手前に農具や荷馬車でバリケードを築き、橋を渡れないようにしている。
「小父さん、なぜあんなことしてるの?通せない訳っていうの、話してくれる?」
エルネスト風訊き方だろうか、言葉は悪いが相手に警戒心を起こさせないようだ。
「あんたら、よそ者は知らんだろうが・・・」
初老のその男は、なぜ橋が封鎖されているのかを話してくれた。この橋は軍事的にも重要なために、地図には記されていない。今までの領主は、軍と向こう岸に農地がある農民は通しても、一般人の通行を禁止していた。ところが昨年、新しい領主が赴任すると「アマレの町人を含み、一般人なら誰でも渡っても良い」ということになったという。町人は喜んだが、実際には困ったことが起きた。それは「通行税」を払わなければ農民と言えども、橋を渡ることが出来なくなってしまったのだ。
「オイラたち農民は、殆ど毎日畑に行かなければならん。けど、毎日通行税を払う余裕がないから困るって訴えたんだ。そしたら、その分の税金を上げると言い出してこのザマだ」
バリケードを設置したのは、一見すると農民のようだが実は領主側の人間がやったという。
「何だか複雑な話ですよね。税金を上げなくてはならないような事情があるんでしょうねぇ」
シャインは彼なりの感性で、町の様子をしばらく眺めていた。だが、街の佇まいは他の地方都市と何ら変わらないようでもあった。
「分かりました。ここが通れないとなると長居は無用です。皆さん、迂回して進むことにしましょう」
「そうだな、残念だけどエミルの言う通りだ。行こう」
少年たちが馬車に乗り込みむと、ユーリの掛け声と伴に勢いよく走り出した。彼らは川沿いの道を北へと進んだ。丁度、街並みが途切れはじめた所から、足場が組まれた立派な城壁が現れた。地方都市で城壁を備えることは、侵略に備えての拠点としての役目を担う。しかし、西方の拠点となるのは、彼らがこれから向かう「エムス」の町である。このアマレは、川と川に挟まれた中州にある。地の利から拠点の一つとも言えるだろうが、余りにもそれが堅牢過ぎる印象を与えた。
「うん。やっぱりあれが原因かも知れない」
熱心に外を眺めていたシャインが、城壁を指した。
「城壁ですか?」
「オレもおかしいと思う。拠点都市なら分かるが、ここは中核の筈。再整備は・・・。うーん、オレたち学生には関係ない、と言ったら関係ないけどな」
歯切れの悪いエルネストだった。この時、彼は一抹の不安を感じたという。
「揺れるから掴まれ!」
御者台からユーリが叫んだ。ユーリが言っていた大きな橋まで来た。交通量の多さからなのだろうか、路面が傷んで轍があちこち出来ている。馬車はガタガタと揺れ、時に弾みながら渡って行った。
「おーっ、酷い揺れだったな、ケツが痛っ・・・」
尻を撫でていたエルネストがハッとした。エミルを気にしてのことだったが、彼も一緒になって笑っていたので、不快ではなかったようだ。橋を渡りきってからは、真っ直ぐな道がずっと続いていた。しばらく走ったこの先で、渡ることが出来なかったアマレの橋からの道と合流する。そこを見たいと思っていたエミルは窓に張り付くようにすると、やはり同じ思いだったのかエルネストも張り付いた。その道はアマレからほぼ直線で幅員もあり、しっかり整備されていた。しかし、多くの人々が使うことが出来ないということは、宝の持ち腐れではないだろうかとエミルは感じた。エルネストが武人として、どんな感想を抱いたのかは分からない。そこよりまたしばらく進むと、駅馬車の停車場があった。町の名前はアロッツといい、小さな町ながら初期から停車場になっているという。彼ら一行は宿を出ると、食事や休憩で停車場を利用しているが、今日はまだ陽も傾いていないので、ここには通過するようだ。
「明日の晩までには、必ず着かないといけないですからね。とにかく確実に、到着出来ればいいですけど」
肩を竦めてシャインが言うと、エルネストもそれに同意した。
「あのう、心配し過ぎかも知れませんが」
エミルは万が一を考えて、二人に話すことにした。
「もし、現地での受付日や時間が、勝手に書き変えられていたらどうしますか?わたしはルーベンでそれを思いました」
「それは困るなぁ」
エルネストとシャインは、溜息混じりで天井を仰ぎ見た。それこそ、本当にそんなことをされていたら、完全に試験を受ける資格を失う。千載一遇のチャンスを、州政府に潰されたことになるが、それを国に訴えることは出来ない決まりである。
「シャインもエルネストの所にも、来た手紙は正規の物ですよね?」
「うん、本物だと思うよ。ちゃんと蝋で止めてあったし・・・」
「オレのも本物だと思うけど、偽造されていたらオレには分からんな」
「そうですね、わたしも分かりません。そこは、信じるしかないのかもしれませんが、疑ったらきりがありません。ただの心配だけで終わるといいと思いますが」
「そうだねエミル、是非そう願いたいよ。これから何があっても、ぼくたち三人で知恵を出し合えば何とかなると信じようよ!とにかく最後まで諦めないで頑張ろう!ね」
「ああ」
短いエルネストの返事にも深い決意が込められている。やがてリコという賑やかな町に着いたが、出来るだけエムス近くに行きたい彼らは、もう少し先の町へ進んでくれるようにユーリに頼んだ。沈みかけている太陽を追うように馬車は更に西へと進み、暗くなるころにエムスの一つ手前「ヤーン」に着くことが出来た。
「坊ちゃんたちに追いたてられて、気力だけで走ったぞ!明日の午前中、いや、朝のうちには着くから、ゆっくり昼寝も出来る。そうでないと、オレの場合は仕事をするのが嫌になりそうだからな」
「本当にすみません」
ぼやくユーリに少年たちは頭を下げるしかなかった。今夜の宿は代金を先払いしてから部屋に入った。その部屋といっても大部屋で、それも簡単な作りの硬いベッドで休むことになった。同じ部屋で他人と眠るのはこの旅で慣れつつあるが、大人たちが酒を酌み交わし騒ぐのには閉口してしまう。
「あのオッサンたちもエムスに向かうだろうけど、もう少しで着くからって気が緩んでるよな。オレたちは反対に、これからのことを考えると緊張するけどさ」
自分に言い聞かすようにエルネストが呟き、他の二人は相槌をうった。緊張している彼らでも、やがて眠気がやって来た。
「起きろって・・・」
眠い目をこすりながら小声でシャインが言った。少しでも早く着きたいという、少年たちの願いを叶える為にユーリが起こしてくれたのだ。
「誰がだよ、まだ暗いぜ。夢でも見たのか?」
エルネストは眠くて仕方がないようだが、エミルはさっと起き上がった。
「確かにユーリさんの声でした。行きましょう」
それからの行動は早く、宿から出ると直ぐに馬車に乗り込み、目的地のエムスへと走った。暗かった空も、時間と伴に東の方から段々と明るくなってきた。
「馬たち大丈夫かな?」
シャインが気にしたので、馬の睡眠時間は人よりも短くて大丈夫だとエルネストが説明した。
「そうなんですか?良かった。実はぼく、まだ眠いんですよ。へへへっ」
「わたしもですよ、シャイン」
「へー、エミルは寝なくても大丈夫だって、オレは思っていたよ」
「ふふふっ、それはないですよ。わたしも人ですから」
車内が眠気を飛ばした頃に、エムスの堅牢な城壁が見えてきた。朝日に輝く城壁は巨大で、王国の力の象徴にも見える。威圧的とも思える城門はカリナンよりも立派だ。圧倒的な景色にシャインをはじめ、全員が息を飲んだ。
3 実行するとき
「ついに来ましたね」
「ああ、来たぞ!ここが終点でなく、始まりの場所だ」
「わたしたちの未来を占う場所ですね。あの塔のある建物が州庁舎でしょうか」
馬車は塔のある建物に向かっている。この街はまだ目覚めて間もないようで、人々の姿がまばらだった。やがて馬車は、庁舎の前に到着した。
「お疲れ!坊ちゃんたちも頑張ったな。いや、坊ちゃんたちはこれから頑張るんだったな。アハハハハ」
肩の荷が下りてユーリはほっとしたようだ。三人の少年もそれぞれ、感謝を込めてユーリに礼を述べた。
「ユーリさん、色々と無理なお願いをして申し訳ありませんでした。あなたでなかったら、こんなにも強行な旅は出来ませんでした。ありがとうございました」
「小父さん、ありがとうございました。ぼくたち、小父さんを騙した役人を懲らしめてあげますからね」
「ユーリ小父さん、ありがとう。オレ、一端の大人になった時、一緒に酒を飲みたい人名簿に小父さんを加えておきますからね」
ユーリは今までにない体験だった、と彼らとの旅を振り返った。和やかに別れを惜しんでいると、州庁舎から六人組の少年たちがやって来て、そのグループの代表らしき黒髪の少年がユーリに話しかけてきた。
「すみませんが、この馬車でカリナン近くまで乗せてもらえますか?」
「カリナンだって?俺はカリナンから来たんだ。あの子たち、試験だとかでここまで送って・・・」
「えーっ、カリナンからって嘘でしょ?担当者が、カリナンの受験生は辞退したとか言ってましたよ」
「嘘だろ!?」
一瞬その場が凍りついた。だが、シャインとエミルは担当者に会うべく、既に走り出して庁舎に飛び込んで行った。
「チクショウ、今日だったのか!!」
少し遅れたがエルネストも走った。
庁舎内のホールには、出発を待っているミッションの受験者が何十人か居た。
「すみません!ミッション担当の方いらっしゃいますか?」
エミルは叫んでいた。奥の方から、中年で恰幅のよい男が声を上げた。
「わしがそうだが、君たちは?」
「はい、申し遅れました。わたしたちはカリナンの受験生です。たった今、到着しました!」
エミルの一言で、庁舎のホールはざわついた。
「どういうことだ?来ることができなくなったから辞退する、と手紙が来たが」
「その手紙は嘘です!偽物です。現に、わたしたちがこうして来ているのではないですか!」
ざわめきは大きくなった。
「うむ、そのようだな。では手紙は誰が・・・」
「それは分かりません」
エミルはかぶりを振った。
「わたしたちは、ここに来るまでに妨害に合いました。これが一つの証拠になると思います」
ミッションに関する手紙を取り出すと担当者に見せた。
「おおっ、何ということだ!」
担当者は、その手紙に偽りの記載があることに、直ぐに気がついた。手紙では、ミッション開始日が書き換えられていたのだ。事前事故と言って、実行事務所がわざと催行日を前日に設定し、参加者を混乱させて応用力などを見ることがある。しかし、この場合はあくまでも前日設定のみで、後日設定をしてはいけない規定になっているのだ。
「うむ、承知した。開始までにはまだ少し時間があるから、直ぐに手続きをしよう!」
「ありがとうございます!」
三人は深く礼をした。担当者は書類を書くために、奥の部屋に入って行った。騒ぎを聞きつけた受験者たちは彼らを遠巻きに見ていたが、その中から一人の少女が進み出た。髪を短く切り、簡素な服装で男子のような姿をしている。
「あなたたち?カリナンの三人って」
少しばかり高飛車な感じがする言い方だ。
「そうですよ、ぼくたちですが」
シャインが答えると、彼女はフンと鼻を鳴らした。
「おんなのコを待たせるなんて野暮な人たちねぇ。おかげでこっちは、あの猿野郎と同行するところだったわ」
薄笑いを浮かべながら顎をしゃくり「猿」と揶揄した男子学生を指した。短髪に赤ら顔の学生は、彼女の言葉に腹が立ったようで何か言おうとたしが、隣に居た学生に腕を掴まれ制止された。
「アンタ誰だ?」
少し苛立ったエルネストが彼女に訊いた。
「あん?女性に尋ねる言い方かしらぁ?」
「オレは男でも女でも差別はしない!」
「ふーん、そうなの。アタシはマシェリ・リディヌっていうの、エヴァンス州立武術学校の主席よ。君たちには特別に、マシェリって呼んでいいわ。但し!ミッションが終わるまでだけどねぇ」
「へえ、そうかい。オレは王立カリナン武術学校の主席、エルネスト・フォレスだ。親父はナザレブの総監だ」
「ふむふむ。親子で軍の門閥狙いってとかかしらぁ」
マシェリは勝手にそう決めつけると、シャインを指した。
「ぼくはシャイン・バッキオ。王立カリナン算術学校主席です。因みに、父と兄も算術師です」
「わぉ、珍しい!計算ファミリーだ、はははっ」
面白がって笑った。しかしエミルの番になると、少し態度を変えた。
「で、君はフツーじゃないよね?」
とエミルを指した。
「普通です!わたしは王立カリナン医術学校主席、医術師で薬草師のエミル・エスナールです」
「ヒャー!!やっぱり普通じゃないよ。皆、聞いたぁ?この人、医術師さまだよぉ」
後ろの受験者たちにも聞こえるようにわざと大声で言ったので、殆どの受験者が驚いてざわついた。
「やめて下さい!何ですか、あなたは」
「アタシ?だから、マシェリだけどぉ。って、つまり君たちの旅のパートナーだよね」
「パートナー??」
三人の声が揃った。シャインの表情から推測すると、彼女の態度には感心していないようだ。この先、彼女と三人が上手くやっていけるのか、多少の不安を覚えたのはエミルだった。
「皆、揃って王立出身なんだね。ま、いいさ。優秀なのは認めてあげる。州立よりも王立の方が難しいからねぇ」
あくまでも高飛車なマシェリだ。そんなやり取りがあった後に、担当者が額に汗を浮かべて戻ってきた。
「さあ、これが君たちのミッションだ。えっと、君たちはそのまま三人で・・・あっと、彼女と四人で。それからこれが関係書類で、これが・・・」
何枚かの書類を手渡され、慌しくミッションの開始となった。彼らが命じられたミッションは、外交に関連する内容の課題だった。それは、隣国エスナン皇国の中にぽつんとある「エステル公国」へ行き、現領主ウォルフィール・エステル公に親書を届けるというものだが、ひと言で言うと民間外交使節ともいえる。まず、エステル公国に向かう前に、エスナン皇国へと向かわなければならない。事前に通行証の配布を受けていた三人は、念の為にそれが本物なのか担当者に見てもらった。
「大丈夫!間違いない。この配布物は本物だから安心したまえ。君たちのことは、ヴィエナのミッション本部へ直ちに報告しておくよ。邪魔者が入らない内に秘密裏にやっておくから、安心して出発してくれたまえ」
「はい、ありがとうございます!信じて行ってきます」
総合担当責任者であるシュツルムは、笑顔で彼らを送ってくれた。もちろん彼は自分の言った言葉に責任を持ち、このトラブルの件は誰にも漏らすことなく、すべて一人で対処してくれたのだった。やがて州庁舎の大時計が九時を告げると、受験者たちはそれぞれのグループに別れ、それぞれのミッションに取り組む為に庁舎を後にしていった。
「なあエミル。この親書、成り行きでオレが受け取ったけど、アンタが持っていてくれよ」
エルネストが筒に入った親書をエミルに押し付けてきた。
「わたしは別にいいですけど、本当にわたしで良いですか?」
「ぼくからもお願いしたい」
シャインからも頼まれた。それを見ていたマシェリは、最初からエミルが一番信頼を置ける人物だと思ったと言った。他の二人はちょっと頼りなく、特にシャインは全然ダメだと評した。
「まったく君ときたら、ほんのさっき知り合ったばかりのぼくたちに、よくそんなことを言えますね!」
怒りを感じてシャインが言うと、マシェリはそれにはお構いなく、更にシャインをからかうようなことを言った。
「おい!アンタ。ちょっと口が過ぎやしないかい?シャインだって良い所はいっぱいあるんだ。数分のアンタと四日間のオレたちでは理解度が違うんだぜ?武人たる者、軽々しく人のことは言うな!」
エルネストも苛立ちを隠さなかった。
「ふぅーん。アタシを武人の端くれと認めてくれるんだ・・・」
「当たり前だろ!武術学校に籍を置く人間ならば、誰もが武人ではないのか?それとも、アンタは違うっていうのか?」
エルネストの言葉に彼女は反論しなかった。いや、出来なかったのだろう。
「さあ、前に進みましょう。わたしたちが最後のようですよ」
エミルに促された彼らは、州庁舎近くにある駅馬車の停車場へと向かって歩いて行った。その間、エミルは行程をどのように組み立てていこうかとシャインに相談した。シャインは先ほどもらった地図を指差して、交易西方街道をそのまま進む案と、国境を越えてから山越えする二つを提案してくれた。西方街道は進み易そうだが、地図で見る限り道のりは遠い。もう一方の山を越えて行く案は、山岳街道の一部が険しいと予想されるが、そちらを進むとすると日数はかなり短かくて済むようだと言った。ミッションで課せられた日数は二週間以内、それ以上の時間は認められない。ちょうど停車場にいた長距離を走る御者に聞くと、西方街道を行く駅馬車を利用した場合、往復だけでもそのくらいの時間を費してしまうと教えてくれた。
「大まかに言うと、片道は山岳で間違いないでしょうね。最悪、往復山越えもあり得えますよ」
「山ですか、わたしを含めて皆大丈夫でしょうか?」
ちょうど地図を覗き込んできたマシェリは意地悪く笑った。
「アハッ。この中で一番体力無さそうな君が、皆を心配してるの?」
「わたしのことですか?あなたが思うよりも、わたしは丈夫で体力もあります。ご心配なさらなくてもよいかと思います」
彼女のトゲのある言葉には、さすがのエミルも持て余し気味だ。そんな様子を見ていたエルネストは、マシェリの首根っこを掴んだ。
「ヒャッ、何すんのよ!このデカブツ」
「エルネスト、女性に暴力はいけません!」
エミルの制止にエルネストは笑った。
「ハハッ。飼い主の躾がなっていないようだから、オレが躾けてやるんだ」
「何を言う!君なんかアタシの雇い主にも、なれやしないからっ」
「まだ言うか?」
エルネストはマシェリを担ぎ上げると、国境越えの馬車のドアを開け、手足をバタつかせている彼女を放り込んだ。
「何すんのさ!まだこれで行くって決まってないでしょ!!」
「いや、決まりさ。国境を越えて、エスナンの小さな町まで」
シャインは馬車に乗り込むと、エミルとエルネストが続いた。彼らはエスナン側にある町ハルグに向うことに決めた。その日、エスナンの首都エッダへ向かう長距離便は、今のところ彼ら四人だけだった。彼らが進む交易西方街道は、整備され充分な道幅があるので、長距離用の六頭だての大型馬車でも余裕ですれ違いが出来る。車内では行程の計画をシャインが説明した。
「ふむ、最短で山道を行くんだな。とにかく、向こうに着いてしまえばこっちのモンだ。帰りは余裕で帰って来る、って寸法だな」
「そう願いたいものだね。もう、罠は御免です」
「ええ、まったくそうですね。無いと信じたいです」
三人が口々に言うので、マシェリは返って興味をそそられたようだ。
「君たちって、罠に引っかかったウサギだったの?」
「ウサギじゃないけどな」
シャインがつっかかる。彼女は例えだと言ったが、シャインはウサギみたいに間抜けだ、と言いたかったのだろうと更に噛みついた。
「何言ってんのよ君は!協調性を持たないと、この試験ではそれも見られているんだから!」
マシェリが沢山の言葉を並べないうちにエルネストが割って入った。
「悪いけど、旅が終わるまでアンタは大人しくしててくれ。でないと、オレが切れたらどうなるか分からんぞ?アンタなんか谷底に放り投げるかもな」
馬車に放り込まれたように、谷に放り投げられる場面を想像すると、マシェリはゾッとした。
「分かったわよ!それなら大人しくしておいてあげるからっ」
少し、しおらしくなったなった彼女に、エルネストとシャインが畳み掛けた。
「オレの姉様は、女らしくて素敵な人だ。アンタなんかと全然違う」
「ぼくの妹たちはもっと可愛くって、君みたいにはねっ返りじゃないし、君のような女の子にはしたくないと思うね!」
続け様に言われ、流石のマシェリもぐうの音も出ない。彼女は反論出来ない事態に膨れっ面をした。
「まあまあ。これからしばらく、ご一緒する仲間ではありませんか、仲良くしましょう。マシェリ、あなたのその顔も素敵ですよ」
気を利かせたつもりのエミルの言葉に、マシェリは乙女心が更に酷く傷ついたと嘆いたので、エルネストとシャインがエミルの落とし所が違うと苦笑した。この時エミルは、女性とは思うよりも複雑な生物らしいと思った。少し落ち着いた車内では同じ武術を学ぶ者同士、エルネストとマシェリが意気投合しつつあった。男子の中に紅一点の存在であるマシェリは、普段でも気を張っているのだろう。男子ならば武術で名を挙げることは名誉だ、しかし女子はそうではない。ただのお転婆娘という目で見られ、世間からは蔑まれてしまうのではなかろうか。彼女はなぜ敢えてその道を選んだのか、とエミルはふと思いを馳せたのだった。
昼近くになり、アングレールでは最後となる停車場の町ロレンスに立ち寄った。彼らは昼食と休憩を取ると早めに馬車に戻った。少しひなびた感じがするこの町は、のんびりとした雰囲気がある。馬車の脇から男女の話し声が近づいて来たと思うと、一組の老夫婦が乗って来た。
「こんにちは。わたしたちには、お気遣いなくお願いします」
先客の代表として、エミルが老夫婦に挨拶をした。ハルグまで行くのでその間、学生なので何かと騒がしく迷惑を掛けるかも知れない、とその旨も伝えた。
「こんにちは。大丈夫よ、私たちはエッダまで帰るの。あなたたち、若い人と一緒だと何だか若返った気分だわ」
老婦人はにこやかに話してくれた。すると、連れ添いの老紳士が気になることを言った。彼らがこれから向かうハルグでは、流行病が蔓延しているので、駅馬車はその町を迂回するだろうというのだ。再びのアクシデントに浮き足立った。この時馬車に戻って来た御者に、彼らはそのことを確認した。
「ああ、そうらしいよ。俺も食堂の女将に聞いてびっくりしたよ。だから、君たちに言おうと思っていたところだけど、どうする?」
「困りましたね。ハルグから山岳街道を行く予定なんですよ」
シャインは地図を広げて思案したが、全員に土地勘がないので困ってしまった。すると、それを見かねた老紳士が提案してくれた。
「昔の街道はどうだろう、君たちは知らないと思うが。ふむ、その地図には載ってないな・・・」
老紳士は、ハルグの手前にクルムという村があり、そこから昔は山越えしたと言った。
「土地の者なら、その道は知っている筈だから、訊いてみるといい」
渡りに船というのだろうか、有難い情報に感謝した。
「それならクルムに寄ってやるよ」
御者も気の毒に思ったのか、かなりの廻り道になってしまうがその村に行くことを快諾してくれ、再び馬車は西に向かって走り出した。国境では厳重な取調べもなく、簡単な手続きだけでエスナンに入国出来た。安心した少年たちは、揺れと満腹感でうたた寝を始めた。エミルもウトウトし出した時に視線を感じて顔を上げると、彼の斜向かいに座っている老婦人が、エミルに微笑んていだ。
「あなたは似てるわ」
「えっ?」
「ごめんなさいね、他人の空似というものでしょうけど。昔、私が若かった頃にお仕えしたお方にそっくりなの。そのお方は女性でしたから、お子様がいらっしゃれば、丁度あなた位の歳になっておいででしょうけど」
「そうですか、良い思い出なのですね」
「ええそうよ、とても素敵な女性でしたよ。ご両親の反対を押し切って、アングレールに嫁いで行かれてしまいました。私もお供をすべきところ、そのお方に反対されて泣く泣くお別れしたのです。その日のことは、今でもはっきりと思い出すわ」
彼女はその相手が誰なのかは、最後まで言わなかった。だがそれは、大切な思い出であるのは確かだろう。馬車は街道から田舎道に逸れて行き、次第にガタガタと大きく揺れるようになった。流石に大きく揺れると眠ってはいられない。道沿いの畑の間にポツンポツンと民家が見えるようになった。
「うーん、懐かしい景色だな」
老紳士が呟いた。
「昔の街道は、ここを通ってたのですか?」
眠い目を擦ってシャインが訊いた。
「ああ。アングレールから帰って来た時は、この景色を見ると故郷に帰って来たな、って毎回思ったよ」
「そうですか。失礼ですが、何をされていたのですか?」
「私は外交の仕事をしていたよ。アングレールとエステルに赴任していたことがある。君たちが知らない外交問題も沢山知ってるぞ」
老紳士はそう言って笑った。勿論、それがどんな問題であったのかは秘匿事項なので口外されることはない。
「エスナン、エステルは友好国であるので、諍いは起きないと教官が仰っていましたよ」
マシェリが真面目な顔で言うと、老紳士はその通りだと頷いた。
「そうね。ずっと友好が続いてくれたら、と思うわ。私たちのエスナンの次の帝と、次のエルテル公、そしてあなた方のアングレールの次の王が賢明であれば、平和な時代が続く筈よ」
老婦人の意見にエミルたちも同意した。
「わたしたちも、それを望んでいます。現国王陛下は、若者の見聞を広める目的も併せて、わたしたち学生に試練を与えて下さっています。きっと、次の王もそれに倣っていただけると思っています」
「まったくだ。平和が続き、軍人がお守りであれば、それでいいとオレは思っていますよ」
エルネストは、今までに見せたことがないような笑みを浮かべた。彼も平和が続くことを願っている一人なのだ。やがて車内の楽しいお喋りも、終わりの時を迎えた。馬車がクルム村へと到着したのだ。アングレールの農村と同じく、変わらない風景がここにもあった。少年たちは老夫妻と御者に感謝をすると、大きく手を振って馬車を離れた。
「さてと、これからは歩きになるから、気合を入れて行くぞ!」
水を得た魚のように活き活きしている。馬車での長い移動では、体が鈍って仕方が無いと言っていたエルネストだ。
「余り、気張らずに行きましょう」
エルネストのペースで進みそうな雰囲気の中、ハイペースにならないように、と思ったエミルは少しブレーキを掛ける言い方をした。ところが、完全にストップを掛けたのはシャインだった。
「ちょっと待って!」
「あ~ん、どうかしたの?」
「えっとですね、今日このまま山に入ると危険だから、村に一泊しましょうよ」
「うむ。で?」
「行程を少し、見直そうと思ってます。村の人たちに、旧道を聞かなくてはならないでしょ?」
「ええ、そうですね。わたしはシャインに賛成です」
「アタシたちが付いてるから、山賊が出ても楽勝なんだけどね」
マシェリもやる気を見せた。しかし、彼女も素人を連れてのリスクは充分知っている。
「ははん。そうだな、あと何時間もしない内に日は暮れる。どこかに泊まって作戦会議といこう」
エルネストとマシェリは山岳訓練をしたことがあるので、それなりの知識は持ち合わせている。早速彼らは今晩泊まれる宿を探した。だが、この村には以前のように旅人を泊める宿はなくなっていたのだ。
「残念だけど、この分だと野宿だな」
エルネストが発した「野宿」という言葉で、シャインは悲痛な表情を浮かべた。彼は屋外で夜を過ごしたことが無かったので、やたらと怖いものだと思い込んでいるようだ。エミルの場合は、友人と薬草採取で遠出をし、道に迷って森の中で一晩明かした経験がある。
「どこか小屋か、軒先でも貸してもらえたらいいのにね」
「何軒か回って、聞いてみましょう」
彼らはマシェリとエルネスト、エミルとシャインの二手に別れて、民家を訪ね歩いた。だが、気易く承知してくれる村人はいなかった。
「困りましたね。本当に野宿にならなければいいのですが」
エミルは弱気になっているシャインを励ましながら、次の家を訪ねた。
「御免ください。小屋でもいいので、一晩泊めていただけないでしょうか?」
その家の主人が、少し不機嫌そうに出て来た。
「悪いが、ウチには病人がいるんだ。アンタたちに移したらいけないから断るよ」
病人と聞きエミルの使命感に火が点いた。
「医術師には診せたのですか?」
突然のことで驚いた主人だが、村には医術師が不在で、少し離れたハルグには居ても、流行病でてんてこ舞いで、この村まで往診する余裕がないということだった。
「もし宜しかったら、わたしが診ます!わたしはこう見えても医術師ですから」
と言うが早く、床に伏せている病人を見つけた。病人は子どもだった、発熱で顔が赤らみ、ぼんやりとした表情をしている。
「いつごろから熱がありますか?他に熱が出ている方はいらっしゃいますか?近くに同じ症状の人が近くにいませんでしたか?」
専門的な質問と展開で、主人は混乱したのか殆ど答えられなかった。すると、冷静な彼の妻が代わりに詳しい状況を説明してくれた。
「はい、分かりました。では、早速診させて頂きます」
診察治療実習以来で、本物の患者を診ることになったエミルは落ち着きを払っていた。子どもを怖がらせないように気づかい、優しく声を掛けながら診察している。それを見ていたシャインは、エミルが本物の医術師なのだと改めて認めることになった。
「これは流行病の一つですが、峠は越えています。主に子どもが罹る病気で、大人でもこの病に罹らなかった人は移ります。ご家族の皆さんはいかがでしょうか、心当たりはありますか?」
夫妻は首を振った。エミルは、子どもは首の腫れが痛い筈なので、湿布を作って貼ってあげると良いという事と、明日には熱が下がると思うが他の子どもや大人に移さない為に、熱と腫れが引いても直ぐには外に出さないようにとアドバイスをした。
「あとは充分な水分と、栄養のある食事を与えてくれれば大丈夫ですよ。ではお大事に」
「ありがとうございます。あの、あなたは?」
「アングレールから来た、旅の者です」
エミルは名乗ろうとはしなかった。
「医術師さま、お代は?」
「要りませんよ。旅の途中ですから」
エミルとシャインはお辞儀をすると、その家をあとにした。
「残念ですが、心易く泊めて頂けるお宅が見つかりませんね」
エミルも半ば、諦めの気分になってきた。とぼとぼと歩き、村の真ん中を通っている道に出たところで、エルネストとマシェリに出会った。
「おう!居た居た。そっちはどうだった?」
「だめでした」
シャインが肩を落とすと、エルネストたち二人はニャリとした。
「こっちは見つけたぞ!村長の家だ」
「家といっても、小屋だけどね。訳を話したら小屋で良ければって言ってくれたんだよ。行こう」
「有難いですね。日が暮れるまでに見つけて頂いて助かりました」
エミルも心底ホッとした。そして、四人が揃って村長の家へ向かって歩き出した時に、後ろの方から呼ぶ声がした。一行が振り返ると、エミルたちが先程寄った家の主人だった。
「待って下さい!医術師さま。これを受け取って下さい」
息を切らせて、彼らを追ってきたようだ。村人のその手には麻袋が握られている。
「何でしょう」
「診察代にもなりませんが、女房が焼いたパンとオレが作ったチーズです。少しばかりで悪いですが、食べてもらえれば嬉しいです」
そう言って主人は麻袋を差出した。
「せっかくなので有難く頂きます、ご主人」
エミルは喜んで受け取った。泊まる場所や食べ物を売る店が無い所では、背に腹をかえることは出来ない。彼らはそれぞれ携行食を持ってはいるが、焼きたてのパンとチーズに勝るものはないのだ。
「ごちそうさまです」
四人は礼を言い、帰っていく村人を見送った。
「ねえ、今の人診察って言ってたよね?」
「まさかエミル、アンタが患者を診たってのかい?」
「はい。でももう、大丈夫な状態でした」
淡々と答えたエミルに、マシェリは驚いてはしゃいだ。
「君、本物の医術師さんだったのね。ハッタリだと思ってたよぉ」
それを聞いてエミルは苦笑した。そして彼は村長の家に着くまでの間、診察治療実習の期間中の出来事などを話した。
「着いたぞ!ここが今日のお宿だ」
エルネストが見つけた村長の家は、村の中でも立派な住まいだった。そして、その横に建てられていたのが板葺きのこの小屋だった。小屋といっても広さが充分にあり、貧しい村であるならば住居として使われるだろう建物である。四人は小屋に入ると、麦藁の束が沢山積まれているのを目にした。この村は平和で、そこそこ豊からしい。彼らは誰が言うとなく、麦藁で即席のベッドを作った。
「暗くなってきたね、ランプを点さなきゃ」
シャインは鞄の中から携帯ランプを取り出すと、火を点け柱のランプ受けに引っ掛けた。そして、薄明かりの中での「作戦会議」が始まった。彼らの持っている地図と、村長から借りた古い地図を床に並べて広げた。その結果、新旧の山岳街道は、まったく違う場所を通っているのが分かった。どちらかと言うと、新しいハルグからの街道の方が、歩き易くなっているのは容易に推測出来た。しかし、一旦旧道を進み、途中から新道へと移ることは、至難の業と言える。なぜなら、二つの街道の間には、実際には山が幾つも連なっている筈である。
「仕方ないですが、このまま旧道を行くしかなさそうですね。ちょっと、ここを見て下さい。興味が湧きませんか?」
エミルが指したそこは、明らかに山の中なのに、集落らしき名が記されていた。
「ヒルフワルトって書いてあるけど、村でもあるのかな。マシェリ、アンタはこの名を聞いたことがあるか?」
「いいえ、聞いたことない。戦略上必要ない集落なら、書いてなくても問題ないもんね」
「でもそこが本当に村なら、エムスでもらったぼくたちの新しい地図に載っていてもおかしくないと思うけど」
「うむ、そうだな。オレもそう思うけど、アンタはどう考えている?エミル」
「はい。わたしは、ここが意図的に書かれなかったか、廃村かのどちらかだと考えました」
「なるほど、どちらもあり得るね。今は主な山岳街道が他に移って、ここからの旧街道の利用者は、殆どいないでしょ?ルーベンみたいな所だね」
「ふぅーん。土地勘なしのアタシたちだから、分からないよねっ。明日、村長さんに聞いてみようよ」
「そうですね。それでは先程頂いた、チーズとパンを皆で頂きましょう」
パンとチーズを夕食とし、明日からの山登りに備えて早めに休むことにした。男子三人は床の藁束ベッド、一番奥の藁の山の上にマシェリが寝ることになった。
「君たち!少しでもアタシに近づいたら、その首吹っ飛ぶからねぇ」
「おおコワ!って言っても、君みたいな女子に手を出すぼくたちじゃないよ!」
シャインがつまらなそうに言ったのを見て、マシェリは「ベーっ」と舌を出した。それを見たシャインとエルネストは呆れた顔をしたが、エミルだけはクスクスと小さく笑った。
朝日が昇ると実りの多い村らしく、あちらこちらから聴こえてくる小鳥たちの囀り声で目が覚めた。一番早く起きたエルネストは、村長に地図を返しながら、気になっていたヒルフワルトについても聞いてくれた。村長のミルコムによると、クルムの村人や旅人が立ち寄ることのない、ほんの数軒の小さな集落で、住んでいる人を見たことがないと言われている場所だという。ついでに、この街道はこちら側から登るときつい山道だが、峠を越えれば一気に下りになると教えてくれた。彼らは村長から井戸を借り、顔を洗って身支度を整え、地図を開いて今一度確認した。この晴天では、頑張って歩けば山の反対側の町「シューレ」には夕刻前までには着く。
「いよいよ山越えだねっ」
水筒に水を詰めながら上機嫌なマシェリだった。なぜ彼女が山越えを喜ぶのかは、誰もがその理由が分からないでいた。というのも個人的なことだが、彼女の祖母がシューレ出身で、その縁の地で宿泊する予定になっているのが嬉しいようである。そして、準備が整った一行は村長に礼を言い、クルム村をあとにして旧山岳街道を進んで行った。村外れからの道は思ったよりも道幅が狭くなり、所々が急な九十九折れになっていた。馬に乗って行ったとしても、途中で何度かは降りないといけないような山道だった。登山の経験があるエルネストとマシェリは別として、他の二人にとっては踏ん張り所でもある。街道と言えどもなだらかな羊の丘とは違い本格的な山道である。エミルとシャインにとっては初めてではあるが、シャインの場合は普段から野山を歩くことがないのだ。シャインは山頂を仰ぎ見ると、長い溜息をついた。エミルには、彼が何を言いたいのか察しがついた。
「お互いにがんばりましょう。なんとかなりますよ」
シャインの背にそっと手を添えると、彼は頷いて元気のあるところを見せた。しかし、そんなシャインは登るにつれて無口になり、段々と肩で息をするようになってきた。更に勾配がきつい所に来ると、足が進み難くなってもきた。
「おーい!そこの二人、あんまり遅いと置いてっちゃうよーっ」
半分以上登った所で先頭を行くマシェリが、二人との差が大きく開いてきているのが心配になったようだ。
「はい。こちらも頑張って登っていますから」
エミルは、弾む息を整えながら応えたが、シャインは大きく息を切らせ、返事も出来ない状態になっている。
「シャイン、大丈夫ですか?無理しないで下さいよ」
息も切れ切れでシャインは頷いたが、額からは滝のような汗をかき、顔も青ざめてきていた。エミルの知識からすると、気をつけなくてはいけない兆候だった。
「やはり、こちらの木陰で休みましょう」
シャインを抱きかかえるようにして、木陰へ連れて行き座らせた。そのようすを上から見ていたエルネストは、直ぐに彼らの所まで下りてきた。
「シャイン、大丈夫か?」
頷くのが精一杯のシャインは、声も出せないでいる。
「さあ、水を飲んで」
エミルはシャインに水を飲ませると、彼のマントを脱がせて、シャツのボタンを外し体が冷えるようにした。そして、手ぬぐいに水を含ませると、シャインの額や首筋を冷やした。
「シャイン大丈夫?」
マシェリもいつの間にか下りて来て心配そうに覗き込んだ。彼らはシャインをしばらく休ませるとにした。涼しい風が吹きぬけ、シャインの呼吸も段々と落ち着いてくると、顔色も良くなり気力も戻ってきたようだ。
「あーっ、死ぬかと思ったよ。ありがとうエミル、みんな・・・」
力ない声でシャインが言った。
「死ぬなんて大げさだヤツだな。エミルが医術師で良かっただろ?持つべきものは友だ!」
「エルネストの言う通り!持つべきものは友だね。あらっ、アタシもみんなの友でいいのかな?」
「いいよ、ぼくは認める。ねえ、エミルも認めるだろ?」
「ええ、勿論ですよ。今更な気もしますが、全員が友だと思っていますから」
「ならば我が友よ、遅れた分を取り戻そう!」
勢い良く立ち上がろうとして、シャインはふらついた。
「あーぁ、直ぐに良くはならないよ。ねっ、エミル」
「そうですよ、体調をみながら進まなければなりませんね」
「すまない!迷惑かけちゃって・・・」
すると、シャインの前に背を向け、エルネストが片ひざを着いておんぶすると言った。シャインは子どもみたいで恥ずかしいと照れていたが、体が思うように動かないのでその言葉に甘えることにした。マシェリはエルネストとシャインの持ち物を全部引き受けると言ったので、エミルも荷物を半分持つことを提案したが、自分自身の鍛錬になるという理由で彼女は譲ってはくれなかった。
「行くぞ!」
エルネストはゆっくり立ち上がると、山道を力強く一歩一歩進んで行った。シャインはエルネストの背からしきりに謝るのでエルネストは豪快に笑った。
「いいってことよ!こんな所で鍛錬できるなんて思ってもいなかったよ。だからアンタは遠慮しないでオレに背負われていてくれ」
エルネストの頼もしい言葉で安心して先を目指せた。少し時間はかかったが、一行は周囲を見渡せる峠まで登って来ることが出来た。シャインはエルネストの背から降りると、深々と礼をして彼を労った。
「ありがとうエルネスト!君のおかげで大助かりだよ。もう大丈夫だから、ここからは自分の足で歩くからね。いいだろ?エミル」
エミルも微笑んで頷いた。
「ええ。大丈夫だと思いますが、まずはここで休憩しましょう」
彼らは草の上に腰を下ろすと、水と携行食を口にした。青い山並みと青い空は清々しく、彼らはお互いの絆を深く感じたようだ。再び出発する前には、エミルがシャインを診察して体調を確認した。
「もう大丈夫そうですね。シューレまで下りだからと言って、無理しないで下さいよ」
「そろそろ、出発するとしようか」
エルネストが腰を上げた時、マシェリが声を上げた。
「あそこに家があるよ!もしかして例の場所かな?」
マシェリが指した所には、森の木々の隙間から屋根がいくつか見えた。シューレ側にほんの少し下った森の中だ。シャインは、住むには不便そうな所にわざわざ家を建てるのは、権力のある人がすることかも知れないと分析した。興味はあるが先を急ぐ一行は、そこには立ち寄らずにそのまま下るということに決めた。
「皆!足元を気をつけないと滑るかもしれんぞ」
古い街道は、所々敷石が剥がれ、土がむき出しになっている。それを見たエルネストがアドバイスしたが、その途端に「キャッ」と声を上げたのは先頭を行くマシェリで、足を滑らせて派手に尻餅をついた。
「あいたたたーっ」
「言ったこっちゃない。マシェリ大丈夫か?エミルに診てもらうか?」
「痛いけど、診せられないよーっ。何度も言うけど、アタシこう見えても乙女なんだからさ」
「一応恥ずかしいのかよ?」
「何よ!一応って、恥ずかしいものは恥ずかしいのよっ」
「アハハハハ」
賑やかに下り始め、ヒルフワルトへ通じる枝道に差し掛かった時、男女の言い争う声が聞こえて来た。彼らは足を止めると枝道から声の主がやって来た。貴婦人と思われる女性が、従者とおぼしき男性に怒りをぶつけていた。
「いいのです!わたくしは帰りますから」
「奥さま、なりません!おひとりで、どうやってお帰りになられるのですか?」
女性は学生たちの視線に気が付くと、軽く会釈して彼らの前を通ろうとした。だがその時、貴婦人は前のめりに倒れそうになり、咄嗟にエルネストが彼女を支えて事なきを得た。
「大丈夫ですか?ご婦人」
「ああっ、大丈夫です。ありがとう・・・」
ところが貴婦人は、崩れ落ちるようにその場に倒れてしまったのだ。慌てた侍従らしき男性は、彼らに控えるように言った。
「あなた方は、下がって下さい。こちらのご婦人は高貴なお方ですぞ」
「かも知れませんが、ご様子が変ではありませんか!」
呼吸が浅めで脂汗をかいているのを、エミルは見逃さなかった。
「おおっ、奥さま!いかがなされましたか?早くヒルフの山荘にお戻りになられないと」
「嫌です!わたくしは麓の別邸に帰ります」
言うことを聞き入れてもらえず、困り果てた男性は彼らに協力を頼んできた。
「奥さまのご要望通りに致したいので、すまないが君たちにお連れする手伝いを願いたい」
彼らには断る理由も無いので麓までお供することにした。しかし、そのまま歩かせる訳にもいかず、椅子と棒とを組み合わせて縄で縛り、急ごしらえの輿を作ることになった。
「奥さま、お脈を拝見させて頂きます。失礼します」
エミルは貴婦人の手を取ると脈を取った。
「あなたは?」
「わたしは、アングレールの医術師です」
「まあ、お若いのに・・・」
「失礼致しました。奥さまは少し貧血気味のようです。もう少し、しっかりと診察をお受けになられると、原因となるものが分かるかもしれません」
エミルによると、彼女は貧血によって眩暈を起こしたようだ。貴婦人は、主治医からは指摘されたことが無かったのか、エミルの診察に興味を持ったようだ。
「では、あなたに診察することを許します」
その言葉を聞いた侍従は、素性の知れない者に診察を任せるのはいかがなものかと苦言を呈した。ごく当たり前な言い分なのだが、貴婦人はことごとく反発したいらしく、侍従の言葉を聞き入れなかった。
「急ごしらえですが、輿の用意が整いました。奥さま、こちらにお掛け下さい」
シャインが貴婦人の手を取り、椅子までエスコートをすると、椅子に括り付けられた棒を担ごうとした。
「いけませんシャイン。あなたはまだ充分良くなったとは言えませんよ、担ぐのはエルネストとわたしとマシェリ、それとお付きの片で担当しますから」
病人扱いされたシャインは不服そうだったが、彼はまだ少し眩暈を感じる状態だったのだ。するとエルネストは、担がずに支える棒を持つようにすれば揺れも少ない、と提案してくれた。椅子の背を背負うような形で、エルネストが棒を持ち、後ろはお付きの人とエミルが支えてくれればいい、と言ってくれた。貴婦人には背から下りる形で、少し怖いかもしれないので我慢して欲しいと頼んだ。そして彼ら一行はゆっくりと、それは本当にゆっくりと山道を下り、何回かの休憩を挟みながら、なんとか日暮れに間に合うくらいに麓の町に下りて来た。輿の向きを直し、貴婦人は正面を向く形で別邸へと急ぐことにした。シューレは、街並みがとても美しく緑で溢れている。彼女の別邸は山際の高台にあった。敷地はぐるりと高い塀が張り巡らされ、外からは覗くことすら出来ないようになっていた。立派な門扉には紋章が施され、門番がそこを守っている。その門番の一人が一行に気が付き直ぐに出迎えた。
「お帰りなさいませ、奥さま」
門を大きく開くと、中から執事らしき男性と侍女の数名が、丁重に一行を迎い入れた。
「お疲れさまでございます。奥さま、この者たちは?」
「わたくしの医術師と、その友です」
執事は驚いて眉毛を吊り上げた。
「奥さま、奥さまには主治医が・・・」
「黙りなさい!いいのです。わたくしが決めたことですから、口出ししないで下さい」
俄か輿から降りると、貴婦人は屋敷に彼らを招き入れてくれた。この屋敷の主が、素性の知れない見知らぬ者たちを招き入れたことで、主と使用人たちとの間に発した摩擦に、居心地悪さを感じた学生たちだった。貴婦人の直ぐ後ろを歩いているエミルが尋ねた。
「奥さま、わたしたちのような者が、お邪魔しても本当に宜しいのでしょうか?」
「もちろんですよ。ここは、あなた方には少々窮屈かもしれませんが、今日の礼を尽くさせて下さい」
通された広い応接間には、いくつものシャンデリアが下がり、立派な絵画も煌びやかな印象を与えている。初めて目にする光景に、エミル以外の学生たちは興奮気味だった。エミルは思い出していた。自宅への行き帰りには、いつも立派な馬車だった。家では執事をはじめ、使用人たちが出迎え、見送ってくれたりしていた。そんなことを思い出し、エミルは改めて恵まれた環境に居たのだと思った。少し気まぐれな貴婦人が去ってからは、学生たちはその場に待たされた。丁度、手持ち無沙汰で飽きてくる頃に、侍女が四人入って来ると、彼らに一人づつ付いて世話をすると言った。
「お部屋はあちらになります。どうぞついて来て下さい」
彼らは別々に、違う部屋へ通された。エミルの世話をしてくれる侍女は名前をエマといい、彼よりも二つ年下で、まだ見習いだと言った。
「奥様さまより、先にご入浴されて旅の疲れを取って下さい、とのことでした」
エマはそのゲストルームの浴室にエミルを案内した。
「お荷物はこちらでお預かりします。お着替えは用意してあるものをお使いください」
「お気遣い、有難く受けさせて頂きます」
旅に出てからというもの、宿屋でも風呂を使うことが満足に出来なかったのだ。有難い申し出に、早速荷物を預けて服を脱ごうとすると、エマがぼんやりとエミルの顔を見ているのに気がついた。
「どうしましたか?エマ」
エマはハッとして顔を赤らめ、お辞儀をすると慌てて部屋から出て行った。昨日の老婦人といい、エマといい、自分は誰かに似ているらしい、と思うしかなかった。久しぶりにゆったりと入る風呂は格別だった。頭の先からつま先まで泡だらけになり、洗い残す所がないくらいに入念に洗い、少し伸びた髭も綺麗に剃った。実に、皮を一枚脱いだような爽快感があった。風呂から上がり、体を拭いて真新しい肌着を着ると、そのままベッドに潜り込みたくなるくらいの疲労感を覚えた。ふかふかのベッドに腰を下ろし、今日一日の出来事を思い返してみると、今までにないくらいに体力と気力を振り絞った日であったようだ。それからゆっくりと立ち上がり、クロゼットに掛けてあった正装である服を着た。シャツにジレ、コートはまるで彼のために誂えたかのようにサイズもピッタリだった。ズボンもお洒落な折り返しがついた流行の物で、エミルがここに来ることを予見していたかのような準備だった。その上、この部屋も自宅のような雰囲気があり寛ろげそうだと思った。
「お茶をお持ちしました」
廊下からエマの声がしたのでドアを開けると、彼女はエミルの顔を見ない努力をして部屋に入ってきた。
「エマ、あなたにお聞きしたいことがあります」
「はい、何でしょうか」
「わたしはいったい、どなたに似ているというのでしょうか?」
テーブルに置こうとしていたカップが、ガチャリと音を立て動揺していることを告げた。
「言わなければなりませんか?私は・・・私の場合、奥さまに似ていらっしゃると思いましたが、奥さまは、奥さまの姉君にそっくりだと仰っていました」
「そうですか、そんなに似ていますか?」
「はい、親子か兄弟だと仰っても通じると思います。でも、これは私だけの感想ですから、お気になさらずに」
他人の空似には、男女は関係ないのだろうとエミルは思った。それに彼は、かねてから女顔だと言われ体型も細身なので、子どもには「大きな女の人だ」と言われたこともあった。これは余談であるが、ドレスを着ていれば女性で通るだろう、と評されたこともあったが本人は男色家などではない。そしてエミルは、この館の主は何者なのかとエマに尋ねてみた。
「奥さまは、現エスナン皇帝ザルツハルト陛下の第三皇女、エリエールさまです」
隣国といえども海外事情に疎いエミルには、隣国の王の名もうろ覚えで、更に皇女の名前はまったく知らなかった。ザルツハルト帝の子どもは、女子が三人で男子がいない。第三皇女エリエールは、二人の姉が嫁いだあと、セティエ公を婿として迎えた。公との間には十歳になる一人娘がいるが、夫君のセティエ公は、都のエッダで帝から政治や経済を学び、奥方である皇女エリエールは、このシューレで療養中であった。
「奥さまは、お加減が悪くていらっしゃるのですね?」
確かなことは分からないが感じたままにエミルが訊くと、エマはとても心配をしている様子で気の病かも知れないと言った。
「こちらにいらっしゃるきっかけも、この別邸から上の山荘へ移られる時も、酷い癇癪を起こされました」
「主治医が気の病だと?」
「あっ、盗み聞きしたんじゃありませんよ。執事のマシューさんと話されていた所に、通りがかっただけですから」
「そうですか、ありがとうございます」
椅子に腰掛けてゆったりと茶を飲んでいるエミルを、再び見つめているエマだった。エミルは、他人の空似ですから気になさらずに、と微笑みかけると、エマが思い出したようにエミルに名前を訊いた。
「わたしがあなたにお名前を聞いて、わたしが名乗らなかったのは無作法でした、ごめんなさい。わたしは、エミル・エスナールといいます。アングレールのカリナンに住む医術師ですですが、卒業前なので身分はまだ学生です」
それからエミルは、国からの命でエステルへ行く途中であることを話すと、興味深かったのかしきりに感心していた。しばらく彼女との会話を楽しんでいると、年配の侍女が不機嫌そうにやってきた。
「エマったら!戻って来ないと思っていたら、お客さまに失礼なことを・・・申し訳ありませんでした」
責任者であろうこの侍女は、至らなかったことを詫び、奥さまがお呼びだと伝えた。エミルは案内されるままに広い廊下をいくつか曲がり、大きな階段を上って、離れた場所にある主の部屋へ通された。
「奥さま、お連れしました」
侍女が重厚な扉を開き、エミルは通された。その広い部屋には、クリスタルの大きなシャンデリアが眩しく輝き、暖炉には火が入れられている。エミルは片膝を折り挨拶をすると、主であるエリエールが微笑んで言った。
「まあ、良くお似合いだこと、選んだ甲斐がありました。わたくしは、あなたを見込んで呼びました。ですから、病について率直に言って下さいね」
侍女が部屋から下がると、エリエールが座る椅子の傍らへ来るように促した。彼女は、周囲が気の病を疑っていることを知っていた。そして彼女自身がその時、なぜそのような振る舞いをしたのか詳しく話してくれた。
「それからです、主治医がこんな物を飲むように勧めてくるのです」
グラスに入った茶色の液体を指した。エミルは許しを得て、その液体を少量口に含んだ。舌に纏わり付く苦味と独特の匂いがある。煎じ薬にどんな薬草が使われているのか全部の種類は分からなかったが、大まかな薬効は理解出来たので伝えた。
「精神を落ち着かせる効果ですか?そんな所でしょうね。でも、わたくしは飲みません。飲んだふりをして全部こぼしています」
彼女は部屋にある植木鉢を指したので、さすがにエミルは苦笑するしかなかった。彼女との会話はごく自然で、癇癪持ちだと思われるふしはない。素直に脈を取らせてくれ、口の中の状態や服の上からの触診もさせてくれた。エミルは、今まで勉強してきた医術の知識を総動員して思い当たる点を探した。
「あなたの見立てではいかがですか?やはり気の病ですか?」
エリエールは優しい微笑みで尋ねた。彼女の美しさは生まれ持った容姿の端麗さよりも、内側から沸き立つものであるように感じられた。
「はい。述べさせて頂きますますが、宜しいでしょうか?」
「勿論です。少しのことでは驚きませんよ、わたくしは病人なのですか?」
「いいえ、奥さま。あなたさまは・・・」
言いよどんだエミルに、エリエールがその先を言うように催促した。
「わたしの見立てによりますと、奥さまはご懐妊されていらっしゃると思われます」
「・・・・・」
思ってもみなかったことを年若い者に言われ、エリエールは言葉が出なかった。
「おめでとうございます。奥さま」
エリエールは、公務の増加による精神の負担が原因だと思い込んでいたようだ。
「そうですか・・・・・今度こそ男子だといいのですが・・・」
彼女は苦悩した表情で、視線を床に落とした。腹の中に育ちつつある子が、男子であるという保障はない。「皇室には跡継ぎの男子が必要だ」と誰しもが思うことだが、そのことが皇女を苦しめているのは確かである。エミルがそうした重圧があるこの方とその子に、少しでも慰めになればと考え思いついたのが、彼の母がよく歌ってくれた子守唄聴かせることだった。そして、恐る恐るエミルが提案すると、彼女は微笑んで快諾してくれた。
「こんにちは。黄色い可愛いお嬢さん、素敵なあなたのお名前聞かせてよ。こんにちは、緑の風さん。わたしはタンポポよ。この花衣を着替えたなら、わたしは遠くの国へ旅立つの。愛おしいあの人のもとへ飛んで行くと約束したの・・・」
すると、その続きをエリエールが続けた。
「早く会いたい愛おしいあの人、わたしを待ってくれている。ずっとずっと遠くの国へ、あなたが待つその国まで、約束通りに飛んで行くわ」
歌い終った彼女の目には、薄っすらと涙が光った。
「いかがされましたか?失礼なことでしたでしょうか」
エリエールは立ち上がると、エミルをきつく抱きしめた。
「あなたは、あなたはいったい誰?」
一瞬、名乗るのを躊躇ったエミルだった。しかし彼は、エリエールの為に素直に名乗った。
「わたしは、エミル・エスナールと申します」
「ああ、エミル・・・神様がいらっしゃるならば、感謝しないといけないわ」
エミルには、彼女の言葉の意味が分からなかった。しばらくエミルを抱きしめて、気持ちが落ち着いたのか、エリエールは皆が待っているから食堂へ行きましょう、とにっこりとして彼の手を引いた。部屋を出て直ぐの階段を下りると、そこが食堂として使われている部屋だった。待っていた執事が扉を開けると、学生たちは着替えを済ませて席に着いていた。主に続いてエミルが入ってくると、プリンスが登場したかのように、その場の一同が小さくざわめいた。そんなエミルには、マシェリがドレスを着て髪飾りをつけている姿に少なからず衝撃を受けた。そして、普段と違う空気の中で、皇女主催の夕食会が始まった。
「今日は、わたくしのわがままに付き合ってくれてありがとう。お口に合うか分かりませんが、さあどうぞ召し上がれ」
学生たちには驚き以上のものである。次々に運ばれて来る料理は、どれも豪華で彩りも良く、今までに口にしたことのない食材まであり、珍しい果物まで並んでいる。どれも美味しく、印象深い食べ物が沢山あった。それらは、若い彼らの食欲を充分に満たしてくれたのだ。食事の合間には、エリエールが学生たちに色々な質問を投げかけ、彼らも快くそれに答えた。
「あなた方のアングレールは、学生に試練を与えて資質を見極めるのですね。その制度には興味深く感じますが、わがエスナンでは世襲が殆どです。我々は、今はそれで良しとしています」
皇女のこの言葉は、この国がアングレールよりも封建的であることを表していると学生たちは感じ取った。食後はサロンに移り、お茶を楽しむことになった。そこでは気楽に話そうということになり、紅一点のマシェリがなぜこの試験を受けたのか、という点にとても興味をそそられたと皇女は言った。
「理由は、私のわがままもありますが、父親と約束したということもあります」
マシェリは受験理由を、父との約束だと答えたが詳しくは話さなかった。その点については、男子たちの関心もあるところである。そして、皇女は自らの気持ちを語った。
「今まで、わたくしには立場上、選択の余地というものが余り無かったように思います。ですから、あなた方の自由な生き方が、少し羨ましくもあります。時として、例えるならタンポポの綿毛のように、自由になってみたいものだと思ったりしますよ」
エミル以外の学生たちには、贅沢な悩みに聞こえたのかも知れない。だがエミルには、宮殿での日常しか知らない人たちは、それなりの不自由さがあるのだ、と理解出来た気がした。エリエールは若い彼らの話を聞けて、有意義な時間を過ごせたと喜んだ。そして彼らを、エステル公国まで送る約束までしてくれたのだ。一方、過大な接待を受け感謝してもしきれない、と学生たちが礼を述べると、エリエールは一つ約束してくれれば良いと言った。アングレールの隣国であるこのエスナンとの、恒久的に平和な関係を保つ努力をするように誓って欲しい、というものだった。
「それは、お互いに思っていることでありましょう。いつまでも、良い関係を続けなければいけません」
学生を代表してエルネストが力強く答えると、エリエールは満足げに頷いた。
「さあ、もう夜も更けてきました。そろそろ休みましょう」
皇女が部屋から退出するのを見送ると、学生たちもそれぞれの部屋へと下がって行った。
久々に柔らかなベッドの上で気持ち良く眠れたこともあり、今朝の目覚めはすこぶる良かった。学生たちは、侍女が洗ってくれた自分の服に着替えると、気持ちを新たにすることが出来た。シャインは地図を広げ、これから進むであろう道を確認したり、エルネストは忘れない内にと、事細かに日記に書き記した。エミルは手紙を何通か書き、侍女に小銭と一緒に渡してアングレール行きの郵便馬車に乗せてくれるように頼んだ。そしてマシェリは一人浮かない顔で、昨夜着た綺麗なドレスを眺めていた。マシェリは父との約束を思い出すと、胸が締めつけられる思いだった。
「アタシ、いったい何やってんのかねぇ」
独り言を呟き溜息をついた。祖母の家族とは会うことも叶わなかったが、夕べは夢のような時間を過ごすことが出来た。それはそれで良かったのだと思っていると、マシェリの世話してくれている侍女のカトリーヌが、大きなトレイで朝食を運んできてくれた。
「あら、どうかしました?どこかお加減が悪いのかしら」
カトリーヌは一つ年上の活発な女性だ。ぼんやりとしている人を見ると、やたらと世話を焼きたくなる性分らしい。
「あっいや、別に悪いところは無い筈です」
「そうですか、それなら良いですが。スープが冷めないうちに召し上がって下さいね。さあさあ、こちらへお掛けになって。マシェリさん、まだ昨日の疲れが残っていらっしゃるのかしら」
マシェリは椅子に座ると、カトリーヌの口撃に耐えようと構えてみた。
「それも無いですよ。私は元気ですから。強いて言えば、魔法が解けたというところでしょうか」
マシェリは冗談で言ったつもりだったが、カトリーヌは彼女自身の思いを口にした。
「もしかして、昨日のエミルさまをご覧になったから?私、物凄くときめいてしまいましたの。あの方、本当に素敵でいらっしゃいますものね、私、ご一緒されているマシェリさまが羨ましいです。今でも思い出すと、胸がドキドキしますもの」
頬を染めたカトリーヌを見て、マシェリも思っていることを言葉にした。
「カトリーヌさんが思っている以上に、エミルは良く出来た人ですよ。とても紳士で利口で、欠点が無いような人です。だけど、私の好みではありません」
「まあ!お近くにいらっしゃって、あの方が好みでないなんて、もったいないですわ。マシェリさんは、殿方を見る目がよろしくないのかしら。あら失礼、逞し過ぎるお方がお好みなのでしょうね」
カトリーヌは残念がったが、目は笑っていた。ライバルが減ったことの喜びだろう。ただ、マシェリは「好み」という言葉の使い方を間違えたのだと思った。正直なところ彼女は、エミルの外見も性格も凄く気に入っている。それ故の劣等感であるのか、反骨精神が起動してしまうようだが、この時は心の底に芽生えた感情にはまったく気付いてはいなかった。そして、カトリーヌの一方的なお喋りの間に、マシェリは食事を終えることが出来た。マシェリが、食後のお茶くらいゆっくりと飲みたい、と思っていた時にドアがノックされ、シャインを世話している侍女のリリーが来た。
「失礼します。シャインさまが、お話したいことがあるとのことです」
「出発時間が早まったのかしら」
「ではなくて、個人的なお話だとか」
今このタイミングで何の用だろうと思いつつ、リリーについてシャインの部屋を訪れることにした。シャインの部屋は男性用の客間の棟にあり、シンプルだが気品ある部屋だった。
「おはよう、シャイン。どうしたの?」
「おはよう。ちょっと伝えたいことがあって、わざわざ来てもらってゴメン」
ソファにちょこんと座っていたシャインは、立ち上がるとポーチから小さな飾りが付いたヘアピンを出した。
「これを君にあげようと思って、深い意味はないし、別に断ってくれてもいいんだよ?」
「あら素敵、でもこれ妹さんたちへのお土産でしょ?そんなのアタシがもらったら悪いよ」
「いや、妹たちには別のがある。これは君へのお礼だよ」
「お礼?まだ旅は終わってないんだよ君」
そうは言ってみたものの、マシェリは内心嬉しくてドキドキしていた。父親以外の男性からプレゼントされるのは久々なのだ。
「ぼくの方からマシェリの部屋へ行くべきだったけど、慣れなくて・・・。とにかく昨日は迷惑かけてごめんなさい、それに色々と悪口言っちゃったし、だから仲直りの記念として受け取って欲しいんだ」
「・・・・うん、いいよ。受け取る・・・シャインも割りと・・・」
「え?割と何?」
マシェリはシャインの耳元で、小声で囁く振りをすると彼の頬にキスをした。
「ありがとう!シャイン」
予期しない出来事に、シャインは衝撃を受け棒立ちになった。そのまま、後ろにひっくり返ってもおかしくない程だったが、何とか踏ん張ることが出来た。マシェリが笑顔で部屋を去るほんの短い時間だったが、彼にはとても長い時間に感じられた。そして、扉が閉まると同時に床にへたり込んだ。
「なっ、何なんだ、ぼく・・・」
胸に手を当てると、激しい鼓動が伝わってくる。不快ではない別の感覚で、初めて味わった新鮮な衝撃だった。再びノックする音がすると、今度はエルネストが顔を覗かせ、床に座り込んでいるシャインを見て不思議そうな顔で言った。
「何してんの?」
「あっ、いや別に・・・あー、カッコ悪い所を見られちゃったよ」
照れ隠しに頭を掻きながら立ち上がり、特別変わったことは無かったと言い訳したシャインに、エルネストは不気味に笑うと、まあいいさと肩を竦め出発を促した。彼はシャインがマシェリから、手痛い一発を喰らったのだと思ったようだ。
4 力を合わせるとき
エステルへの出発の時間、執事と館の使用人たちが、玄関まで見送りに来てくれた。
「また、お越しになって下さい。私共はいつでも歓迎しますよ」
執事が代表して言葉を述べると、学生を代表してエミルがそれに答えた。
「大変お世話になり、ありがとうございました。皆様のおかげで、エステルまで無事に旅が出来そうです。このご恩は一生忘れません。帰国しましたら、お世話になったことを含め報告致します。それから奥さまには、くれぐれもお体をお大事にとお伝え下さい」
「かしこまりました。では、お気をつけて行ってらっしいませ」
執事が丁寧にお辞儀をすると、学生たちを乗せた馬車は動き出した。いよいよ間近になった目的地、エステルへと確実に進むのだ。品の良い御者に素晴らしい馬たち、上等な作りの馬車はとても乗り心地が良かった。しかし、館を出てからはどういう訳か、誰一人として喋ろうとする者はいなかった。
「・・・シャインどうかしましたか?」
エミルの何度目かの問い掛けで、シャインは我に返った。
「あっ、あ。ゴメン!考えごとをしてたんだ、何?」
その様子を見ていたエルネストは、横を向いて肩を震わせ、笑いを堪えているようだった。
「大丈夫ですか?シャイン。今日の行程で、夕方までにはエステルに着きますよね?」
「勿論だよ、ここからは近い。何か心配事でも?」
「ええ、公国の総統府のことで、少し不明な所が」
エミルたちが、これから親書を携え行く先である公国総統府は、最近外国からの使節の受け入れを断ることがあるらしく、彼らは断られることを考えてはいなかったのだ。そのことについて皆で意見を出し合いたいと言ったので、全員で顔を突き合わせての相談となり、シャインとマシェリも真顔で付き合うしかなかった。
「そりゃあ失礼な話だよな?断るって。でも外国の使節を無碍に追い返すって、何かそれなりの理由ってもんがあるんじゃないか?」
「そうですね。今朝、執事さんから伺った話では、先月はルーリーの商人集団が返されたそうです」
ルーリーと言えば、武力のある国という共通認識がある。使節への対応はそれで良かったのだろうか、学生たちはそれぞれを置き換えて、自分たちならばと意見を述べ合った。全員の意見は纏まらなかったが、実際問題として自分たちはの場合は、ずっと規模の小さな使節である上全員が学生ときている。それを鑑みても、返されても不思議ではないだろうとその点だけは一致をみた。
「せっかくここまで来たのに、癪に障るよね!ミッションが完遂できないと、失敗でしょ?だから認めて貰えないよね?」
「その通りだけど、国もそのことを知っていて派遣しているんだよね?」
「うむ、まるで騙しあいゲームみたいだな。こうなったら当たって砕けろだ」
「ええ、本当に思ったよりも苦労させる仕組みですね。きっと、他のグループも間違えなく苦労していると思いますよ」
「はあーーーっ」
全員で溜息の合唱をした。エミルはそれが可笑しく思えたのか、また一人でクスクスと笑っている。マシェリはそんなエミルには、まだ純粋な心が沢山残っているのだと確信した。こんなにも純粋で、型にはまらないでいられるのはどうしてなのだろう、蝶に例えるなら、彼はまだ蛹にもならないでいる幼虫なのだろう。そうだ、彼はまだ幼虫なのだ。マシェリの考えはそこに行き着いた。知識も制度も何もかも彼は吸収している。欲しているのではないにしろ、勝手に身に着いているようだ。彼はこの先、本当の意味で大人になったらどんな大人になるのだろう。それを思うと、マシェリは父との約束よりも、この仲間たちとずっと居たい、と強く思うようになった。
昼を過ぎてから、街道沿いは再び家が立ち並ぶ景色に変わってきた。それは段々と広がって行き、大小の建物が連なり街を形成している。多くの人が住み、多くの物が行き交う活気のある小都市だ。公設市場だろうか、数多くの店が立ち並び、商品が山積みされている。買い物客も多く、祭りのような賑わいを見せていた。その買い手や売り手の中に、異民族の衣装を着た人が混ざっていたのを彼らは見つけた。
「あの変わった衣装の人は、どこの国の人でしょう」
馬車からだとよく見えなかったが、男女共華やかな衣装で目立っていた。
「オレが思うには、マクラスの草原に住む、騎馬民族だと思う」
「騎馬民族?何だか強そうだね」
「そうですか、始めて耳にしました。マクラスには騎馬民族が暮らしているのですね」
「うむ。彼らは国とは別に、自分たちで交易なんかしてるようだ」
彼らは知らないことが、まだまだ多いと改めて思うのだった。町の中心を抜けると、なだらかな起伏があり、再び広々とした畑が広がっていた。そして、その向こうに灰色のうねる蛇のように城壁が見えてきた。
「あれがエステルよね!?」
「そうだね。ぼくたち、とうとう来ましたよ」
カリナンからの三人は、目的地である場所に到着するのが二回目になるが、今回はミッション本番だ。嫌でも気持ちは高ぶる。四人はお互いに視線を交わし、無事にミッションが果たせるように祈った。
「どうか、親書を渡せますように!」
馬車は走る速さを落とした。城門は思ったよりも大きくもなく、城壁もそれ程高くはなかった。馬車は吸い込まれるようにエステル公国へと踏み入れた。そして、立派な建物の前で馬車が止まり、到着を告げたのだった。
「ここまで送って下さり、ありがとうございました。お陰様で大変助かりました。つきましては、主さまには宜しくお伝え下さい」
学生たちは丁寧に頭を下げ、戻って行く馬車を見送った。
「ここが総統府ですね、行きましょう」
大理石の階段を何段か上り、建物の中へと入って行った。まずは外国から来たこと告知する受付所で、彼らはアングレールから来たことを告げた。
「通行証を見せて下さい」
四人はまとめて出すと、係りの役人はパラパラと見ただけで、通行証の裏側にエステル公国の紋章が入った印を押し、直ぐに返してよこした。実に簡単な手続きで、少し拍子抜けした感じがした。そして、初めてのこの場で、情報が欲しかったので、役人に聞いてみることにした。
「少しお伺いしたいのですが、宜しいですか?」
「何か?」
何の用だと言わんばかりに、その役人はじろりと見た。
「大公殿下にお会いしたいのですが、どのような手続きをしたら宜しいのでしょうか」
「はあ?殿下にお会いしたいですと?あー、無理ムリ!やめておいた方がいいかも知れません」
「どのようなことで無理なのでしょうか」
「ご存知ないかも知れませんが、殿下はこのところ表にはお出にならないのですよ」
「表に出られていない?」
「はい。かれこれ半年近くでしょうか、ご病気で伏せておいでではないのですが・・・。ですから、色んな使節団がいらっしゃいましたが、皆帰られましたよ」
「そうですか・・・。でもわたしたちには、期限があるので急ぎたいのですが」
「期限で急ぎたいと言われてもねぇ。それでも、と言われるのならこの書類を提出してみて下さい」
役人は受付台横の机から書類を一枚出してくれた。謁見要請書というべき書類に、エミルは必要事項を書き込んで役人に提出した。
「この書類は、殿下がご覧になられますよね?」
「ええ、勿論です。毎日、係りの者が侍従を通してお渡ししていますから。でも、余り期待しないで下さいね、事態は変わらないと思いますので・・・もしも謁見が叶うのであれば、この建物の前の掲示板に張り出されますから見て下さいね」
期待するなと言われも、書類を出さない訳にはいかないので提出した。総統府の建物から出ると、近くに宿を探すことに決めた。全員が多少の落胆を感じながらも、落ち着いた街並みを眺めて歩いた。
「ここまで来て、またかという事案ですね」
「本当に難儀だな。しかし、やり遂げないとならんからな」
「何だろう、君たちツキに見放されている?」
「いや、ぼくたちは乗り越えて来た!だから、今回も乗り越えてみせるさ」
シャインはそう言ってみたが、こればかりは彼らの都合では、どうしようもないのかもしれない。
「ところで、お腹が空かない?どこかで食べましょうよ。あっ、良い匂い」
肉の焼ける美味しそうな匂いがしている。釣られるようにして四人は、通り沿いの羊肉を焼いている店に入って行った。
「いらっしゃい!おや、外国からの人?そちらのテーブルへどうぞ」
赤銅色の肌に、逞しい筋骨の主人が迎えてくれた。
「分かります?ぼくたち、アングレールからです」
「遠い所から大変だったね!ってそんなオイラは、ウータムのアルピ平原の出身だけどね」
「アルビって?」
店主は、自分も遠くからやって来たということを言いたかったようだが、彼らにはそれが伝わらずにがっかりしたようだ。ウータムはアングレールの北方に位置し、国土は東西に広く、その殆どが平原であるために牧畜が盛んな国だ。また、平原でも一番東に位置するアルビは、良馬の名産地として知られている。
「まあいいや、君たち学生かい?まさか、大公に会いに来たんじゃないだろね?」
「その、まさかです」
シャインの返事に、主人は首を振ってやれやれという表情をした。彼は、この半年で、何人の人々が大公に会えずに帰国したのだろうかと思った。
「注文は?おまかせでいいかい?」
メニューを見てもどんな料理か分からなかったので、学生たちは店主に任せることにした。店主は、生野菜を盛り付けた大皿に、香ばしく焼けた肉を削いで載せ、ソースを回しかけた。椀には、骨から採った出汁に、細かく刻んだ野菜を煮込んだスープを注ぎ、ゲンコツのよな堅いパンを木皿に載せて出してくれた。
「お待ちどうさま。肉はオイラが取り分けるよ」
店主は、手際良く小皿に野菜と肉を取り分けてくれた。肉に掛かったソースは野生のベリーだろうか、程良い酸味が肉の味を際立たせている。
「美味しい!こんなに美味しい羊肉は初めて食べたよ」
「美味しいですね。独特の臭みもないので美味しいです」
四人が口々に料理を褒めるので、店主も作り甲斐があると喜んだ。食事も終わりになり、今度は宿泊する所を探さなければという話をしていると、店主が店の直ぐ裏側に宿屋があると教えてくれた。この前は、ルーリの一団が泊まってたが、彼らは三日もしないうちに帰ったと言った。
「大公の加減が悪いとかで、諦めて帰っちまったけど、君たちはいつまで滞在するわけ?」
「実はオレたちは、時間がないんです。滞在できても四日間くらいなんです」
「そっか、可哀想に・・・。大公も、あんな人じゃなかったんだよ。前は、そりやぁ好奇心旺盛で、使節という使節には片っ端から会って、見聞を広げていたんだ。オイラの店にもお忍びで何回も来てくれて、ウータムの話で盛り上がったさ。でも・・・」
店主によると、2年前に大公妃が病で伏せるようになってから謁見回数が減り、半年前に大公妃が亡くなられてからは奥に引きこもってしまい、表には出てくれなくなってしまったという。勿論、総統府は上へ下への大騒ぎで、行政も滞りがちになってしまったようだが、役人たちが何とか現状を回復させて今に至っているようだ。そこで分かったことは、この国が使節団を追い返してしまったのでなく、会うことが出来ない理由があったのが分かった。学生たちは勘定を払って店を後にすると、裏手の宿屋「青い葡萄」に行った。この宿屋も謁見が減るにつれて宿泊客も減ったという。宿の主人は、彼らの滞在も一日か二日だと決めてかかっていた。
「オレたち、一応粘りたいんで。最大四日間頑張ろうと思ってるんだ」
エルネストの言葉にも、主人は薄く笑っただけであった。四人部屋に男子が泊まることになり、唯一の女子のマシェリは二人部屋に泊まることになった。その晩は、作戦会議と称してマシェリも男子部屋に来た。
「さて、どう攻めましょうか」
「書類を出す正攻法だと、進展無しだろうね」
「でもやはり、手続き上は正攻法しかありませんね」
外交関係となると、何事にも書類を提出してお互いに確かめ合い、すり合わせて行く必要がある。だが、それこそ求められる信頼でもあるのだ。一朝一夕に出来る業ではない。書類以外で大公の目に留まるには、と考え始めた時にマシェリが提案した。
「だったら、横から攻めるっていうのもありじゃない?」
マシェリの作戦は、総統府に掛け合うのは勿論だが、大公の宮殿に直接出向くという単純なものだった。
「不作為で外交問題になるかもしれませんが、その案も捨てきれないですね」
慎重派のエミルがマシェリの案を肯定したので、エルネストとシャインは少し驚いた。
「その場合、玄関からという訳にはいかんだろ?」
「うん。大丈夫だよ、探ってくるから」
マシェリは嬉々として答えた。つまり、彼女は諜報に長けているということなのだろう。
「餅は餅屋に任せるとして、詳しくは明日にならんと考えられんな。さてと、今日はこの辺でお開きにしよう。明日は頼むぞマシェリ」
「じゃあ、明日は別行動ね。オヤスミぃ!」
マシェリを見送ってから、シャインは呟いた。
「ねえ、マシェリが密偵だったら怖いよね?」
「だよな。おれはこう見えても、アイツと出会ってから見張ってたんだ」
エルネストが初めて本心を明かした。
「そうなのですか?わたしは女性だということで、まったく警戒はしていませんでした」
エミルはその点では、考えが甘かったと反省した。そして、マシェリが彼らに誠実であって欲しいと願うのだった。
翌朝、男子三人組みは、一般市民に混じって総統府へ出掛けた。今日も建物前の掲示板には、何も貼られてなかった。溜息混じりで再び書類を書くと、担当者も何事も無かったように受け取った。
「何だかやるせないな、こんなこと」
「仕方ないですよ」
三人で通りをぶらぶら歩きながら、何か得るものはないのかと探していると、シャインに閃いたことがあったようだ。
「ねえ、ぼくたちも大公の宮殿に、探りを入れてみようよ」
「簡単に言うけど、どうやって?」
「うーん。出入りしている人に、それとなく聞いてみるとか?」
「人の出入りがあればいいですけど」
関係者に聞くということは、手っ取り早い方法で有効手段と考えた。市街地図で、宮殿が総統府の裏側にあるのは確認済だ。角を曲がって、宮殿沿いに一周してみることにした。宮殿の周りには、高い塀が張り巡らせてあるのかと思いきや、柵のような作りになっていたので、乗り越えようとすれば出来そうな感じだった。柵の向こうには良く手入れされた庭が広がり、鮮やかな花々が咲き緑の木々も沢山ある。丁度、小さな森の中に宮殿があるような印象だった。散歩中の市民は、立ち止まっては美しい庭を眺めたりしている。ここは、市民のお気に入りの場所だろう。カリナンで例えると「湖に面した夏の離宮周辺」というところだろうか。彼らは一般市民に混じって歩いていても、まったく違和感なくどこにでもいる普通の若者に見える。老人が柵越しに庭を見ていたので、エルネストが少し馴れ馴れしく声を掛けた。
「こんにちはお爺さん。お爺さんは花が好きですか?」
「ああ、こんにちは。見慣れない顔だが、君も花は好きかい?」
「はい、こう見えても好きですよ」
なんとか話を合わせる努力をしているようだ。シャインとエミルは、声が聞こえる範囲で少し離れていた。エルネストと老人は、花の色や種類についてあれこれお喋りをして、なかなか核心的な所には近づかなかった。しかし、老人の口から「大公はバラの花がお好き」だということと、「宮殿の向こう側にあるバラ園がご自慢」と聞くことが出来た。
「今の時期、殿下は美しいバラに囲まれておいでだろうね」
「憧れますね、見てみたいですよ。見たことありますか?」
「いや、一般人で見ることが許されるのは庭師だけだからね」
「そうですか?オレ、庭師になろうかな」
エルネストの言葉に老人は声をあげて笑った。そして、二言三言言葉を交わし、エルネストは老人と別れた。彼らは少し距離を置いて歩き、角を曲がった所で合流した。
「公国のために頑張れ、って応援されちゃったよ」
「何とかも方便って言うけどね」
「シャイン、これはウソじゃないぞ。オレは花も好きだ!」
「人は意外性があっていいですね」
「エミルまで疑ってるのか?ショックだな」
エルネストは笑っていたので、口ほどのショックはなかったようだ。エステルの紋章が付いた門扉は閉じられていたが、こちらの通り沿いが宮殿正面になっていた。総統府と背中合わせになっている宮殿の前庭はとても美しく、緑の絨毯を敷いたように手入れされている。しかし、その庭には警備の人影も見えなく、どことなく淋しさも感じられ、誰とも会うことを拒むような雰囲気があった。再び角を曲がり程なくすると、通りからは視線を遮るように、植木が密になっている所が続いた。この場所が、大公だけのバラ園だと想像出来る。その場所を過ぎると柵は、また元のように総統府の建物裏手まで続いていた。だがその柵は総統府裏手の一角に門扉が付いていて、誰でも簡単に出入りができそうな所があるのを発見した。反対側の通りからでは、樹の陰で見えなかったのだ。
「通用口かな?」
「そうだと思います」
「それにしても簡単だな。市民に対する警戒心が無いっていうのか、信頼しきっている感じがするな」
「そうですね。でも案外、総統府からの出入りが大変かもしれませんよ」
エミルのその危惧は当たっていた。その日の晩マシェリからの報告で、総統府から宮殿へ行くには至難の業だということが分かった。彼女は運良く元総統府で働いていた女性と、宮殿御用達の植木屋に話しを聞くことが出来たようだ。宮殿へ行くには、決められた役人が持つ通用口の鍵が必要で、通用口へ向かうにも役人の中を縫うようにしなければならないという。庭の手入れをする庭師も、毎回総統府の中をあちこちしながら通用口を通って行くという。マシェリの話は信用できそうだ。
「勿論、正門はずっと閉じられたままらしいよ。どうする?横からよじ登っちゃう?」
「無理でしょ、そんなこと。見つかったら監獄へぶち込まれるのがオチだね」
「じゃあ、どうすんのよ」
「もっと良い手がある筈です。わたしたちは自分勝手だと、言われるかも知れません。でも、今の大公のお気持ちを変えて差し上げたいとも思うのです」
「そうだな、大公の気持ちさえ変わればいいのにな。オレたちも、もう少し考えよう」
その日はそれで話は終わり、少し不服そうな顔をしてマシェリは部屋へ戻って行った。しかし、その日の話し合いはここからが本番だった。というのも、万が一を考えて男子だけで話すということを決めておいたからだ。三人だけなら、お互いに裏切る意味が無いというのも確認済みである。
「総統府の二階に図書室か、書庫があるようです。わたしは、そこを使いたいと思いました」
「そんな所でどうするの?」
「勿論!宮殿へ乗り込むのです」
流石にシャインとエルネストは驚いた。総統府の建物は、一階の宮殿側には窓が無いが、二階なら小さな窓があるのをエミルは見逃さなかった。二階から飛び降りても、下には丸く刈られた低い樹木が多く植えられているので、怪我はしないと思うとエミルは言った。
「全く君って人は恐ろしいよ」
「本当だ。何を考え付くか分からないし、敵にはしたくないヤツだな」
「手段を選べないですから。それと、マシェリにちょっと細工したいと思うので協力して下さい」
それからエミルは計画を二人に説明した。彼らは、悪戯をする子どものように胸をときめかせた。
「これなら、誰も傷つけなくて済むと思います。もし咎められたら、わたしが全責任を負います」
発案者のエミルはすべての責任を取るつもりでいる。
「いや、オレたちも同じだ。アンタだけに罪を被せることはしないよ」
「うん、ぼくも同じだ。例え結果がどうであれ、君たちと運命を一緒にするよ」
二人も快く協力することを誓った。そしてそれは、翌日実行することに決まった。
朝食後、部屋に戻ったまま出て来ない男子たちに、今日は要請書を出さないのかとマシェリが言いに来た。しかし彼らは、小さなポットで湯を沸かしてお茶を楽しんでいる最中で、誰も腰を上げようとしなかったのだ。
「ねえ君たち、どうしたのよ。考えつかないからお茶してる訳?」
「そうかもね」
「そうって、シャイン!君たちらしくないじゃないの」
「イライラしても、良い案が浮かぶ訳でもありません。じっくりと考えることも必要です」
「あーっ、エミルまでそんなこと言ってていいの?エルネストも何か言って!」
「あぁううん。煮詰まる時もあるってことよ」
マシェリはがっくりと肩を落とした。そんな彼女にエルネストがお茶をすすめた。
「うん。こうなったらアタシも付き合うわ」
彼女はすすめられるままに、カップを受け取るとお茶を飲み干した。
「若い茶の葉かしら、ちょっと青臭い気がしたけど」
「えっ、そうかい?ぼくは美味しいと思ったよ」
「気のせいかなぁ・・・」
マシェリは首を傾げた。
「さてと、マシェリがまた騒ぎ出す前に、要請書を書きに行くか」
「そうですね、行きましょう」
彼らは揃って総統府へ出掛けた。また、同じ様に要請書に書き込み、それを提出する時にエミルは役人に尋ねてみた。
「すみませんが、ここで本を貸してくださると伺いましたが」
「はい?あー、この街の人だけが対象なんですよ」
「わたしたち旅の者には、貸して頂けないのでしょうか?何日も何もしないのは辛くて、せめて気を紛らわせるために読みたいのですが」
その声が聞こえたのか、上司と思しき年配の役人が「特別だ」と言って許可してくれた。
「この階段を上った、突き当たりの部屋ですよ。ごゆっくり」
役人はもう彼らには興味が無いようで、自分の場所に戻ると黙々と仕事を続けた。彼らはなるべく音を立てずに階段を上り、正面の部屋の扉を開いた。部屋は思ったよりも広く、運良く彼らの他に利用者はいなかった。窓は少し高めの位置にあり、下の半分が開けられるようなっている。
「埃っぽいな」
エルネストがなに気ないように窓を開け、窓の下が宮殿の庭であるのを確認した。
「澱んでるね、空気の入れ替え・・・ああっ」
マシェリに急激な体調の変化が起きたようだ。
「マシェリ、どうかしましたか?」
「エミル・・・アタシ、体が・・・」
体が痺れて、思うように動かせなくなっている。そして、膝から崩れ落ち、目もしっかりと開けていられなくなったようだ。エミルは彼女を抱きかかえると、ポーチからハンカチを出し、そっとマシェリの顔に掛けた。
「いい・・・にお・・・い・・・」
そう言ってマシェリは気を失った。
「後は、手はず通りに頼みますよ」
エミルはハンカチをポシェットに仕舞い込むと、マシェリをエルネストに委ね、その身を窓から躍らせた。バサっと音がして、植え込みに落ちたようだ。シャインはそれを確認すると、何事もなかったように窓を閉めた。エルネストは、マシェリを入り口から見えない場所に移し、しばらくの間耳をそばだて、息を潜めていた。彼らの心臓の鼓動は、周りに聞こえそうなくらいの大音響だ。エルネストも実戦形式の訓練では、こんなにも緊張をしなかったのを覚えている。シャインは初体験の緊張で、卒倒しそうな自分に叱咤した。幸運なことに、誰もこの小さな異変に気が付いていないようだ。シャインは図書室の扉を少しだけ開け、廊下を窺ったが二階には誰も来る気配がなかった。そっと身を滑らすようにして廊下に出ると、今度は階下のようすを窺い、市民が手続きや何やらで増えてきているのを確認した。そこで、ごく普通な振る舞いに戻る努力をして、中のエルネストに声を掛けた。
「そろそろ、いいよ」
エルネストはマシェリを背負って出てくると、ゆっくりと階段を下りて建物から出ていった。市民は意外にも無関心で、そんなエルネストを見咎める者もなかった。シャインは殿として、少し時間を置いてから受付の役人にお礼を言って出て来た。彼らは逸る気持ちを抑え宿に帰ってきた。ちょうど部屋の掃除が終わった主人に出くわしたが、エルネストが彼女の体調が悪いとだけ言うと納得したようだった。マシェリを彼女のベッドに寝かせ、シャインと交代で様子をみることにした。
庭の茂みは絶好の隠れ場所だ、とエミルは思った。上手く落ちたこともあり、怪我もなく予定通りだった。あとは野となれ山となれの心境だ。総統府から見えないように、通りからも見えないように、木立に隠れながら少しづつ進み、バラ園を目指した。今のところ、彼の侵入に気付いた者はいない。だが、進んで行くと、どちら側からも丸見えになってしまう場所があった。エミルは目と耳の神経を研ぎ澄ませると、全身を最大限に緊張させた。通りには柵沿いに、ゆくりと歩いて来る市民がいたのだ。市民の動きに合わせて隠れると、総統府からは丸見えだ。そこで彼は、賭けに出た。市民の動きに合わせて移動したのだ。大胆な彼の行動に、総統府の役人は誰一人として気付く者がいなかったのだ。そして遂に、低い柵を越えてバラ園に入ることが出来た。バラ園は広く、様々な色と種類のバラが蕾を持ち、膨らませ花を咲かせていた。その漂う芳しい香りには、誰もが魅了されてしまうことだろう。エミルは聞き耳を立てると、自分の居る場所に近づいて来る足音に気付いた。ゆっくりとした足取りだが、確実に間が詰まってきている。エミルは覚悟を決めて音のする方に向き直ると、垣根の間から初老の男性が現れた。エミルは直ぐに片膝を着き、深く礼をした。
「はっ、アリー!?・・・いや、アリーじゃない、君は誰だ?」
男性はウォルフィール・エステル公その人であった。彼は、わずかに唇を震わせている。
「わたしはアングレールの学生、エミル・エスナールと申します。どうしても殿下にお会いしたく、この様な無礼な真似を致しました、お許し下さい。妃殿下につきましては、ご薨去のお悔やみを申し上げます」
エステル公は深く吐息した。
「ふむ、要請書を書いた学生だな。だが、なぜ君がここに居るのだ?」
丁度その時、エステル公の後ろから声がした。
「殿下!どなたと話されていらしゃるのです?」
小柄な老婦人がエステル公の脇から顔を覗かせ、エミルを見ると金切り声を上げて尻餅をついた。
「あれぇー、奥さま、奥さまが・・・」
慌てる侍女にエステル公は苦笑した。
「良く見なさい、ゾフィー。アリエールではありませんよ」
ゾフィーと呼ばれた侍女は、エミルの顔をまじまじと見つめると立ち上がった。
「驚きましたよ。私、危うく心臓が止まるところでした」
侍女の慌てぶりにエステル公は小さく笑い、テラスで一緒にお茶でも飲もう、とエミルを誘ってくれた。
「まあ、殿下!久しぶりですね。お菓子もご用意しましょうね」
ゾフィーは少女のように上機嫌で、お茶の用意をする為に戻って行った。案内されたテラスには、小ぶりのテーブルに椅子とベンチが置かれていた。エステル公に椅子を勧められエミルは座ってみると、ここからの眺めが格別であることを確信した。
「殿下がお元気そうでいらっしゃるので安心しました。きっと、このバラのお陰かもしれないですね」
エミルの言葉にエステル公は頷いた。そして今日、エミルと出会えたのは亡き妻アリエールの意思だろうと言った。彼は、アリエールが亡くなってからずっと塞ぎ込んで何もする気が起きなくなり、いつになったら元通りになれるのか、と自分自身でも思うようになっていたという。それが突然、バラの茂みから現れた妻に良く似た少年により、冷たくなっていた大公の心が、再び温かさを取り戻したようであった。エステル公はお茶を飲みながらエミルの話に耳を傾け、面白い話には声を上げて笑ってくれた。そんな様子を傍らのゾフィーは喜ばしく思った。勿論、エミルは本題を忘れて話し込んだ訳ではない。先にアングレールからの親書に、皇女エリエールから預かった手紙を添えてエステル公に手渡してある。奇跡がもたらした楽しい時間は過ぎ暇を申し出たエミルに、エステル公は明日からは全て元通りの生活に戻すと宣言をし、返書を渡すので明日の朝10時に宮殿へ来るようにと言ってくれたのだ。
「明日は、正門から入っておくれよ。君に会えて本当に良かった、ありがとうエスナールのエミル。君は素敵な天使だ」
エステル公は涙を堪えながら微笑んだ。