番外 猩々の名を呼ぶ者③
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聡い彼女のことだ。
この醜い感情に気付かぬ訳はない。
苟絽鶲国の彼女の部屋で聞けなかった。
旅立つ前に尋ねようとして振り向けば…彼女が泣いていたから。
暫し、沈黙が落ちる。
「利用しようとしている、その事には気付いていました。」
彼女が、そっと蒼月に視線を投げる。
あれは周囲に人がいないか確認させる合図。
蒼月が僅かに顎を引く。
それは人がいない、という返事。
思案するような、彼女の眼差し。
やがて笑みが溢れた。
「だけど、貴方のように利用しようとする相手へ隠すこともなく感情をぶつけてくる人なんていなかったわ。その態度がとても新鮮だった。」
言われなくてもわかってしまう。
砕けた口調は、緋葉に対する返事だから。
彼女曰く、取り入るだけのつもりなら、感情に蓋をするだろう、と。
それが他者には感情を見せないのに、彼女にだけは露にする。
「その態度は、まるで『貴女は特別だ』と言われているようだったの。」
その台詞に目を見張る。
彼女にだけ、感情を。
そうだっただろうか?
「貴方が私の立場を利用するというのなら、別にそれでも構わなかった。青い鳥の恩恵に預かろうと人は私に縁を求め、そこから生まれる財や幸運を求める。元から青い鳥と呼ばれる存在にはそういう利用価値があるの。だから貴方のように近づいてくる存在は私にとって普通なのよ。」
彼女は柔らかい表情の中に、時おり見せる冷たい笑みを浮かべ言い放った。
そんな表情すらも彼女を艶やかに彩る。
「だけどね、だからといって全てを許すわけではないわ。私にも矜持がある。私に、そして私の大切な人に危害を加えようというなら、容赦なく叩き潰す。それでも私を踏み台にという気概が今もあるというのなら、試してご覧なさいな。受けて立つわよ?"緋葉"。」
…今更抵抗したとしても、完膚無きまでに叩き潰されるのだろうな。
彼女の言葉の裏にあるのは数多の局面を乗り越えてきた自負。
気高く侵しがたい風格さえ漂う。
そして、彼女がいつものように名を呼んだことに安堵する。
初めて会った日、彼女が付けてくれた大切な名だ。
彼女なら恐らく本当の名を知っているのだろう。
それでも彼女は二人きりの時でさえ"緋葉"としか呼ばない。
だから自分も彼女を"姫"としか呼ばなくなった。
姫という呼び名は記号と同じ扱いの筈なのに、いつしか彼の中で人格を得、自分だけが彼女を呼ぶ愛称となっていた。
この名で呼ぶときだけ、彼女は自分のもの。
醜い気持ちが変化した今も呼び名を変えることは出来なかった。
そっと彼女の手を取る。
「わかっている。結局は貴女の手のひらの上だ。」
彼女の側にいることを選んだ時点で決まっていた未来。
その未来に囚われることを望んだのは自分だ。
「貴方が何を考えてこの話を振ってきたのかは大体が想像つくけど、愛する者を利用することが悪であるというほど、世の中は単純に出来ていないわ。特に家という社会的な基盤が絡むと子孫や使用人のためにも家を盛り立てる義務が生ずる。私だって貴方を引き取ったとき、純粋な好意だけでなく利用する気でもいたわ。そんな私は清らかでもなければ、ただ優しい訳ではないの。それで私のことを貴方は蔑むかしら?それとも嫌いになる?」
「そんなことがあるわけないでしょう?全てを含めて貴女は、貴女だ。貴女と同じ女性は二人といない。だからこそ、貴女と定めた。」
主として。
そして、たった一人の女性としても。
「私もよ。こういう負の感情も汚い思惑も、過去も未来も込みで愛されるのなら、これ以上の幸せなんてないわ。あの家は相手の家名や立場を利用するだけして、他者に利益をもたらさないから必要以上に恨まれ疎まれたけれど、黄家の未来はこれから決まる。それは貴方と私の心掛け次第でいくらでも変わるものよ。それにね、貴方を選んだのは情だけではないの。私は人と情報を扱うことに長けてはいるけれど、人が集まらなければ繋ぐこともできない。でも貴方は、その天与の力で人を集めることができる。私は欲張りなのよ。愛だけでは、地位がもたらす責任を果たせない。だけど愛がなくては地位などあっても虚しい。欲張りな私は両方共欲しいのよ。」
だからこそ貴方を選んだ。
真っ直ぐに感情を顕にする彼女の言葉に、胸が震える。
「本当は陶家に迎え入れる予定だったのに、海を越えなければ貴方が手に入らないなんて誤算だけど嬉しいわ。この国に貴方が必要とされているという証で、貴方の重ねた努力の結果だもの。」
「俺からも感謝を、我が姫。」
彼女が握った手をほどき、手を伸ばすと首筋に添える。
近づく互いの瞳。
真昼でも輝く星が手を伸さずとも届く程近くにある。
緋葉は真っ直ぐにその瞳を見つめた。
今度は見失うことのないように、そう願いを込めて。
「きちんと言えていなかったでしょう。だから今言うわ。おかえりなさい、緋葉。私のもとへ帰ってくる約束をちゃんと守れたわね。勇気をもって思いを伝えてくれた貴方に一ついいことを教えてあげる。貴方は、吟遊詩人に歌われる陶家当主の恋愛譚を知っているでしょう?」
「はい、何度か耳にしたことがあります。」
「陶家当主は黒い髪に青い瞳を持っていたと言われているの。そして、彼が異国で見初めた花嫁は燃えるような赤い髪を持っていたそうよ?」
「…それは。」
「ご先祖様がそうなんだもの。きっと陶家の青を持つ者は、赤い色を持つ人間には弱いのね。」
思い出せば彼女は姉君の赤みがかった茶の髪を嬉しそうに結い上げていた。
赤は異国からの旅人の色でもあり、情熱と自由を現す色でもある。
青い鳥と持ち上げられても、この国ではいわゆる籠の鳥。
だからこそ青を持つ自分は赤色に憧れるのだ、と。
「初めて会ったとき、紅蓮の炎を孕む猩々緋色の瞳に惹かれたの。これは間違いなく純粋な好意ね。これが貴方を選んだもう一つの理由。」
この緋色は私のもの、だから誰にも渡したくない。
いとおしそうに彼女の指先が目元をなぞる。
指先から伝わる熱が彼女の焦がれるような感情を現すかのようだった。
想いを返すように彼女を抱き締める。
呪いのような緋色を愛してくれる人に感謝を。
「光栄です、姫様。」
「それにしても貴方、大変ね。黄家当主たる黄九垓と緋葉を使い分けなければならないなんて。」
「いや、意外と簡単ではないかと思い始めました。」
「あら、なんで?」
「緋葉と呼ぶのは貴女だけだ。」
緋葉であるのは貴女の前だけ。
その言葉に彼女が嬉しそうに微笑む。
吸い寄せられるようにその果実のような唇へ自身の唇を寄せた。
熟れきって、甘そうだ。
「んんっ。お二人とも、そろそろ宜しいでしょうか?」
若干疲れを滲ませた蒼月の声に我へと返る。
彼の存在を忘れて二人の世界に浸ってしまった。
彼女の…華凉の屈託のない笑い声が庭を満たす。
やがて庭の入り口から使用人達が姿を見せた。
間もなく、宴の準備を始めるらしい。
華凉が侍女に伴われ庭を後にする。
名残惜しそうに、艶やかな笑みを残して。
蒼月と二人、庭に取り残される。
この庭も間もなく宴席の準備のために賑やかになるだろう。
華凉が希望した自然と花に囲まれた婚姻の宴を催す、その準備のために。
牡丹の花がちょうど見頃になる時期に間に合って、よかった。
溌剌とした表情で忙しそうに走り回る使用人の姿を目で追う。
「よかったですね。ちゃんと伝えられて。」
視線はそのままに蒼月の言葉へと頷く。
「言わないままに済ますのは、どうも性に合わなくて。」
「そういうところは昔から変わらないですね。」
蒼月が微かに笑う。
月のように静謐な彼の笑みもまた、変わっていないようだった。
「これから、よろしく頼む。」
「はい、黄家ご当主。陶家より遣わされた使用人一同、心よりお祝い申し上げます。」
「陶家といえば、そろそろ義父上と義兄上も見えられる頃か。」
「はい。ああ、伝言を承っております。『首を洗って待っていろ』だそうです。」
「…婚姻のお許しはいただいたと思ったが?」
「ですが『それとこれとは別だ』とも仰っていらっしゃいましたよ。」
「…。」
「ちなみに青家御当主からは『鬱陶しいがそのうち慣れる』だそうです。」
慣れていいものだろうか?
一生かかっても慣れなそうだが。
「青家御当主と義姉上は来られないらしいな。」
産まれたばかりの息子がいるため、また南陵関を守るためだと聞いている。停戦中とはいえ、隣国である大国との関係は不安定なままだ。いざとなったとき、戦の陣頭にたつのが幼い息子を守る妻では士気に関わるということらしいが。
「桂花様が陣頭に立たれる方が士気が高まる気がするのだが。」
「そう言って砦の皆が説得したのですが、聞く耳持たずといったところのようです。」
義理の姉となる桂花は南陵関の兵士を完璧に手懐けていると聞いた。
なんでも最初の頃に、舐めてかかってきた兵士を遠慮なく叩きのめしたところ、それ以来彼女は戦の女神が如く崇められているらしい。
華凉が『さすが姉様、あの容赦ないところがまた素敵』と絶賛していたことから推察するにあの美貌に凄惨な笑みを浮かべ、とことん兵士を追い詰めたのだろう。
隆輝様、逆に不安で南陵関を不在に出来なかったのではないか、その台詞をぐっと飲み込む。
他人事とは思うなかれ、明日からは我が身だ。
「董家夫人も御懐妊されたとのこと、めでたいことだ。」
もう間もなく月満ちると聞いている。
そのために董家当主たる義兄上も参加を見送ろうとしたそうだが、夫人に説得されたそうだ。
命を懸け、祖国を守ってくれた英雄にお礼を言って欲しいのだ、と。
溺愛する夫人に頼まれ、後ろ髪を引かれる思いで参列されるらしい。
機嫌はさぞかし悪いだろうな。
一つため息をつく。
「念のため、鍛練場に白線を引いておきました。」
蒼月が真面目な顔で報告する。
口元が笑いを堪えて、若干ひきつっているのは気のせいか?
白線を引いた枠、その線の中であれば、どんな技を繰り出そうとも構わない。
そして枠から出てしまった方が負け、となる。
陶家でよく使われる訓練方法だった。
「…これから宴の準備があると思うのだが。」
「冬眠前の熊状態である貴方は邪魔のようで、誰も反対しませんでしたよ?」
諦めていってらっしゃいとの台詞と共に蒼月が指差した先には、闇を背負った義父上と義兄上が立っていた。
にやり、と笑いこちらへ近付いてくる。
「…うわ。」
「骨になる前に止めていただけるといいですね。」
このあと、宴に間に合うよう枠から当主が放り出されるまで使用人は誰も近づいてこなかったという。
すっきりした表情の二人に、げんなりとした表情の一人。
今まで以上に家同士の友好関係は深まったに違いない。
そして、宴が始まる。
新たな門出を祝う席に相応しい演目が続く。
華凉は神の使いとも呼ばれるに相応しく、輝くばかりに美しかった。
招待客が口々に褒め称えるのを羞じらいつつ品よくあしらう。
黄家当主が国を守った褒賞にと望んだ少女がどれ程のものかと興味津々であった彼らも十分に納得した。
演目にはなかったが招待客からの要望に答える形で、華凉が持ち前の美しい歌声を披露したところで興奮は最高潮を迎え、宴はお開きとなった。
宴の終わった後の静けさの中。
無事に披露を終え、黄家夫人となった華凉の部屋に訪いを告げる音が響く。
華凉は扉を開け、招き入れた。
緋葉はぐるりと部屋の中を見渡して、尋ねる。
「何か不都合はありませんか?」
「ふふ、大丈夫よ。ありがとう、緋葉。」
華凉は円卓の上に洗った髪を乾かしていた布を置く。
髪からは、ふわりと香の薫りがした。
蠱惑的な薫りに誘われ視線を動かせば、見慣れた盤と並べられた白い石が視界に入る。
「今でもお使いなのですね。」
「あら残念ね。あまり使ってはいないの、あの時から。」
「この布石は…広寧国と、ランダールの侵攻。」
国に置かれた白い石の配置から情勢を読み取る。
緊迫したその当時の情勢を映したままに置かれた白い石。
「これは、教訓ね。時々当時の状況を思い浮かべながら考えてるの。本当に打つ手はなかったのか。」
狼狽えた自分への教訓。
いつも同じ布石を見てるから石の場所も覚えてしまったと、苦笑いを浮かべた。
彼女の視線が窓から外を眺める。
同じ景色を見ながら、思い浮かべるのは自身の知らない景色なのだろう。
その事が、どうにも落ち着かない。
彼女の頬に手を添え、ゆっくりと引き寄せた。
二人の視線が絡み、どちらからともなく微笑む。
一層深く香が薫った。
「あの当時は、たぶんこれ以上打つ手がなかった。だけど、これからは違う。」
彼女の華奢な指先が新たな白い石を成安国に置いた。
「ここが新たな基点となる。その事がこんなに嬉しいなんて。貴方の隣が私の基点となり、望むように貴方を助けてあげられるわ。」
彼女の言葉を聞きながら吸い寄せられるように互いの身を寄せた。
上がっていく体温が心地よい。
「ならば貴女を守るのは、俺が。」
求められるがままに、唇を塞ぐ。
時折、零れ落ちる呼気の隙間から小さく彼の名を呼ぶ声が聞こえる。
彼女を手に入れるために本当の名を捨てた。
成安国で名乗る名さえ、他人のもの。
新たな姓である黄の一族は戦乱により途絶えたとされているが、やはり血の繋がりは残っていたらしい。
有名になった黄九垓に、接触を持とうとする自称"黄家の生き残り"が水面下で現れていることを彼女はまだ知らない。
黄家当主の直系である黄蟻は黒い髪に、黒い瞳。
それが一族の徴であれば、もしかするとこの容姿に疑念を抱く者が現れるかも知れないが。
わずかに笑みが溢れる。
それならば、自分が対処すればいい。
この程度で彼女の手を煩わせることもないだろう。
黄家の闇は名を継いだ自分が背負うべきものだから。
「もっと、俺の名を呼んでください。」
偽りに満ちた自分の、唯一の本当。
"緋色の羽を持つ木の葉蝶は同じ場所を目指し舞い戻る"。
古い言い伝えになぞらえた、この呼び名は貴女だけのもの。
彼女が幸せに満ちた表情で自身の名を呼ぶ。
「緋葉。」
だから今だけは。
貴女がくれた名で、望むように呼んで欲しい。
その時だけは、嘘偽りなく真実の自分であるようにと願う。
俺は彼女と共にあるために名だけでなく、国も捨てた。
だから今はもう荒ぶる神の化身と…猩々とは呼ばれない。
緋葉サイドのお話はここまでです。
お付き合いいただいてありがとうございました♪
次は本編からこぼれたお話を纏めました。




