番外 猩々の名を呼ぶ者②
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内容には変更がありません。
情報は体内を巡る血と同じ。
循環し、常に新鮮な状態にあることこそ最良。
持ち帰った情報は分析され、速やかに国へと報告された。
だがそれはあくまでその時点で正しいというだけの話。
戦端が開かれれば、時に暴走するもまた情報という媒体の持つ性故。
混乱を極める彼らを纏めることができるのは戦場で名を上げ、信頼を得た者。
そして圧倒的な強さを見せた者。
「まさかこんなことになるとはな。」
速やかに手柄を立て、姫様の元へ戻る。
それが気が付けば他国の戦場の最前線。
「予想されていたのか、それとも。」
あえて見過ごされたか。
彼女と初めて会ったとき、その鮮やかな色合いに似合わぬ深い輝きを湛えた瞳に魅了された。幼くして情報を分析し、それを基に未来を見通すかのような差配の数々はやがて人々の信頼を得ていく。何事にも器用で余裕な態度を崩さないため見過ごされがちだが、根は真面目な努力家。
彼女は美しく、そして優秀だ。
離れている間に、もしも彼女が別の者を見つけてしまったら。
自分ではない誰かを愛してしまったら。
「迷うなよ、若いの。」
軽く肩を叩かれる。
振り向けば幾つもの戦場を共に渡り歩いた者達が並ぶ。
「今日が山場だ。こちら側も善戦したが、補給も途絶え皆体力も限界だ。」
一つ、頷く。
「この中の誰かが、死ぬかも知れんな。」
ここは戦場。
仲間であったものが命を落とすなど日常。
誰も死なないなど幻想に過ぎない。
「だが、死ぬわけにはいかない。」
「そうだ。だから皆、お前についていくんだよ。」
強さは時に希望となる。
今日を、明日へと繋げるために。
「お前の姿を見ていると、昔聞いた苟絽鶲国の一族を思い出すな。彼らは常に戦の先陣を切ることを誉れとし、その勇姿に味方は力を得、更に力を増し奮い起ったという。
武に長けた者が多い一族の中でも当主は更に強かったらしい。瞳は赤く、闇の中でも不気味に輝いたとか。彼らは性質が傲慢で残忍、数多の人間を踏み台にした。結果、武力においては国の頂点までのし上がったが、最後は人々に忌み嫌われ、国に歯向かい滅ぼされたらしい。」
その赤い瞳を"猩々緋色の瞳"と呼ぶという。
仲間の言葉に心拍数が上がる。
国に破れ地下に潜った紅家が公の場より姿を消してから随分と時が経った。それでもまだ、こんなにも自分の行く先々に影を落とす。
やっと独りになって紅家は絶えたも同じはずなのに。
再び逐われるのか。
また捨てられるのか。
思わず目を伏せる。
だが聞こえてきたのは想定外の台詞だった。
「しかし同じ赤でも、お前の瞳の色と大違いだな。お前の緋色の瞳は従う者へ信頼を与える。圧倒的な強さを見せるお前についていけば生き残れるのではないかと。」
「お前がどこの出身かなんてこの戦場では関係ない。武に長けた黄一族の生き残り。
それだけでお前の経歴は充分なんだ。」
弾かれるように顔を上げると皆が笑みを浮かべていた。
この場所にいるものは皆何かしらの過去を抱えている。
その過去とは何か自分は知らないし、知ろうとも思わなかった。
知らなくとも信頼できる技量を持つ者だけが生き残ることのできる世界。
力こそ、全て。
『出自など問題にされぬほどに強くなれ、魁成。』
父が最後に残した言葉が蘇る。
家名に頼ることなく新たな時代を切り開く魁と成るように。
その願いが名の由来であると言っていた。
そのためには生き残らなければ。
なんとしても。
時代の流れにより、求められるものは変わる。
いつかこの力も淘汰され、失われてしまうものかもしれない。
それでも、今この場では、最も必要とされる力。
『死ぬことは許しません。』
思えばあの方が泣くことなど一度もなかった。
常に理性を湛えていた瞳が垣間見せた感情。
…一瞬でも疑ってしまうとは。
戯れでもそんな言葉を口にする方ではないというのに。
遠方から徐々に近付いてくる蹄の音。
砂と血煙の漂う中にあって、どこからか潮の香りが漂ってくる。
海の方角が騒がしい。
今日で何かが変わる、そんな予感がした。
「それまでは持ちこたえなければ。」
何かが変わる、その時まで。
ーーーーーーー
戦が終わり、三年の月日が経った。
成安国にある黄家はかつてない興奮に包まれていた。
当主は圧倒的な武の才を持ち、広寧国との戦で活躍し平民にも係わらず将軍位に次ぐとされる位を得た。
その人物が此度の戦で褒賞にと願ったのは苟絽鶲国で"青い鳥"とも"神の使い"とも呼ばれる美貌の才媛。
引く手数多の彼女を得るためにと、彼は数々の困難や苦難を乗り越えたのだという。
その情熱が実り、阻む海すら越えて彼女の心を射止めた。
二人の恋愛譚は今や吟遊詩人にも吟われ、苟絽鶲国だけでなく成安国でも知らぬものはいなかった。
そして本日、彼女が黄家へと輿入れする。
ウロウロ部屋の中を歩き回る年若い当主の姿が微笑ましいと好意的に見つめる使用人の中にあって、ただ一人、口元に笑みは浮かべているもの呆れたような視線でその姿を眺めている者がいた。
やがて緊張が極まったのか無言のまま部屋から出ていった当主の姿に、一つため息をつき後を追う。
「もう少し落ち着いて頂けませんか?」
「…。」
「まるで冬眠前の熊のようで鬱陶しいのですが?」
「…蒼月、二人きりの時は敬語を止めてもらえないか?」
「華凉様が仰っていたでしょう?癖になっては困るのですよ。それに会話を聞かれて、貴方と私に繋がりがあったと勘繰る者がいたら色々面倒でしょう?」
声を潜め、交わされる二人の会話。
蒼月は婚姻の宴の準備のために陶家から遣わされた者、という設定だった。
時は過ぎていくもの。
彼もまた華凉が嫁ぐと同時に、この家の使用人として働くことになっていた。
確かに親しくして繋がりがあったと思われては困るし、過去に疑問を抱かれるのはもっと困る。
「ひとつ覚悟しておいた方が宜しいかと。」
「何か不備があったか?」
「あの方のお姿に、ですよ。いざ対面して狼狽えることのなきように。」
「一段と美しくなられたと聞いている。」
「たぶん想像以上だと思いますよ。…お前の狼狽える姿が見ものだな。」
捨て台詞を少しだけくだけた口調に変えて微笑むと蒼月は深々と一礼する。
間もなく到着する花嫁を門まで迎えに行くそうだ。
自身の他、誰もいなくなった家の庭に咲き誇る牡丹の花。
彼女のためにと植えた花は今が見頃だ。
「何を言えばよいのか。」
三年の間、数えるほどしか会えなかった。
使用人として接する期間が長かったために、どうしてもくだけた会話ができない。
最後に会ったときは『それも貴方らしい』と苦笑いを浮かべた彼女。
次に会うまでの宿題ねと、笑って受け止めてくれた彼女に何と言えば喜んでくれるのか。
「ご当主。花嫁様が到着されました。」
使用人の言葉で我に返る。
応接間に向かおうと振り向いた彼の足が止まった。
頭上に広がる青空の欠片が、地上に舞い降りたか。
一目見てわかる質の良い外出着、その紺色に映えるのは、蒼天の輝きを纏う一対の青い瞳。
「お迎えに上がりましたわ、旦那様。」
優雅に礼の姿勢をとると笑みを浮かべ佇む華凉の姿は確かに想像以上だった。
艶やかな黒髪は邪魔にならぬように結い上げられ、根本には牡丹の意匠を施した簪が品よく飾られている。
彼女の美しさには絢爛に咲き誇る牡丹の花の精すら従うだろう。
呆然として、言葉を失う。
「言葉もないようですわね。精一杯、装って参りましたのに。」
「いや、あまりに途方もなくて…。」
「長いこと、訪いがなかったから罰が当たったのですわ。」
黄家当主たる黄九垓に接するときの彼女は敬語で話す。
彼を人目のないところで緋葉と呼んで接するときとは雰囲気まで別人のよう。
ここまで完全に使い分ける器用さは自分にはなかった。
今の台詞も新妻が寂しくて拗ねているかのように聞こえるが、目元が、口元が明らかに笑っている。
翻弄される自分を完全に面白がっているようだ。
咲き誇る牡丹を従える彼女を、再び見つめる。
やっと美しい彼女が手に入る。
喜びに自身の意思とは関係なく口元が緩んだ。
その事に気が付いて赤面し、彼女に見せまいと口元を覆ったところで遠くに立つ蒼月と目があった。
口の動きだけで『だから言っただろう』と伝えてくる。
あとで散々からかわれるのだろうな。
彼女が二人のやり取りに気が付いて笑い声をたてる。
「今は…そう、何を言おうか迷っていたのです。先程から言葉を探しているけれど、今の貴女に相応しい言葉が見つからなくて…どの言葉も、今の貴女を表すには足りない。」
この気持ちを伝えるには、言葉が足りないのです。
華凉が僅かに驚いた表情を浮かべる。
やがて牡丹の花が開くように、ふんわりと笑った。
親しいものだけに見せる本当の笑顔。
戦場にあっては、この表情を再び見たいと、どれだけ願ったことか。
「苟絽鶲国の劉尚様の執務室で引き合わされた、あの日の私と同じですわね。」
近くにいてもいなくても、互いに同じことを思い、同じことを望む。
二人にとって、これ以上の幸せはないだろう。
「でも大丈夫ですわ。今の私には貴方の『言葉を聞く権利』がありますもの。」
「末永く、よろしく頼む…」
姫様、と続こうとした台詞を飲み込む。
止めなければとおもいつつ、つい出てしまう癖。
「以前もお聞きいたしましたが、なぜ私を姫と呼ばれるのでしょうか?」
気が付かれないようにという願いも虚しく、僅かに首を傾げて彼女が問うた。
不意に見せる幼い仕草も、ただ愛らしく、いとおしい。
今更ながらに思い知らされる、どれだけ彼女を愛しているのか。
それならば、その問いには答えなくてはならないだろう。
誤魔化し続ける自信は自分にはない。
「随分と昔の話をしてもよろしいですか?」
「ええ、構いませんわ。」
そして遠い日の思い出が蘇る。
「あの日、通りは祭りで賑わっていました。」
大人に手を引かれはていても、人混みを避けて歩くのがとても大変だった。
母は病で亡くなり、手を引くのも父とは名ばかりの他人に近い存在。
周りは全て他人、しかもこれから捨てられにいくのだ。
ただただ不安に怯える彼の横を山車が通った。
翻る鮮やかな衣の裾が目に留まる。
「ちょうど山車の上で面をつけた少女が舞っていたのです。」
練り歩く山車は祭の見所で、舞う巫女の身体を借りて神が降りるとされる。
『青い鳥の伝承に準え、青をもつ者が舞うのが望ましいとされているのだそうだ。』
そう近くで誰かの話す声が聞こえた。
優美に翻る衣、結い上げた髪の一部が動きに合わせて僅かに溢れ落ちる。
その合間から覗く青い瞳と目があったのは、ただの偶然か、それとも運命か。
「それは…たぶん私ですわね。」
「あのとき、誰にも求められない私の対局にいたのが貴女だ。」
人々が彼女へと向かい祈りを捧げていた。
皆の願いを神へと届ける役目を果たす間だけ、面をつけた少女は"姫"と呼ばれる。
自分と対局あるあの少女は"舞姫"と呼ばれる尊い存在だと。
「そのあと父に貧民街へ捨てられました。
まさに、いてもいなくてもいい存在になったのです。」
緋色の瞳が忌まわしいと言い続け死んだ母。
緋色の瞳が気味悪いと目すら合わせない貧民街の人々。
もう死んでも構わないのではないか。
失意と空腹で虚ろな自分に突然伸ばされた手があった。
自分と対局にある色彩を持つ美しい少女。
山車の上で姫と呼ばれていた少女と同じ青い瞳。
一目で、その少女とは思えぬ完成された美しさに魅了されたのも確か。
でもそれを圧倒的な力で凌駕した感情は、嫉妬。
自分は緋色をもつというだけで、疎まれ、蔑まれているというのに。
彼女達は青い色を持つというだけで、人々に求められ、大切にされる。
理不尽だと思った。
そして彼女の存在自体がこの国を象徴するものに思えた。
ならばこの無垢な少女を利用し、いつかこの理不尽な世界を望むがままに変えてやろう。
そう思って、伸ばした彼女の手を取った。
「だから姫と呼んだのです。
貴女という存在を人として認識しないために。」
名を呼べば、やがて情が湧くかもしれない。
だが姫という呼び名は記号と同じ。
世間を知らない子供の浅はかな抵抗だった。
「初めは…貴女を愛するのと同じくらいに憎んでいた。
あの時の私は貴女を踏み台にしようと思い上がった醜い存在でした。」
血を憎んだはずの自分が、その血によってもたらされた呪いに囚われていた。
そして、今、この場で確認せねばならないと思っていたことは、ただ一つ。
「それを知っていた、貴女が私を選んだのはなぜですか?」




