番外 猩々の名を呼ぶ者①
※9/20別ページに掲載していたお話をこちらへ移行しました。
内容には変更がありません。
緋葉と華凉のお話の続きになります。
死を連想させる表現がありますので苦手な方はご注意ください。
『異国では孝行者に酌めども尽きぬ酒壷を与えたとされる福の神でもあるのよ。
だから荒ぶる神の化身と…猩々と呼ばれようとも貴方のことは怖くなどないわ。
さあ、こちらへおいでなさいな。
それで貴方は名は何というの?
そう、それなら貴方の名は…。』
−−−−−−
星空はどのような場所でも変わらずに美しい。
夜空に浮かぶ星は角度を変え、あの方からも同じように見えているのだろう。
青は、空に繋がる色。
鮮やかな青の瞳は真昼でも星のように輝く。
目指す高みの先に佇むあの方を手に入れるためなら。
軽く伸ばした指先に星の光が触れる。
今なら星にも手が届く、そんな気がした。
「隊長、将軍がお呼びです。」
「ああ、今行く。」
クーデターにより国内が混乱した名残で成安国軍部は一時的な人手不足に陥っていた。
それは紹介状を使わずとも成安国出身であるという出自さえ証明できれば簡単な面接と試験だけで採用が決まってしまうほど。
そういう意味では非常に運が良かったと言わざるを得ない。
砦の奥に設えた会議室に到着すると扉の外から訪いを告げる。
程なくして内側から開かれた扉の先に立っていたのは筋骨逞しい中年の男。
出自は平民ながら、常に最前線で戦い続け、自身の実力だけで将軍位を得た猛者でもある。
「状況について報告書を確認した。なかなか良く書けているが、どこで文字を学んだ?」
ひらりと机上に落とされる報告書。
「私の出身はご存じでしょうか?」
「ああ、黄という姓で、且つあれだけの強さを誇る血筋といえば、かの有名な武に秀でた一族のことしか思い浮かばない。生き残りがいたとは、今回の人事が発表されるまで知らなかったな。なんでも戦火を避けて苟絽鶲国に逃げ込んだようだが、文字の類いもあの国で学んだのか。」
「はい。引き取り手に恵まれたお陰です。」
そう答えるようにと教えられたた内容を思い出しつつ言葉を紡げば回答の何かが琴線に触れたのだろう。
彼はこちらを計るように目を細める。
「なるほど。知識だけでなく、知恵もその引き取り手が与えてくれたのか。」
「はい。」
懐かしい会話を思い出して、わずかに笑みが浮かぶ。
『たくさんの言葉を重ねてはダメ、嘘だとすぐにバレるわ。相手にとって物足りない位が丁度良いのよ。それから、どのような場所で生きていくにも知恵だけでは足りないの。基礎となる知識を身に付けなさいね。』
『俺は…私は勉強はあまり得意ではないのですが、姫様…。』
『生き残りたいのなら最低限の知識は必要なの。それだけは死ぬ気で身に付けなさい。それから敬語に慣れてきたら二人きりの時は俺でもいいわ。でもそれ以外では使わないこと。使いすぎると癖になるから。』
歳下なのに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる少女。
戸惑い、立ち止まると必ず導いてくれる仲間達。
早く仲間と呼ばれたくて、彼女に追い付きたくて夢中になって勉学や稽古に励んだ。
その合間に、少しずつ、引き取られたこの家について学んでいった。
"陶"姓を持つ地方豪族の家柄であること。
使用人には自分と同じように貧民街から引き取られた孤児が幾人もいるということ。
そして大人になったら、彼らと同じようにこの家で働く。
将来の身の振り方まで決まっている、その事に対して不満はなかった。
皆が当たり前の事だと受け入れていたし、それ以外の生き方を知らなかったから。
そして、その頃はまだ自分が何者であるのかを知らなかったから。
幼く、純粋だった自分の淡い想い出が脳裏に蘇る。
今となって思えば、あの頃が一番平和だった。
陶家に引き取られて、過ごすこと一年余り。
その人影を追いかけたのは、ただ単純に不審者と判じたから。
闇夜に乗じて相手に誘き出されたとも知らずに…。
『魁成。』
忘れようとした、忌まわしい名を呼ぶ人。
母親を亡くした今、唯一の肉親と呼べる人物。
俺を生かすためと言いながら、俺を捨てた父。
無言のまま、睨み付ける。
引き取ったその足で貧民街に捨てたような屑が、今更何を偉そうに。
『基礎となる剣の型は習っているようだな。だが飼い慣らされた今の状態では、お前はいつまでも弱いまま。…お前がそれだと建国以来受け継いできた誉に傷が付く。』
そう断じた父が、己が手に握る双剣の片割れを投げて寄越した。
反射的にそれを受け取る。
『は?お前の誉なんて知らない。今更何を言って…!!』
『本気でかかってこい。…さもなくば死ぬぞ?』
言い終えるかという刹那に、それまで自身のいた空間を迷いのない太刀筋で切り裂く。
間一髪、剣先から逃れ青ざめた自分に対し、父は面白そうな表情で口元を歪めた。
その表情を見た瞬間に。
体内の血が沸き上がるほど熱を帯びる。
『生かすために捨て、今度は殺すと?…っ、ふざけるな!!俺はお前の玩具じゃない!!』
理解不能な理由で切り捨てた者への怒り。
そして深く思い悩む事なく、のうのうと生きてきた愚かな自分への怒り。
怒りが、己の全てを支配する。
怒りに支配されたまま剣を振るうと、剣先が思わぬ軌道を描くいた。
繰り返し教わったはずの型から離れた動きは、気味が悪いほど、しっくりと身体に馴染む。
切り込んだ剣先を薄皮一枚の差で避けた父の顔に驚きと興奮が浮かぶ。
『なるほど。血によって受け継がれるのは剣の型か。』
そのまま互いに勢いを駆って切り結ぶ。
一合、また一合。
やがて父の視線が冷ややかなものに変わった。
『だが目覚めたばかりでは面白くもない。怒りが冷めれば狗の子だな。』
剣の柄で手首を強かに打ち据えられる。
途端に痺れ動かなくなる手首。
『おい、狗の子。』
狗の子だと?
我が子を人として扱わぬつもりか。
自身の怒りに満ちた視線は受け止められることなく流される。
『お前には紅家の血が流れている。』
『こう、け。』
雇用主である少女との会話や、仲間との会話の中で何度か耳にした。
帝に弓を引いた反逆者であり、血の呪いに支配された愚か者でもある。
その家に名を連ねる者は陶家を、陶家の血を引く少女の身を脅かす敵なのだという。
呪われた家名こそ、紅家。
『う、嘘だ!!そんな事、嘘に決まっている!!』
『嘘ではない。お前の瞳がその証だ。』
『…この瞳の、色。』
まるで汚れた血のように、黒を纏った赤だ。
剣先のかすった腕から流れる血の雫と同じ色。
『猩々緋など、忌まわしい!!』
母が幾度となく口にした呪いに満ちた言葉が自身の出自を表していたなんて、知らなかった。
『お前の名に付けた“魁“の文字は代々紅家の男児に引き継がれてきた。鉄壁の武を誇り、戦の度に先陣を切った誉れを受け継ぐために。だがそれは飼い慣らされた狗の子のために付けられるものではない。誇りを失ったお前など、狗の子程度で丁度良いな。』
『馬鹿にしやがって!!だから、今更何のために…嘲笑うために来たつもりか?!』
『いや、違う。ただ殺そうかと思ってな。』
『は、…な、にを』
『お前が大切に思う、あの少女を。』
『な、な!!』
『お前の目の前で。』
父は剣の切っ先を、ひらりと翻して館のある方へと向ける。
『我が家と陶家の因縁くらい聞いているだろう?だが今日は良きものが見れた故に、免じて殺さずにおいてやる。だが次回からそう簡単にはいかないぞ?お前は、ずいぶんとあの少女に可愛がられて呼ばれているようじゃないか。あ…』
『その名を、呼ぶな!!』
ふと人の気配が近づいてくる。
気付いた父が、ゆっくりと後ずさった。
優美な男の姿が、闇に溶けていく。
ただ口角を上げ、赤く開いた口の残像だけが最後まで残り、目に焼きついた。
『俺は何度でも来るぞ。それが嫌なら、お前が俺を殺すしかないな。』
青い鳥を守りたいのなら、お前が俺を止めてみろ…。
「どうした?」
向かいに立つ上司が筆を置く音に我に返る。
「失礼をいたしました。少々昔を思い出しまして。」
「殺気が漏れてるぞ?思い出というにはずいぶん物騒な記憶のようだな。」
とん、と書類を纏めると彼は自身の目の前に立つ。
そして表紙となる一枚の紙を指し示した。
「黄九垓、本日から別の任務についてもらう。斥候として敵陣から情報を集めてこい。」
想定外の展開に、一瞬反応できなかった。
この状況で、まさか斥候とは。
運のなさに舌打ちが漏れそうになるのを飲み込む。
単騎で戦闘となる可能性の高い、死と隣り合わせの任務だ。
功績が欲しい今は、危険度の高い任務だろうと受けることに異論はない。
だが、疑問は残る。
「何故、私を?」
「お前、斥候を勤めた経験があるだろう?」
「…。」
「そう警戒するな。ふと見せる身のこなしでそうじゃないかと思っただけだ。」
斥候ではないが、陶家でも相手の内情を探るため隠密を向かわせる事はあった。
ただ、なぜ全く関わりのない立場の自分が、彼らを差し置いて指名されたのだろうか?
この砦でも斥候を務める者はいるというのに。
…まさか、そういう事か?
正直、可能性があるとすれば思い当たる理由は一つしかない。
面倒ごとに巻き込まれたと理解して、内心でため息をついた。
「斥候に、内通者がいるかもしれないと?」
将軍はニヤリと笑う。
「察しがいいな。もちろん、できるだろう?」
「了解しました。それでどんな情報を集めてくればよいのです?」
「情勢から考えると、恐らく近日中に広寧国軍との戦端が開かれると思っていた。だが、ここにきて続けざまに斥候が殺害されてな。しかも辛うじて生き残ったという人物の持ち帰った情報から判断すると、実際の侵攻はもっと先のように読める。」
「それは、まさか…。」
「つまり、うちの斥候を利用して広寧国に情報を操作されている、もしくは操作しようとしている可能性があるとしか思えてならない。」
「…。」
「あくまでも、俺の勘だ。確たる証拠がない以上、表立って事を荒立てるわけにはいかない。上層部には報告してあるが、軍部の人手不足は深刻でな。今更信用できる人物を抜擢して砦に呼び寄せるなどということは不可能。つまり自前で何とかするしかない。」
「それを見越して選ばれた私が本当は裏切者である、とは思わないのですか?」
「正直、疑い出せば誰もが怪しい。だから俺の勘を信用することにしたんだ。それでもし裏切られたのなら、俺の人を見る目がなかっただけ。それに何故だろうな?お前なら裏切ることはない気がする。出自か、育ってきた環境がそう思わせるのかはわからないが…お前、主人と定めた人間を裏切ることのないように躾られている。」
まるで忠犬みたいだな。
将軍の言葉に、狗の子と呼ばれた過去が過ぎって眉を顰めた。
それと同時に出自を知って落ち込む彼を励ました少女の言葉が蘇る。
『貴方は紅の血は継いでいても紅家の人間ではないわ。だって国を裏切ったのは家であって貴方自身ではないでしょう?だから裏切者の汚名は家と紅の姓をつぐ者が背負えばいいのよ。』
信頼を寄せてくれた彼女のために、地位と見合うだけの、手柄を立てなくては。
血の呪縛に怯え、ここで退くわけにはいかない。
「ご期待に添えるよう、最善を尽くします。」
そして任務を果たすためと、許可が欲しい事があると申し出た。
ーーーーー
砦の外は、まさに異界。
漂う空気さえも、まるで内側と違う。
すでに闇の帷が降り、視覚だけでは右も左もわからない。
だが俺には馴染みの世界だ。
五感が、より鋭利に研ぎ澄まされる。
闇の中、表情の読めない道案内の男が、ふと思いついたかのように言った。
「なあ、武術に秀でているから抜擢されたのだろうが、斥候なんて素人につとまるものではない。よかったらアンタの代わりに潜ってきて情報持ってきてやろうか?」
「ずいぶんと親切だな。それでお前にはどんな利益がある?」
「利益なんて…仲間を疑うのか?助言は素直に受けておくべきだと思うがな。」
「いや、いい。気遣いは不要だ。」
「ふうん、ならばお手並み拝見といこう。」
雲から顔を出した月の光に照らされ、相手が唇を歪めたのが見えた。
そして無言のまま敵陣の松明がぼんやりと見える辺りまで移動するとピタリと足を止める。
「なら待ち合わせはこの周辺にしよう。夜明けまでには戻ってこいよ。…まあ、無事に戻れたらな。」
歩みを止めたのは、任せるとの意思表示らしい。
思わず口角が上がる。
撒こうと思っていたけれど、手間が省けた。
なんと都合がいい。
侮ってもらうためにもと、強がって聞こえるように言葉を選ぶ。
「帰り道の案内は不要だ。先に砦へ戻っていてくれ。」
「だが今夜は月も隠れて一段と闇が深い。初見では道に迷うぞ?」
「だからこそ、だよ。俺に任せてくれ。」
「ふーん、ずいぶんと自信があるじゃないか。まあいい、頑張れよ。相棒。」
奴はこちらを馬鹿にするような顔をしたのち、背を向け、来た道を戻り始める。
揶揄するような台詞が鼻につく男だ。
だがこれで邪魔する者はいない。
気配が途絶えたところで、その場から高く跳躍する。
さらに山肌を滑るように駆け下り敵陣まで一気に距離をつめた。
岩陰から再び人の気配を探ると最も薄い場所で再び跳躍する。
反動を極力殺し、さらに奥へ。
その姿は大きな猿…まるで想像上の生き物とされる猩々のような。
荒々しく、そして不気味な残像を闇に描く。
彼が黄蟻に単独行動を許された理由。
それは手順に慣れ、精神的にも成長したからだけではない。
彼に誰もついていけなかったのだ。
秀でた実力を備えると陶家当主に認められた、黄蟻でさえも。
常人を上回る運動量と、それを支える強靭な肉体。
そして剣の型と同じように人間離れした動きを可能とする柔軟性。
立ち塞がる天然の障害物でさえも難なく避けて排除できるために、無駄なく最短距離で突き進む。
木々のわずかな隙間を見つけては潜り、最小限の体の動きで死角に滑り込んだ。
野生に近い動きは、それだけ無駄がなく不自然さを感じさせない。
そして不自然さがない故に気配を気付かれにくい。
仲間とl別れてから、さほど時間をおかずに敵陣の中心部まで移動する。
仮設された陣幕のうち、一番大きく豪奢な作りをしたものに当たりをつける。
折からの風で揺れる布の動きに合わせて侵入した。
丁度よい具合に誰かの話す声が聞こえたため、会話が拾える場所まで近づく。
「敵軍に潜り込ませた彼はいい具合に仕事をしてくれているようだな。」
「まさか命懸けで味方から渡された情報が偽りだとは思わないでしょう。」
「わざと見逃されたことに気が付かぬとは。猿芝居にも気が付かぬ平和ボケした素人相手だと楽勝だな。せいぜいひっかき回して無様に踊らせてやろう。」
会話の内容から推察するに、やはり将軍の見込みが当たっていたらしい。
あとは、物証を手に入れればよい。
陣幕の中に人物は二人。
部屋の灯りに近付くと影が写るため、迂闊に机の方へは近付くことはできない。
死角をとなる場所に待機し、人の気配が消えたとろで動き出す。
幕の隙間から中を覗くと連れ立って陣幕から出ていく背中が見えた。
すかさず机に近付き、処分されたと思われるいくつかの書類に目を通す。
偽の情報である場合も想定し、今までの経験から真贋を見分ける箇所を確認して精査する。
どうやら本物らしい。
そして思いの外、短時間のうちに物証が手に入ったことに唇を歪める。
平和ボケした素人は、どちらか。
交戦中ならともかく、こういう重要な情報を机の上へ出したままにするなよ。
のちに証拠となるような書類は、見つからないよう秘匿するか、火で燃やして速やかに処分すべきものを。
警戒を怠った人間が、偽の情報を掴ませたことを誇るなど滑稽だな。
選んだ書類を懐に仕舞ったところで、今度は用意してきた書類を取り出す。
攪乱するための偽物の情報と共に、成安国軍の、現時点では重要ではないが少し前なら重要だった情報の書かれた書類を紛れ込ませる。
これが将軍に許可を得てきたことのうち、一つだ。
もう敵軍には知られてもいいこの重要情報、実は敵軍の上層部にとっては一刻も早く知りたい内容でもあったのだ。
だが現実は公表されてから知ったようで腹立たしい思いをしているところに、報告日を前倒ししたこの偽物の書類が表に出てきたらどうなるか。
おそらくここの司令官は報告を怠ったと処罰されるだろう。
実際はそれこそ抹消してしまえばそれまでの紙切れだが、気が付かずに放置したまま表に出れば致命的だ。
成功する確率は低いが、成功すればさらに深手を負わせられる。
とはいえ時間稼ぎ程度だが。
だが、その時間が欲しい我が国としてはこれが最善。
偽物の書類を潜り込ませ、不自然な箇所を自然に散らす。
この机に座る人物が有能であれば書類を隅々まで見直して罠に気付くかも知れないが、人間都合の悪いことは隠蔽する質だから気のせいと片付けることも有り得る。
そう想定した上での、いわゆる嫌がらせだ。
目立たぬよう灯りの下を這うようにして移動する。
そして滑るように陣幕から身体を押し出した。
次の瞬間。
人の気配が慌ただしくこちらへ近付いてきた。
下手に動けないため彼らの声を耳だけで拾う。
「なんだと、成安国の斥候が?」
「はい。潜り込ませた手の者からの情報です。途中までついてきたようなのですが、見失ったとのことでした。」
バサリ。
入口の布が上がり、中が照らされる。
「…ここは問題ないようだな。」
「はい、ですが巡回の人数を増やしましょう。」
「…場合によっては、予定よりも早く軍を進めると伝えてくれ。」
「かしこまりました。」
人の気配が、再び遠のいていく。
間一髪であった。
視覚というものは揺れ動くものに敏感だ。
折からの風に、はためく布一枚隔てただけで人の目は誤魔化される。
闇夜に紛れれば、増員されてもたいした問題はない。
あとは、より高く深く闇に潜ればいいだけだ。
再び闇夜の中を這い、伝い、跳躍する。
それにしても。
「通じていたのは、あいつか。」
そして奴の皮肉げに歪められた口元を思い浮かべる。
今も自軍への最短経路の途上で俺を殺すため闇に潜んでいるのだろう。
上手い話には裏があるというのは大抵の場合、本当だ。
再び嘘の情報を渡して、自分への疑いを晴らそうとしたのかも知れないが。
「そうは上手くいかない。」
陶家では、騙されたように見せて騙す駆け引きを幾度となく命懸けで繰り返してきたのだ。
残念だが相手が悪かったな。
相棒。
敵陣から漏れる灯りも届かぬ場所まで移動し、闇に紛れ、気配を探る。
見回りの兵士は十人程度だろうか。
広寧国のものと思われる松明の火が成安国へと繋がる道を登っていくのを確認した。
来た道を戻ると思っているあたり読みが甘い。
「予定通り、迂回しよう。」
これも許可をもらったことのうち、一つ。
将軍から借りた地図に書かれた地形を脳内で再生する。
その記憶を頼りに、黄蟻に教わった家に伝わるという技で闇の中を進んでいく。
真っ黒な闇と同調するように道なき道を進む。
彼女はこの技を使うとき"泳ぐ"と言っていた。
まさに漆黒の水の中を泳ぎ進む魚のよう。
益々感覚が研ぎ澄まされていく。
それゆえに誰かが忍び寄ってくる音を耳が拾ったのは必然だったのかも知れない。
無言のまま、降り下ろされる刃。
軽く反動をつけ、飛び退いたあとの空を剣が切り裂く。
「避けられるとはな。だがいくら強いと言われようとも、丸腰で勝てる訳がないだろう。命が惜しいなら投降することをお勧めしよう。」
名乗らずとも声だけでわかる。
相変わらず、揶揄するような台詞が鼻につく男だ。
無言のまま相対した。
たしかに剣は邪魔なため置いてきている。
だが手元に武器がないくらいで、俺が負けると思っているのか。
無言を拒否と捉えたのか、相手の殺気が膨れ上がる。
そこから一気に降り下ろされる剣を足を捌くだけで避けた。
再び、急所を狙い打ち込まれる剣先を避ける。
ただ身体の動きだけで何度も攻撃をかわし続ければ相手の苛立ちが感じられた。
苛立ちは余計な力を使わせ、それにより体力の消耗が激しくなる。
相手が息を上げた拍子に的確に狙いを定めたはずの軌道が反れた。
そろそろ頃合いか。
一気に間合いをつめ相手の首に手をかけると、そのまま一息に握り潰す。
勝負は刹那の時間さえあれば充分。
「すまんな。付き合う時間が惜しい。」
障害物には人間も含まれることもあるからな。
これが許可を得たことの最後の一つ。
念のため、相手の剣を使って止めを差した。
これで彼が誰に殺されたかは不明のまま、だ。
言い訳など聞く気もなかった。
金か名誉か、情。
理由としては、そんなところだろう。
懐を探り裏切りの証拠となる品を探す。
目ぼしいものもなく、遺体はそのままに再び闇の中を泳ぐ。
一刻も早く、情報を。
それが彼女の元へと戻る早道でもある。
やがて徐々に薄明かりが森の中を照らし始め、
日が昇るとほぼ同時に、砦へと辿り着く。
だが安心したのも束の間、厳しい戦いの始まりはここからだった。




