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「動力の集中が開始しました」
オペレーターが感情を抑えて言う。空調が無用に空気をかき混ぜた。
「周辺居住区への電力供給が停止しています」
ブロディは、いよいよかと身構える。なんでこう、いやなことばっかり起こるんだ? オレの時にだけ。などと考え、すぐに気持ちを切り替えた。そしてまたオペレータのセリフが彼を緊張させる。
「9・8・7・6・5・4・3・2・1・・・実験が開始されています」
中華人民共和国の行った核融合実験は、アメリカ国家安全保障局を大いにあわてさせた。
*
NSAはまだ未熟であると認識していたこの国が、崩壊の波が未だ止まらないロシア共和国を一足飛びに越えて、自国の科学力をも凌駕する試験を開始するという情報を入手した。
複数の諜報員は情報の真偽を確定するまでにそれまでの常識的な数字をことごとく上回るコストを支払った。何人かが行方不明になっており、普通ではない事が起こっている事を予想させられていた。それが真であると言うことが判明したときには、さらに事態は進展していた。
NSAは同地区の偵察衛星による定点観測を即時始め、合衆国の威信を懸けてこの研究への監視をすることの資源集中をさらに強めた。
監視体制を用意できたことに彼らはまずは安心したが、実験本体の動向は緊張の内圧をさらに上げた。何よりも、監視体制が強固なことや、椅子手間チックである事よりも、監視対象の実情の方が重要なことであって、それがかなり高度であると言う事は、合衆国にとってマズいことだ。相当に。
この実験が成功してしまったら、石油ベースの産業構造だけではない。ウランやプルトニウムを燃料とする発電事業が構成するエネルギー経済そのものに打撃を与えることは間違いない。
もう売るほど余っているプルトニウムを使用しないですむ、新しい設備の軍事転用など中国政府ならなんの躊躇もなく行うだろう。彼らの倫理観の危うさは、合衆国が経済本位であるだなどと言う戯れ言の、戯れ言加減さえかわいらしく見えるほどに、いつも容赦がない。
「おい、嘘だろ……」
ここは、それほど広くは無い。
映画館の様に薄暗い部屋は、湾曲した壁面に敷き詰められたディスプレイモニタがそれを映し出しており、打ちのめされた一〇人足らずの人間が凝視した。
特別情報戦略対策室は固唾をのんでその行方を見守るしかない。
壁いっぱいに広がるスクリーンの中央に鎮座する巨大な実験棟は黄色みがかかったかと思うまもなく赤、そして白く光り常温を大きく超える温度であることを示している。
「エシュロンをモニタします」
「早くやれ!」
ロシアの協力でやっと実証実験に移ったばかりの技術力とみられていた中国が、目の前で一億度以上のプラズマを連続して発生させ、それを制御している。施設から中華科学院に送られる情報を傍受すると、そこにたいした暗号化も行われていないことに室内がざわめく。これほどの技術水準をもつ組織が、稚拙な暗号を使用し、今何が行われているかが筒抜けであった。
その筒抜け加減がどの程度なのかの想像も出来ないかのように、堂々としたアンバランスは全てがちぐはぐで。
しかも、合衆国が完全に先行していたと思いこんでいた、X線照射機による重水素の核融合を、スクリーン一枚を隔てたモンゴルで、それを行っている。
統合作戦部長であるブロディは、スラックスの右足に跳ねるコーヒーの飛沫に気がつくと、自分が淹れ立てのブルーマウンテンが入っていたはずのマグカップを腕にぶら下げて激高していることを知った。
「一〇万kW以上の出力が予想されます」
部長……と、監視官が指示を仰ぐ視線を送った。
「なんてこと」だろうかまいったなもう、と言い切ることも出来ないくらいの衝撃だ。
ブロディは誰に対して怒りを向けていいのか、悩む。が、それは誰でもない。自分自身に向かい収束しつつある怒りは、なぜこんなことを許してしまっているのかを冷静に考えさせる時間を作り出しつつあった。
のんびりと時間が過ぎていく錯覚さえ起こさせるほどに、連続して稼働する核融合施設は何の問題も起こさない。
すぐに。すぐに問題を解消させなければならない。これはもはや自分が見過ごした問題だけでなく、世界全体のパワーバランスを崩すことばかりじゃない。彼らの、一体誰が得をするのかわからない様な覇権主義を促進してしまう可能性を秘めている。
すぐに連絡を取らねば。現状では大統領にも知らせることもマズいだろう。ブロディのヤツが狂いましたと言う噂さえ流れかねない事態だこれは。
これを政治的なオブジェクトに据えられたら我々の存在が公になって面倒臭いことになるだろう。最適で心地よいような順番が大切だ。事実確認も大事だが、事実を無くすことも考えなければならないだろう。
ひとつ間違えると、無能さをさらすだけではなく、何者にも代え難い有能な資源をも失うことになる。これは、もう、色々工作するしかない。
彼らが運用するのはそのための組織だ、急がねばなるまい。
部下に指示を出そうとその内容を考え初めて無言の空気は滞るが、お構いなしにエアコンがそれをかき混ぜる。
「つく――」
瞬間。
声を遮る。目前の映像は、ネイサン・ブロディの思考を一瞬で止めた。見事に止まったブロディの立ち姿はいっそ滑稽で。だが、それを忘れさせるほど、それはつじつまの合わない風景を描き出すディスプレイが目前にあった。
「北緯東経、中華科学院モンゴル実証区画が消滅しました!」
そこには、何もなかった。砂漠と不規則にえぐられた、敷地、その砂地。
風が強く吹いて、砂が舞った丘はついさっきまで、一億度の熱を秘めていたのに、今は、ひどく静かだ。