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ハルちゃんはタバコを携帯灰皿に押し込んだ。
ちらっと俺の顔を見て、
「だからそんな顔すんなよ」
って困ったように言った。
「俺、どんな顔してる?」
「泣きそう」
「ごめん」
「謝んなよ」
ハルちゃんは怒ったみたいな言い方した。
「でもさ、」
ハルちゃんは、俺は悪くないって言ったけど、誰が聞いたって、俺が悪い。
「俺って、本当にろくなことしないね」
一昨日のこともそうだ。
桜井、花菱、倉本に迷惑かけて。ほんとどうしようもない奴。笑いが込み上げてくる。
「傷つくなって言ったろ」
「傷ついてはないよ。ショックは受けてるけど」
「ショックも受けるな。何にも考えるな。感じるな。謝るな。うだうだ言ってると殴るからな」
ハルちゃんの目は真剣だった。
ちゃんと謝りたかったけど、殴られるのは嫌だから、黙っておくことにしよう。
「この話には続きがあってな」
「うん?」
さっき消したばっかなのにまた新しいタバコに火をつけて。
俺は自分の足元見て、靴下に穴が開いてるのに気づいた。いつからだろ。伸ばしてた足をひっこめて胡座をかく。
「あたしは漠然と、将来男になるには金が必要だから金を貯めないとって思った。だから大学入ってからはバイト三昧。高校では禁止されてたからな。ちゃんと学校は行ってたけど、母親はやっぱいい顔しなかったな。『そんなに根つめて働いて、何か欲しいものでもあるの?』なんて聞いてきたから、『男になるための金貯めてんだよ。男の子を産めばよかったって言ってたからさ』って返した。したらな、」
ハルちゃんは言葉を切った。何故か口元に笑みを受かべて、
「『あんたまだそんな馬鹿なこと言ってるの? ていうか、お母さんが、いつ男の子を産めばよかったなんて言った?』だと……忘れてやがったんだよ、自分が何を言ったのか。あの言葉、あたしをどんだけ傷つけたか、全然気づいてなかったんだよ。あたしのこの9年はなんだったんだろうな。そう考えたらなんか、ワケわかんなくなって、家出てきたんだ」
俯いて、低い声で呟く。
「くだらねーて、笑ってもいいんだぞ」
「……笑えないよ」
「笑えねーよな」
「そうじゃなくて、笑うようなことじゃないって」
「笑うようなことだよ。実際くだらねーよ。あんな言葉真に受けてさ。ほんとにバカだな」
ハルちゃんは自嘲気味に言った。
「でも何か不思議だな」
「何が?」
「ついさっきまですごい凹んでたのに、海生に話したら楽になった」
「凹んでたの?」
「母親に叩かれて。それから一昨日のこと思い出して、ちょっと凹んでた」
頭の中に、不機嫌そうな皆川さんの顔が浮かんできた。
「一昨日、皆川さんに何かされた?」
「鋭いな、海生」
ハルちゃんが少し笑う。どこかもの悲しげな感じだった。
「告白された」
「そう」
「腕押さえ付けられて、無理矢理キスされそうになった」
「えっ!?」
皆川さん、さっきはそんなこと言ってなかったのに!
「ムカついたから思いっきり急所を蹴飛ばしてやった」
「……ああ、そう」
皆川さんが悪いんだけどちょっと気の毒。
「皆川に聞いた。海生、あたしのこと応援してくれるんだって?」
「え? あ、うん」
正直、皆川さんめ、余計なことを、と思わないこともなかった。
「ハルちゃんが、本当の本当に、心の底から男になりたいって思ってるなら」
「どういう意味だよ?」
「ハルちゃんは、本当に男になりたいのかなあって、ちょっと疑ってる」
顔を膝に埋めて何かから身を守るように丸くなるハルちゃん。
俺はまたいらないことを言ってしまったかと、少し後悔した。
「時々不安になるんだ」
「何が?」
「このまでいいのか」
「よくないの?」
「わからない」
「後悔してる?」
女をやめ男になると決めて、今まで生きてきたことを。
「してない。絶対後悔なんてしないって決めてたから」
後悔なんてしないって決めた。その言葉がひっかかった。
「後悔してないなら、何を思ってるの?」
ハルちゃんは答えない。
ハルちゃんが何も言わないなら、俺も何も言えない。しばし沈黙。
耳をすましても、下から物音は聞こえなかった。
あっちも落ち着いたのかな。おばさん、帰ったのかな。




