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家に帰ると、玄関には見慣れぬ黒いハイヒールがあった。
お客さん? 誰だろう?
「海生、」
ハルちゃんが階段の一番上の段に座っていた。
「ああ、ただいま」
「おかえり。静かに上がってこい。おまえまで巻き込まれるぞ」
巻き込まれる? なんの話?
口を開こうとした瞬間、
「あんたにあたしの娘の教育に口出しされる筋合いないわっ!」
「あたしだってあんたに説教される覚えないから!」
と、怒鳴りあう声が聞こえてきた。
足音をたてないように、抜き足さし足でこっそり階段を上がる。
「おばさん、来てたんだ」
ハルちゃんの隣に腰を下ろす。
「て、その顔どうしたの!?」
ハルちゃんの右頬は真っ赤に腫れ上がっている。
「家のババアにやられたんだよ」
疲れたようなハルちゃんの声。おろおろしながら、とにかく何か冷やす物を用意しなきゃと慌てて下に降りる。
が、さすがに壮絶な姉妹喧嘩真っ最中のリビングを通っていく勇気はなく、仕方なしに外に出て、近所の自動販売機で冷たい飲み物を買った。
足音をしのばせて二階に上がる。
ハルちゃんは俺のベッドで横になっていた。
「ハルちゃん冷たい物買ってきたよ」
「おお、ありがと」
右頬にコーラの缶をあてて、ハルちゃんはため息をついた。
「何で叩かれたの?」
「何の連絡もよこさないで何処で何をしてるのかと思ったら、こんな女の家に逃げ込んで恥さらしもいいとこだ、バカ娘! でバチンとやられた」
「そっか」
「おばさんが止めてくれたから、一発ですんだけど、それがまた気に入らなかったみたいで、もう一時間あの状態だよ」
「ほんっとに仲悪いよね、あの二人。うちの母ちゃん、ハルちゃんの母さんのこと世界で一番醜い女だって言ってたよ」
「あたしのとこも同じようなもんさ。あの日以来、あの女と家族には関わるなって言われてさ。何度かこっそり海生に会いに来ようとしたんだけど、見つかっては押し入れに閉じ込めらたり、夕飯抜きにされたっけ」
「ハルちゃん、そこまでして俺に会いたかったんだ」
胸の奥がじんわりとした。
一人感極まっている俺を無視して、ハルちゃんは言った。
「おまえ、皆川に会ったんだろ?」
何で知ってるの? とは聞かなかった。そんなのわかりきってる。
「会ったよ」
「あいつ、何て言ってた?」
そこは聞かなかったのか?
「えーと、いろいろ」
「色々か」
ハルちゃんは体を起して、タバコに火を点ける。
なんて言葉を続ければいいかわからないのを誤魔化すみたいに。
「ねえ、ハルちゃん。やっぱり教えて」
「何を?」
ハルちゃんは目だけを動かす。
聞かなくてもわかると思うんだけどな。わざとかな。
「あの日のこと。知りたいから、教えて」
まだ言ってないけど、俺、ハルちゃんを応援するって決めた。
だから、あの日のこと、ちゃんと知っておきたいんだ。
「教えてもいいけど、」
ちょっとためて、
「傷つくなよ」
「どういう意味?」
「約束できないなら教えてやんない」
ハルちゃん、質問に答える気はないらしい。
俺が返事をしないと、話も進まないみたい。
「わかった、傷つかない。約束するよ」
ハルちゃんは少しだけ笑った。寂しそうに見えた。
ベッドを降りて、床の上で膝を抱える。
「隣、座んなよ」
ハルちゃんが床を叩いて促した。俺は黙って腰を下ろす。
「……うちの母親は小さい頃から女は女らしく、男は男らしくが口癖だった。それは海生も知ってるよな?」
「うん」
「あれは、まだ『あたし』がピアノ習ってた頃だな」




