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何だかんだで昨日はハルちゃんとそれきり口を利かなかった。風呂から出てハルちゃんの部屋を覗いたときにはもう灯りは消えていた。時間はまだ九時半くらいだったと思う。まさかこんな早く寝るなんて思ってなかったから、何か拍子抜けして、俺も早々に床についた。
朝、まだ寝呆けてふらふらな状態で下におりていくと、ハルちゃんがいつも俺が座る席の隣の席に座って新聞を読んでいた。俺が少し控えめに、「おはよ」と言うと、ハルちゃんは新聞から目を離し、笑顔で「おう」と返事をした。昨日はなんか怒ってるのかと思ってたけど、俺の気のせいだったのか。
いつものように始業十五分前に学校に行くと、先に来ていた紫音さんが笑顔で俺を迎えてくれた。
「真田くん、おはようございます」
「おはようございます。昨日は先に帰っちゃってすみませんでした」
「いいえ。気にしないでください。至急の用事とやらは大丈夫だったんですか?」
「至急って言っても別にたいした用事じゃなかったんすよ。イトコが遊びに来てて相手をさせたかったみたいで」
それから俺はハルちゃんのことを紫音さんに話して聞かせた。
「ハルさんのこと気になりますね。性転換や家出もそうですけど、真田くんと交わした約束ていうのも」
「俺は全然覚えてないんですけどね」
「ハルさんに最後にあった日、真田くんの家でいったい何があったんですか?」
「……覚えてませんよ。まだ五歳だったんですから」
あの日のこと、覚えているのはハルちゃんが髪を切り、「男の子になる」って宣言したことだけ。
「嫌なことはすぐに忘れる質なんです、俺は。だからハルちゃんに会えなくなることがわかったあの日のことを忘れちゃったんだと思います」
紫音さんは感心したように、「とてもいい性格ですね。羨ましいです」と言ったけど、俺の場合は単純なだけなんだよな。
チャイムが鳴り、先生が入ってきたので紫音さんとの話はそこで打ち切った。
突然だが、俺は園芸部に所属している。と言っても、正式な部としては認められてないんだけど。
部員は二人。俺と、一年時のクラスメイトで、俺が園芸部に入るきっかけを作った園芸部部長の桜井 亮揮。
当然だが、たった二人しかいない園芸部はたいした活動はできない。部室なんてものもないし、正式な部として認められていないため生徒会からの補助金だって出ない。
ついでに言うと、俺ら園芸部はある理由から生徒指導部の先生方にあまりよく思われていない。特に生徒指導部部長の関口先生は俺らを目の敵にしていて、授業中や、廊下ですれ違っただけでも必ず一言二言嫌味を言ってくる。時にはあからさまに園芸部の活動を邪魔したり、潰しにかかったり。
この前だって桜井と二人、何をしたわけでもないのに生徒指導室に呼び出されて約二時間俺たちがやろうとしていることがどれだけ無駄なことか説教も交えて説明された挙げ句、「それでも園芸部を続けたいならもっと部員を集めて正式な部として認めてもらうように努力しろ。例えば進んで奉仕活動をするとか。そういえば、体育館裏の草がかなり伸びてきていたな。きっと通りかかった生徒や先生方から興味を持ってもらえるぞ」。
体育館裏なんて滅多に人が通らないのに、そんなところで草むしりをして誰が園芸部に興味を持つんだよ。そう言い返してやりたかったけど、逆らったら待ってるのは廃部の二文字。結局、関口先生の言う通り体育館裏の草むしりをした。もちろんその日、俺らが草むしりをしてる最中に体育館裏を通った奴はいなかったし、その後、園芸部に入りたいと言ってきた奴もいない。これこそ関口先生の言うところの無駄ってヤツだと思う。
でも桜井は、「無駄なんてことはない。体育館裏はすっきりしたし、用務員のおじさんは喜んでくれたんし、いいじゃないか」だって。桜井のこーゆーとこ見習わなきゃなと思う。
昼休み、いつものように裏庭に行った。俺たち二人は交替で裏庭の見回りをしている。
天気のいい昼休みには、お弁当やら購買で買ったパンやらを持った生徒達が裏庭に集まってくる。飯を食ったらゴミが出るのは当然だけど、出たゴミを自分で片付けるのは今の世の中当然てわけではないらしい。だから昼休み終了間際に、俺たちがゴミを片付けるため裏庭を見回っている。裏庭は俺たち園芸部のグラウンドみたいになった。
ちなみに、俺たち園芸部の目標は、裏庭に花壇を作り、今以上にみんなの憩いの場として、くつろげる空間をつくることだ。この学校、植木はあっても、花壇は一つもないから。そのためにも、園芸部を認めてもらわなきゃいけない。
今日は珍しくゴミが落ちてなかった。雨が振り出しそうな天気だったし、みんな裏庭に来なかったのかも。
そう思ってたら、突然頭に軽い衝撃が来た。
「うひゃあっ!」
びっくりして、しゃがみこむ。かぽんと間抜けな音をたてて空のペットボトルが地面に落ちた。何なんだ、一体。
「おや、あたっちゃったかい」
ぎょっとして振り返ると、背後には微笑む一人の少年。同じクラスの倉本 礼央がいた。
「やあ、真田。今日も裏庭の見回りご苦労さまだね」
倉本は爽やかな笑みを浮かべこっちへ歩いてくる。思いがけず身体が強張る。俺、こいつ、苦手なんだ。
「うん。まぁ」
落ちているぺットボトルを拾い上げ倉本に渡す。
「ペットボトルは投げるものじゃない。ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てな」
「ここはゴミ箱みたいなものだろ。毎日清掃係がゴミを集めに来るんだから」
倉本はそう言ってペットボトルを受け取るのを拒否した。清掃係てのは俺と桜井のことだろう。
「しかし、物好きだね。こんなとこ毎日見回って掃除したって誰に感謝されるわけでもないのにさ」
「……別に感謝されたくてやってるわけじゃない。ここは園芸部のグラウンドみたいなものだから」
「ああ、裏庭をみんなの憩いの場にするため、花壇を作ろうとしてる奇人変人部。くだらないことしてるよねー」
一部の女子から絶大な支持を得ている愛くるしい笑顔(人呼んでエンゼルスマイル)を浮かべ、倉本はさらりとひどいことを言った。
「裏庭をみんなの憩いの場にするためってさあ、花壇作ったくらいで憩いの場になるなんて、本気で思ってんの? 正式な部として活動が認められてなくて、人手もお金もないのに、よくやるよね。園芸部の二人はよっぽど暇なんだろうね。そんなことしても時間の無駄。それよりも他にもっとやることあると思うわない? この前のテストの結果、散々だって聞いたし」
畳み掛けるような言い方に言葉がつまってしまう。いつものことだけど、可愛い顔して倉本は本当に言うことがキツい。だから、嫌なんだ。大体にして、テストのことと園芸部の活動は関係ないじゃないか。というか、何でこいつが俺のテストの結果を知ってるんだよ。
「真田、君たち奇人……じゃない、園芸部がみんなからなんて言われてるか知ってる?」
黙って首を横に振る。知らないけど、想像はつく。
「あいつら、頭おかしい。生徒指導部の関口先生を敵に回してまで花壇を造りたいなんてワケわかんないってさ。僕も同感」
頭がおかしいとか、何でたかだか学校の裏庭に花壇造ろうとしただけでそんな言われなきゃいけないんだろう。花壇を造るのってそんなにいけないことなんだろうか。
「……ねえ、真田。君はもっと自分の立ち位置を考えたほうがいいよ。周りの人間が君たちをどう見ているか考えたほうがいい。背が高い以外になんの取り柄もない、平凡を絵に描いたような君が、学校一の不良とつるんで裏庭に花壇を造ろうだなんて。いい顔する人なんていないにきまってるじゃないか」
また何か失礼なこと言われた気がしたけど、倉本のこの程度の嫌味なら、だいぶ慣れてきたから怒る気にならない。
「園芸部は桜井が気の弱い真田を脅して、無理矢理入部させたんだって。桜井が真田を入部させたのはもちろんパシリにするため、財布代わりするため、色々な悪事を手伝わせるため、ストレスが溜まったときのサンドバックの代わりみたいな話もあった。こんな程度ならまだいいよ。君が桜井とつるんで注目されたり、畏怖の目で見られていることが気に食わない奴なんか、真田は普段おとなしそうに見えるけど、実は桜井以上の不良で、桜井と二人でヤバいものを造るために園芸部を発足したんだって言う輩もいるんだよ」
「ドラマの見すぎなんじゃないの? 普通の中学生が、学校の花壇でそんなヤバいものなんて造るわけないじゃないか」
口ではそう言ってみたものの内心ショックだった。良くは思われてないだろうなぁ思ってたけど、そんなことを言われていたなんて。
怒ったり落ち込んだりはしない。そんな権利、俺にはない。でも心のなかの動揺は倉本にわかってしまったらしい。目が合った瞬間、倉本は口元を歪め、満足そうに頷いた。
「だから言ってるんだよ。君みたいな地味でなんの取り柄もない、ウドの大木の代名詞みたいなへたれが妙なことをするんじゃないって。頭の悪い真田にはわからないかもしれないけどね、この世界には順位が存在するんだよ。何時如何なる時も、常に自分の順位を把握し、自分より格上の者には逆らわず、格上の者よりも目立たず、陰に隠れて地味におとなしく生きていかなければならないんだ。自分の順位を守ることはつまり秩序を守ることでもある。今の君は秩序を乱しているんだよ。秩序を乱したものはこの社会から追放される定めなんだ。追放ってどういうことか、勉強のできない君にも想像はつくだろう? 悪いことは言わないから、追放されたくなかったら、桜井とはすっぱり縁を切って地味に生きるんだね」
「わかったかい?」と聞かれたけど、すぐには返事が出来なかった。わかったような、わからなかったような、曖昧な感じだった。
「……つまり、倉本は俺に目障りだってことを言いたいのか?」
「言いたいんじゃなくてさっきからそう言ってるんだよ」
どっちにしろひどいこと言ってるには変わりない。
「倉本って意地悪だよな」
「それは心外だな。僕ほど優しい人間なんてこの世界に二人と存在しないと思うけど」
「倉本は俺のことが嫌いだからそういうこと言うのか?」
倉本はわざとらしく肩をすくめ、困ったように笑いながら、
「何がいいたいのかよくわからないんだけど?」
「倉本は俺のことが嫌いだから言わなくてもいいような意地悪を言うんだろうって。倉本の言うとおり、俺は頭悪いし、地味だし、へたれだけど、はっきり言われればそれなりに傷つくんだよ。人を傷つけるようなことわざと言って、倉本はまるで俺が傷つくの見て楽しんでるみたいだ」
「そのとおりだよ」
目を細め、口元を歪め倉本は愉快そうに笑う。
「僕は人の傷ついた顔見るのが好きなんだよ。僕が君に言葉を投げ付ける。君は僕の言葉に傷つく。僕が君を傷つける。僕は言葉で君を支配したんだよ。君が傷つくことにより、君は僕に敗北を認め、僕の前にひれ伏したも同然さ。言葉というのはいいね、いつでもどこでも簡単に優越感に浸れる。素晴らしく、とても危険な武器さ」
なんだかすごく楽しそうに怖いことを語る倉本は、その見た目の麗しさもあり、「愛くるしい天使」というより「妖艶な悪魔」といった感じだった。