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母ちゃんはハルちゃんから本当に「そーゆーお年頃だから家出した」としか聞いていなかった。
「それだけ聞いて、二つ返事でハルちゃんの申し出を受け入れたのかよ」
「何か問題でもある?」
近所でまずいと評判の、ケーキ屋『絵留』のメロン小豆ケーキをおいしそうに食べながら母ちゃんは言った。母ちゃんは味覚だけでなく、頭までおかしくなってしまったのか。
「普通何か言わない?」
「何かって何?」
「何かもっと、いろいろ詳しい事情聞いたりさ、お家の人が心配するから帰った方がいいとか」
「海生、俺がここにいたら邪魔か?」
ショートケーキ(これは割とおいしい)をつっついていたハルちゃんが、少し哀しげな目で俺を見たもんだから慌てて否定する。
「そんなことないよ! ハルちゃんが家に来てくれて、俺は本当に嬉しいよ」
「俺も嬉しい」
優しい目をしたハルちゃんはじっと俺を見つめて、
「海生のその素直で真っ直ぐなとこは9年前とちっとも変わらないのな。何か嬉しい」
そんなことを言った。
そんなふうに褒められることがないから、何だか恥ずかしくて、顔が熱くなるのを感じた。
「嬉しいなら問題ないじゃない。何がそんなに気にくわないのよ?」
「だから別に気にくわないとかじゃないんだって。ただちょっと、ハルちゃんの家出の理由が気になるだけで」
ちらりと視線を投げ掛ける。
「母親と喧嘩したからだよ」
俺とは目を合わさずにケーキにフォークを突き刺してハルちゃんは静かに言った。
「ハルちゃん、お父さんの部屋片付けたから荷物移動させていいわよ。お父さんの部屋はわかるわよね?」
ハルちゃんは頷き、最後の一切れを口に入れて席を立った。
ハルちゃんがいなくなるなり、俺はなぜか母ちゃんに頭をはたかれた。
「お馬鹿」
「なんだよ、いきなり」
「あんたはもう少し空気を読みなさい。しつこく家出の理由なんてきいて」
「だってハルちゃんが『そーゆーお年頃だから』なんてふざけたこと言って、はぐらかすから」
「あの真面目なハルちゃんがそんなこというくらいだもの、人には言えない深刻な理由があるにきまってるじゃないの。あんたそんなこともわからないの?」
母ちゃんに言われてハッとした。
「そーゆーお年頃」だなんて話をはぐらかすハルちゃんの気持ちを俺は全然考えてなかった。
「……ハルちゃんに謝ったほうがいい?」
「あんたがそう思うなら、そうしなさい」
使った食器をまとめ、母ちゃんは台所に消えていった。
父ちゃんの部屋を覗き込むと、ハルちゃんは畳に座っていた。座っていたというより、うなだれていたというほうが正しいのかもしれない。胡坐をかいて、肩を落として、下を向くハルちゃんは、何だかすごく疲れているように見えた。
「ハルちゃん?」
声をかけるとハルちゃんはぱっと顔をあげた。
「おう、海生か。どうした?」
「いや、何か手伝うことあるかなって思って」
「そうか。ありがとな。でも大丈夫。荷物って言ってもこれだけだから」
そう言ってハルちゃんは、そばに置いてあった大きなドラム缶型のバッグを叩いて見せた。
「ならいいんだけど。あのさ、」
「うん?」
すすすと部屋に入り、畳の上にかしこまる。
「さっきはごめんね。俺、余計なこと聞いちゃったみたいで」
「おばさんになんか言われたのか」
「うん。空気読めって」
「いいよ。別に気にしてないから」
ハルちゃんが笑って許してくれたからよかった。と同時に俺の中で「何でお母さんと喧嘩したの?」という疑問が浮かんだ。もちろんさっき母ちゃんに怒られたばかりだから口にする気なんてさらさらなかったんだけど、ハルちゃんにはわかったらしい。
「性転換手術をしたいって言ったんだよ」
今のは聞き間違いだろうか?
「何だって?」
「性転換手術をしたいって言ったんだ。したら家のババアがキレてさ。両手に皿持って投げつけてくんだよ。親父と姉貴たちが止めてくれなかったら、たぶん顔中傷だらけだったよな。で、逃げ出してきたってわけ」
「それって何処までが本当の話?」
俺がそう聞くと、ハルちゃんは平然と、
「全部本当の話だけど」
と言った。
「あ、そう」
いきなりそんな話されて「そうなんだー」と納得できるほど俺の頭は柔らかくない。
聞き慣れない言葉もいくつかあった。性転換、ババア、両手に皿……ババア?
「ハルちゃん、自分のお母さんのことをババアなんて言うのはよくないよ」
「そこを突っ込むのか」
「いや、他にも聞きたいこと、言わなきゃいけないことがたくさんあるってのは解ってるんだけど、今、何かそこがすごい気になった」
だって普通自分の母親のことババアなんて呼ばないだろ。
「ていうか、それより何で性転換? そんなこと言われたらおばさんもびっくりするし、怒るのも当たり前だよ。気まずくなる前に謝った方がいいよ」
「何で俺が謝らなきゃいけないんだよ?」
少し、ハルちゃんの声に怒気が混じったのを感じて、たじろぐ。
「だって、喧嘩の原因はハルちゃんにあるみたいじゃない? 性転換手術したいだなんて、きっと大変なことだと思う。そんな軽々しく冗談みたいに言っていいことじゃないんじゃないかな? それに、ハルちゃんは女の子じゃない。せっかく女の子に生まれたのに、わざわざ手術してまで男になる必要ないんじゃないかーって。そんなこと言ったらおばさんも怒るし、悲しむのも当然かなって」
「お前にはわかんねーよ」
ハルちゃんが真っすぐ俺を見る。ハルちゃんの目は怒っていた。ハルちゃんはそっぽを向いて、それきり何も言わなかった。