15
このまま普通に教室に入って、また倉本に何か言われるのを恐れて、本当に具合が悪いわけじゃないのに保健室へ行った。まだ授業が始まるまでに時間があったし、保健室の先生とは顔馴染みだから、少しくらいならお邪魔していても文句は言われないだろう。
「あれ、海生」
保健室前まで来るとちょうどドアが開いて中から花菱が出てきた。
「おはよ。朝から保健室に来るなんてどうしたの? 具合でも悪いの?」
「ちょっとな。そういう花菱はどうしたんだ?」
「鬼ごっこしてたら転んじゃってね」
「ほらっ」と学ランの袖を捲り、花菱は腕に貼った絆創膏を見せてくれた。
「走ったら暑くなるからって、上着脱いでやったのが逆によくなかったみたいで」
「何で朝から鬼ごっこ?」
「遊んでたわけじゃないんだよ。朝練してたんだ」
「朝練て?」
まさか生徒会の?
「やだなぁ海生、部活の朝連に決まってるじゃないか。生徒会が何で朝練に鬼ごっこなんてやるのさ。そもそも生徒会が朝練するのだって変でしょ。何の練習するのさ」
「そうだよな」
「海生ってば本当に面白いんだから」
俺からすれば花菱のがよっぽど面白い……というかおかしいけどな。
「花菱って何部だっけ?」
「剣道部だよ」
「剣道部? ってあの剣道部?」
「たぶんその剣道部」
俺が聞き返すと、花菱は頷き、照れたように笑いながら、
「僕ね、こう見えても実は副部長なんだよ」
と言ったものだから、俺は次の言葉が出てこなかった。
だって中学生活二年目ももうすぐ終わりってこの時期に、この学校に剣道部があるなんて初めて知ったうえに、ドジで間の抜けてる天然・花菱が副部長やってるなんて聞かされたんだ、そりゃ言葉を失うのも当然だろう?
「剣道部、あったんだな」
「あったんだよ。部員は四人しかいないけどね」
「四人?」
「剣道部は超弱小運動部でね、二年生三人と高等部の先輩一人しかいないんだ。四人だけだから試合にも出られないし、試合に出られないとやる気も出ないから、活動は週三日、体力作りていう名目で鬼ごっこやかくれんぼしてるんだ。そのせいで僕もしょっちゅう関口先生から嫌味言われてるんだよ」
そりゃまぁそうだろうな。真面目に練習するならともかく、遊んでばっかりいるんじゃ関口じゃなくても嫌味を言いたくなる。
「よく廃部にならないな」
「部員四人中、二年生の三人が生徒会役員だからね。僕たちが抗議すればさすがの関口先生も余計なことは出来ないよ」
「……さようでございますか」
恐るべし生徒会もとい剣道部。しかしそういうのって職権乱用にならないのか。
「でも勘違いしないでね。剣道部の活動費用はすべて部費でまかなってるし、予算は一銭ももらってないんだから」
気の抜けた顔の花菱が珍しく真面目な顔で言うから、これは本当の話なんだろう。
「わかってるよ」
「ならいいんだ。生徒会がズルしてるって思われたら嫌だしね」
「大丈夫、そんなことは思ってないから」
そんなことは思っていないけど、倉本の話を聞いたあとだから、生徒会の印象がちょっと変わった。たぶん悪い方に。
「で、海生はどうしたの?」
「何が?」
「何がって保健室に来た理由だよ。怪我でもしたの?」
「いや……別に意味はないんだ。始業までまだ時間あったから暇つぶしに」
「保健室は暇つぶしする場所じゃないよ」
ニコニコ笑顔の花菱にやんわりと咎められ、本当に暇つぶしに来たわけじゃないのに何だか悪いことをした気分になる。
「ごめん。でも本当は違うんだよ」
「違う? じゃあやっぱり具合が悪いの?」
「そうじゃなくて、」
どうしよう。花菱に倉本のこと話していいものか。倉本にこんなひどいこと言われたんだって言ったら、花菱は嫌な気持ちにならないかな。
「もしかしてレオと何かあった?」
「え? ……えぇ!?」
「あ、やっぱりそうなんだ」
「何でわかった?」
「海生なんだかすごく疲れたって顔してるから。昨日の昼休みも、放課後も、レオの話をしてるときは、だいたい疲れたって顔してたから、そうなのかなぁって」
「すごいな、花菱」
鈍臭くて間が抜けてて天然でどっかずれてる空気読めない奴かと思ってたのに、見てないようでちゃんといろいろ見てたんだ。剣道部副部長の名も伊達じゃないな。
「レオに何を言われたの?」
「何ってわけでもないんだけど……簡単に言うなら、突然現れて脅されたかと思ったら一方的に不愉快な話をされてよくわからない忠告とやらを受けてお礼の言葉もないのかって言うからお礼を言ったら怒られたんだ」
「ああ、そうだったんだ」
俺の話を楽しそうに聞いていた花菱は、うんうんと相槌を打ち、そして口元に笑みを浮かべたまま、首を傾げた。
「ごめん、話がよくわかんない」
「だよな。きっとこんな曖昧で訳のわからないことを簡単に言おうとしたのが間違いだったんだよな」
だけど、何から説明をすればいいのやら。
「えーっと、朝、昇降口で桜井に会って、職員用トイレでちょっと話をしたんだ。話の内容はたいしたことじゃなかったんだけど、倉本が偶然俺たちがトイレに入るのを見ていて、何か人に言えないような秘密の話をしてるんじゃないかって勘違いして、トイレの前で待ち伏せして。桜井が出てきたところを声かけたのに無視されたからその腹いせ……かどうかは知らないけど、先生のフリをして俺の腕後ろから捻りあげてトイレで何をしていたか言えって脅されたというか、なんというか……」
「それはきっと海生のことをからかいたかったんだよ」
「本人もそう言ってたよ」
「じゃなかったら、職員用トイレに入ったことを注意したかったのか」
「だからってもう少しやり方があるだろ」
「もしくはレオは海生のことを心配してトイレの様子を伺っていたとか」
「それは絶対にない」
心配してる人間の態度じゃないだろ、あれは。
「わからないよ。レオって実は心配性なとこもあるからさ。レオはあんまり桜井くんのこと知らないはずだし、怖くて悪い人だって誤解してるかもしれないし。海生のことを気にしてトイレの様子を伺っていたのに、桜井くんも海生も何事もなかったように出てきたから拍子抜けしちゃったんじゃないかな」
言われてみれば確かに桜井に何かされたんじゃないかって、けっこうしつこく聞いてきてたな。俺のこと心配してたわけではないと思うけど、やけに桜井のことを気にしてた。
「倉本って、桜井のこと嫌いなのかもな」
「レオがそう言ったの?」
「はっきり嫌いとは言わないけど、桜井に失礼なことばっかり言ってたよ。あいつは嘘を吐いて、何かを隠してるとか、俺のことを利用しようとしてるとか」
あ、また余計なことを言っちゃったかな? と思ったが、花菱は別段気にした様子もなく、「それから?」と話の続きを促した。
「あとは、正体を暴くとか制裁を加えるとか。巻き込まれたくなかったら桜井とは距離を置けとか」
「それは怖いね」
怖いねといいながらも花菱の顔は笑ってる。
「俺が気分悪いなぁて言ったら、せっかく忠告してやったのにお礼の言葉もないのかって嫌味言われて。気分悪いなら保健室にでも行けばって言うから、今度はちゃんと心配してくれてありがとうって言ったのに、自惚れるなってまた怒られて……花菱には悪いけどさ、俺にはあいつのよさがわかんないよ」
まだ学校に来て30分もたたないのに、何だかもう1日授業を受けて、放課後の掃除まで終わらせたくらいに疲れた。
「レオは自分から礼の言葉はないのかって催促するくせに、本当はお礼なんて言われても嬉しくないって言うんだ。きっとあまのじゃくで照れ屋だから、お礼を言われると恥ずかしくなっちゃうんだろうね」
「じゃあ、俺が礼を言って何か怒ってたのは照れてたってことなのか?」
「たぶんね。海生にそのタイミングでお礼を言われるとは思ってなかったから、面食らったんだと思うよ」
そういうことなら納得できなくもない、かもしれないし、そんなことないかもしれない。
「桜井くんのことをあれこれ悪く言って忠告したのは、やっぱり海生のことを心配してたからだと思うよ」
「そうか? あいつのことだから、ただたんに桜井が好きじゃないから悪口言いたかっただけじゃないの?」
「好きじゃないからって理由で、意味もなく誰かの悪口を言いたがる人はいるよね」
花菱はにっこり笑って、けど、すごく静かな口調で言った。
「でも、レオはそんなことするような子じゃないよ」
「……ごめん」
笑顔だったけど、花菱はたぶん俺の言葉に気分を害した。倉本のことを悪く言われて嫌な気持ちになったんだろう。
「花菱が倉本のこと庇う気持ちはわからなくもないけど、俺だって倉本に俺や桜井のことあーだこーだ言われるのは気分よくないぞ」
「そうだね。でも、なんの根拠もなく桜井くんのことレオが悪く言うはずがないよ。桜井くんを見て、何かを感じて、それが海生に関わることだったから、忠告とやらをしたんじゃないかな?」
倉本の冷めた目が頭の中に蘇る。
『僕には知ったこっちゃない』と前置きしたのも、『信じる信じないはおまえの自由だ』って突き放すように話したのも、本当は心配してるのに素直になれないあいつのひねくれた性格のせいだってのか?
「花菱は何だってあいつの味方するんだ」
「ん?」
花菱が「何の話?」とでも言いたげに首を傾げる。
「誰が聞いたってあいつがやってることってワケわかんないし、不愉快だし、ひどいと思うぞ。それなのに花菱はいつも倉本は悪くないみたいに言うから」
「そりゃあ僕はレオの友達だから」
恥ずかしげもなく笑顔で花菱はそう答えた。
「友達だからレオのことを信頼してるんだよ。ただそれだけ」
ただそれだけ、って。
「友達のこと信じて味方するのはあたりまえのことでしょ?」
「そうだよ、あたりまえのことだよ。じゃあ、俺はどうすればいいんだよ?」
花菱のいうとおり、倉本が本気で俺のことを気に掛けてくれてたなら、倉本の話は全部本当のことってことだ。それってつまり、桜井は俺を何かに利用しようとしてるってことで、同時に俺に何か隠し事をして、嘘吐いてるってことで。
「花菱がそこまで信頼してる倉本の言葉をもう疑おうとは思わないよ。けど、俺は桜井のこと大事な友達だと思ってる。信頼してる。その桜井が俺のこと騙して何かに利用しようとしてるなんて聞かされたら、どうしていいのかわかんないよ」
桜井のこと信じてるし、これからも信じるって昨日ハルちゃんに言われて、改めて決意した。その矢先に何でこんなことになるんだろう。
「桜井くんはそんな人間じゃないよ」
花菱はいつもと変わらぬ優しい目をして俺のことを見ていた。
「桜井くんが海生を利用しようとしてるだなんて、そんなことあるわけないじゃないか。仮に桜井くんが海生に何か隠し事をしてたり、嘘を吐いてたとしても、たいしたことじゃないよ。誰にだって人に言いたくないことの一つや二つあるだろうし、時と場合によっては嘘をつかざるをえないときだってあるでしょ。海生だってそうじゃない?」
言われてみれば、確かにそういう時もあるかもしれない。
「桜井くんだって同じ人間だもの、そのくらい普通だよ。そう思わない?」
「そうなんだけどさ」
力なく頷き、思わず大きなため息を吐く。
「花菱はなんなんだ? 倉本を信頼してるって言ったり、桜井の弁護したり。花菱はどっちの味方なんだ?」
「僕は海生の味方だよ」
「……は?」
予想してなかった言葉に反応が遅れる。
「レオも桜井くんも自分を守ることを知らない人なんだよ。だからレオも桜井くんも悪目立ちしちゃうんだろうね。だけど海生のことは大事だから、なるべく海生に嫌な思いさせないようにしてるんだ。だから桜井くんは海生に嘘を吐くし隠し事だってする。レオはレオで桜井くんに気を付けろって言いたくなっちゃうんだろうね。それが結果的に海生を傷つけることになっても、自分の印象が悪くなってもかまわないんだよ」
「……花菱の言ってること、よくわかんないんだけど」
「全部わかんなくていいんだよ。とりあえず、海生はみんなから愛されてるってことだけわかってれば」
そう言って、花菱はいつもの無垢な子どもみたいなビッグスマイルを浮かべるから、つられて俺も引きつった笑みを浮かべた。
愛されてるって、たぶんいいことなんだろうけど、何でか素直に喜べなかったり。
「不安になることはないよ。レオも桜井くんも、もちろん僕だって海生の味方なんだから、大丈夫」
「ね?」と花菱に言われ、本当はあんまり納得してなかったけど、頷いておいた。花菱が俺のことを想っていろいろ言ってくれたんだから、これ以上うじうじ言うのはやめよう。それに、
「何か花菱に『大丈夫』て言われると本当に大丈夫な気がする」
「そう? じゃあこれから海生が不安そうな顔してたらいつでも『大丈夫』って言ってあげるね。大丈夫じゃないことでも、大丈夫って言っておけば大丈夫になるってことだもんね」
「いや、大丈夫じゃないことを大丈夫って言われるのはちょっと」
なんか『大丈夫』って言い過ぎて『大丈夫』ってなんだっけ? ていうような変な気分になってきた。
「大丈夫、大丈夫」
「花菱、大丈夫はもう大丈夫だから。それにしても花菱はすごいな」
「何が?」
「倉本も桜井もそんなヤツじゃないって、はっきり否定できるのがさ」
花菱のほうがよっぽど桜井のことを信用してる。桜井だけじゃなくて、倉本のことも、信用して、ちゃんと理解して大事にしている。
「花菱って実は俺なんかよりずっと桜井のことわかってるんじゃないか」
「そうかもしれないね」
花菱は嬉しそうに笑って、
「でも、海生には海生にしかわからないのことがあるんだから。自信持って、これからも桜井くんやレオと仲良くしてやってね」
「うん」
花菱に悪いから言わなかったけど、倉本とはあんまり仲良くしたくないんだけどな……。