11
「あの日、何があったか聞きたい?」
ハルちゃんはいたずらっ子みたいな笑みを浮かべ、俺の目を見た。
「聞いてもいいの?」
「いいよ。別に」
ハルちゃんは何でもないみたいに言った。
「あの日のことを聞いたら、ハルちゃんがどうして男になる決意をしたかわかるんだよね?」
「そうだな」
「俺があの日のことを聞いたからって、誰かが嫌な思いをすることはないんだよね?」
「何の話だよ?」
「だって母ちゃんは教えてくれなかったんだよ」
微かに記憶に残ってる。困った顔をする母ちゃんの顔。
ハルちゃんはどうして女の子をやめちゃうの? ハルちゃんはどうして急にお家に帰っちゃったの? ハルちゃんとは今度いつ会えるの?
何度も何度もしつこく尋ねても母ちゃんは「ハルちゃんはそのうちまた遊びに来るから」としか言わなかった。
頭の悪い俺でも、母ちゃんが何か隠してるってことはすぐにわかった。何で隠す必要があるのか、さすがにそこまでは思いつかなかったけど、あの頃の俺はただ単純に母ちゃんが俺に意地悪してるんだと思って、母ちゃんのことをバカだの意地悪だの散々罵って泣き喚いて困らせたっけ……今更だけど、母ちゃん、本当にごめん。
「母ちゃんはあの日なにがあったか知ってるんだよね?」
「そのはずだよ」
「じゃあやっぱり隠してたんだ」
今ならなんとなくわかる気がする。母ちゃんはハルちゃんに対してなのか、ハルちゃんの家族に対してなのか、はたまた俺に対してなのかはわからないけど、誰かに対して気を遣って本当のことをあえて言わないでいたんだ。
「母ちゃんが隠してたこと俺が聞いても、いいのかな。俺が聞いたことで何かまずいことが起こったり、ハルちゃんやハルちゃんの家族やうちの母ちゃんが何か嫌な思いをしたりとか、そういうことはないのかな」
「そうだな」
ハルちゃんは俺の目をじっと見て、ふっと軽く笑った。
「あの日の約束も忘れてた割りには、予想を遥かに上回る男前に成長したな」
約束。そうだ最後に会ったあの日に俺とハルちゃん、何か約束をしたんだっけ。内容はおろか約束を交わしたことすら俺は覚えてないけれど。
「やっぱりやめるか、この話」
あ、まずい。話が終わっちゃう。
「待って。一個だけ聞きたい」
学校でやるみたいに、勢い良く手を挙げて言ったらハルちゃんは笑って、
「はい、真田くん。一個だけ質問をどうぞ」
「はい、えー、最後に会ったあの日に俺とハルちゃんがした約束って何でしたっけ?」
「さぁ何でしょう?」
「……ハルちゃんねぇ」
真面目に聞いてるんだから、ふざけるのやめてくんないかな。
「こうやって、」
ハルちゃんはおもむろに立ち上がり、正面から俺のことをぎゅっと抱き締めた。と言っても俺のが背も高いし身体も大きいから、首に腕を巻き付けて抱きついてきたって言うほうが正しい。
一瞬なにが起きたのかわからなくてポカーンとしていたら、耳元でハルちゃんが俺の名前を呼ぶのが聞こえて、そしたら急に心臓がバクバク突っ走り始めた。
「ね、海生。約束しよ。いつかね、海生が今よりもっと大きくなって、あたし守れるくらい強い男の子になったら、あたし、必ず海生に会いに来る。だから海生も、あたしのために強くたくましい男の子になって」
ささやくようなハルちゃんの優しい声。ハルちゃんの体温。女の子特有のふわりと甘い香りに、柔らかい身体。意識するなと言われても、ついつい考えてしまう、ハルちゃんは女の子なんだ。俺、女の子に抱きつかれてるんだ。
マラソンしたときみたいに胸が息が苦しくて、身体が熱くて、身体中の毛穴が一気に開いたみたいに変な汗がだらだら出てきて、くらくらとめまいがする。
てか、どうしよう? 俺、どうすればいいんだろう!?
「海生、どうした?」
ハルちゃんがやっと身体を離して、不思議そうに首を傾げた。
「ハルちゃんこそどうしちゃったのさ!?」
突然抱きついてきて、何事かと思ったよ。
「どうもしないよ。海生があの日した約束って何だったっけて言うから、教えてやったんじゃないか。あの日と同じシチュエーションなら海生も思い出すかと思って。場所は違うけど」
「だからって! そんな、何の前触れもなく、抱きつくなんて」
自分で言って、恥ずかしくなってまた身体が熱くなってきた。
「顔真っ赤だぞ。何を焦ってんだよ、これくらいで」
ハルちゃんはいたずらっ子の笑みをうかべながら、俺の頭をくしゃくしゃ撫でる。汗かいてるし、今は触らないでいてほしいんだけどな。
「ハルちゃんにとってはこれくらいでも、俺にとっては焦っちゃうようなことなの」
女の子に抱きつかれたなんて初めてだし、あんなに女の子と接近するのも初めてだから、すごいドキドキした。
「女の子に初めて触った感想はいいから、」
「そういう言い方やめてよ」
「約束、思い出したか?」
「へ? ああ、」
そうだそうだ、ハルちゃんに抱きつかれた衝撃が大きくて、そんな話してたのすっかり忘れてた。
「ごめん、思い出せなかった」
「だろうな」
「俺、そんな約束したんだ?」
「したんだよ。この約束をした時、しばらくこの家に来れなくなるってわかってたから、長く会えなくなる口実を何か考えなきゃって思って」
「咄嗟に思い浮かんだのがこれだったんだ?」
「咄嗟に、ていうのとは違うかな? 言うべきタイミングだから言ったって感じ。『あたし、海生としばらく会えなくなるんだ』て言った途端に『やだやだやだー!』て泣き出したから、たまりかねてな」
ハルちゃんがにやりと笑って俺を見上げてきたが、俺は「あははー」と乾いた笑いで誤魔化した。情けなさすぎだよ、俺。小さかったから仕方ないかもしれないけどさ。
「あのた海生がこんなに大きくなってる思わなかったから、昨日お前を見た時には驚いたよ」
ハルちゃんはそう言ってくれたけど、実際はどうなんだろう。
ハルちゃんよりずっと大きく、ハルちゃんを守れるくらいに強く逞しい男の子か。クリアできたのは「ハルちゃんよりずっと大きく」くらいじゃないか?
「そんなことねーよ。海生はちゃんと成長してる。あの頃のチビの海生とは比べものにならないくらい、強くて逞しくてカッコいい男になった」
「本当にそう思う?」
「思うって。電車乗り継いで海生に会いに来てよかったって、本当に思ってる」
会いに来てよかった、そう言われると嬉しい反面、また少し恥ずかしくなってきてしまう。ハルちゃんに悟られないよう、「ああ、そう」なんて気のない返事をしておいた。
「そういえば、俺、他にも海生と約束してることあったんだよな」
ハルちゃんがニヤニヤ笑いながら言う。何だか嫌な予感がする。
「どんな約束?」
「僕たちが大きくなったら結婚しようね~って」
ああ、やっぱり。ハルちゃんの顔が笑ってたから、たぶんそっち系じゃないかなと思ってたけど……。
「俺ってばそんな恥ずかしいこと言ったんだ」
「言ったんだよ。海生、あの頃は俺のこと大好きだったからなぁ。どこ行くにもついてきて、俺の姿が見えなくなると、不安がって俺の名前を呼びながら泣いてさぁ」
「全然覚えてない」
「人間、都合の悪いことは忘れちまうもんなんだよ」
「なるほど」
俺の場合は都合の悪いこと以外にも、何でもかんでも忘れすぎな気もするけどな。
「そういや、俺の初恋の相手って海生だったんだよな」
「ぬぁっ!?」
また何かハルちゃんがとち狂ったことを言い出したと思ったら、思いがけず変な声が出てしまった。
「別にそんな驚くようなことじゃねーだろ? 海生はあの頃一番俺の近くにいた男の子だったし、俺によく懐いてたしな。可愛くて可愛くて、ずっと側においときたかった。それを恋だと思ってたんだよ。小さい頃なんてそんなもんだろ?」
「そうだね、そんなもんだね」
そんなもんかもしれないけど、ハルちゃんけっこうすごいことをさらりと言ったな。また心臓が変なふうにドキドキしてきた。
「俺もハルちゃんが初恋の相手だった……かも」
「『かも』じゃなくて、そうだったんだよ。プロポーズまでしてきたんだから」
「あ、そうか」
「てか、俺ら両想いじゃん。どうする?」
「どうするって何が?」
や、なんとなく聞かなくてもわかったんだけど、勝手に変な想像して違ってたら恥ずかしいよなぁって思って、一応聞いとこうかなぁって。
「本当に結婚しちゃう?」
「えぇ!? そっちなの!?」
「何がそっちなの?」
「ハルちゃんのことだから、てっきり『付き合う?』とか言ってまた俺のことからかう気なんだと思ってたから」
まさか『結婚しちゃう』なんて聞かれるなんて思わなかったから、『付き合う』って言われても照れたり恥ずかしがったりしないように心の準備してたのに、意味なかった。
「そりゃ期待に添えられず悪かったな」
「いや、全然悪くないけど。でもあんまりそういうこと軽々しく口にしないほうがいいよ」
「何で?」
「例えば誰かと結婚したいって本気で思って告白しても、冗談だと思われちゃうから」
大事なことは本当に大事な場面で言うべきだって、何かで読んだ気がする。
「だから俺なんかにそういうこと言っちゃダメだよ」
ハルちゃんはきょとんと目を丸くしていたけど、俺が真面目に話してるのがわかったのか、柔らかく笑って、「以後気を付けます」と静かに返事をした。
夕飯の後、改めてアルバムを持ってハルちゃんの部屋を訪れた。ハルちゃんに桜井の写真を見せてあげようと思って。
だけど俺が行ったとき、ハルちゃんは部屋におらず、電気は消され、部屋の中は真っ暗になっていた。
台所で洗い物をする母ちゃんに後ろから声をかける。
「母ちゃん、ハルちゃんがいないんだけど」
「ハルちゃんなら出かけたわよ」
「何処に? 何しに?」
「駅前のファストフードだか何処だか。お友達とあう約束をしてたんだって。十時頃までには帰るからって」
「ふーん」
せっかくハルちゃんと二人でアルバム見ようと思ったのに。それに、出かけるなら俺にも一声かけてくれればよかったのに。
「暇なら手伝って」
「暇じゃないよ。宿題やるんだから」
本当は宿題なんか出てないんだけどさ。
母ちゃんに何か言われる前に部屋に戻った。机の上の時計は八と二をさしているから、あと二時間くらいで帰ってくるってことか。
ベッドに横になりぼーっと天井を眺める。
ハルちゃんの友達ってどんな人なんだろう?